第23話 タヌキ
週末のお酒は一週間のご褒美。
酒豪ではないし、嗜む程度だが、翌日の予定を気にせず酔いに身を任せられる時間はまさに至福の時。
ちらちら過る仕事の不安事はその都度飲み込んで、時計を見ないでゆったりと過ごす。
よく冷えたスパークリングワインは、カルパッチョやチーズとよく合った。
いつの間にかボトルが空いて、二本目はもっと甘めのフルーツワインを開けることになった。
絶対に六車の趣味ではないそれの出どころは少々気になったけれど、デザート感覚のとろりとしたのど越しはさらに緊張感をほどいていって、ここが自分の家ではないことも忘れて寛いでしまった。
彼の家を訪ねるのは初めてではない。
けれど勝手知ったるといえるほど入り浸っているわけでもない。
ふたりのデートは大抵行きつけの店で落ち着いてしまうから。
黙々と図面とスケッチブックに向き合う時もあれば、本屋で見繕った写真集を片手にあれこれとアイデアを出し合うこともある。
常に仕事が傍らにあるのは、お互いワーカホリック気味なのでやむを得ない。
指になじむ色鉛筆を握っているときはいい。
自分の世界をきちんと掴んでいる実感が持てる。
六車といても、パーソナルスペースを確保できていると確信できるから。
お互いの一部を共有し合って過ごす時間が、つぐみにとっては何より心地よくて、ちょうどいい距離感だ。
だから、六車の部屋に招かれると落ち着かない。
完全に六車のテリトリーに入ってしまうのが、嬉しい反面物凄く不安でもある。
そこかしこに六車の気配を感じると、安心感よりもまだ緊張感が僅かに上回るのだ。
宅飲みしようと言い出した六車の提案に乗っかったのは、お酒というキーワードがあったからだ。
素面で彼の部屋で向かい合う勇気はまだない。
けれど、いい具合に酔っていられたら妙な緊張に囚われる心配もないと踏んだ。
のど越しの爽やかなスパークリングワインは、飲みやすくてあっという間に酔いが回った。
いつもよりハイペースでグラスを開けるつぐみに、六車は何も言わなかった。
分かっていて言わなかったのか、それすらも気付かないふりをしていたのか定かでない。
確かめるつもりなんて毛頭なかった。
少しずつ揺れる視界と、鈍くなる思考回路。
指先が火照って、まぶたが重たくなる。
ほんの少しだけ、横になりたいな、と思った。
口にしたかも覚えていない。
「・・・」
頬に触れる合皮の感触。
濃いオレンジのカウチソファは、つい先ほどまでつぐみの視線の先にあった。
どうしてそこで眠ってるのあたし。
あの状態で自分でソファまで歩いて、もしくは這って行ったとは思えない。
分かり切った答えに頭を振りたくなる。
そろそろと勇気を出して重たいまぶたを押し上げる。
「・・!!」
つぐみは目を開けたことを即座に後悔した。
まじかに寄っていた六車とばっちり視線がかち合ったのだ。
なかったことにして、瞬時に目を閉じる。
寝てる、起きてなんかない。
見なかったことにしよう。
そうしよう。
必死に言い聞かせて眉間に皺を刻みつつぎゅっと目を閉じる。
眠れ眠れと暗示をかけるつぐみの頬に、吐息が触れた。
「今更タヌキ寝入りしてどーすんの」
呆れたような静かな声音。
少しかすれた六車の声は、彼も酔っているせいなのか。
聞こえなかったことにして目をつぶり続けること数秒。
「つーぐみ」
頬にかかる髪を指に巻き取って、六車が囁いた。
いやだもうその声で呼ばないで。
クリーム色の淡い眠りが、サーモンピンクに彩られていく。
身体は重いし、頭は回らない。
それでも心だけはしっかり覚醒してしまった。
飲み始めたのが10時前だったから、恐らくすでに日付は変わっているだろう。
きっと終電ももうない。
タクシー呼んでまで帰るなんて言えないし、六車だってその選択はさせないだろう。
だから、朝までこのまま二人きり。
どうしろっていうのよ。
どうせなら朝までぐっすり眠っていたかった。
そうしたら色んな居た堪れなさから解放されたのに。
「・・・寝るわ」
もうこうなったらソファ占拠して朝までやり過ごすしかない。
ご丁寧にひじ掛け部分にはちょうどいい厚みのクッションが置かれていて、いい具合に枕になってくれている。
六車が展示会でひとめ惚れして買ったというカウチソファは、リビングのど真ん中を陣取る3人掛けだ。
つぐみが寝転んでも十分にくつろげる。
翌朝の多少の腰痛はこの際だから目をつぶる。
決死の覚悟で言い放ったつぐみに、六車が分かり切ったように言い返す。
「いいけど、ベッドいけば?」
至極真っ当な有り難い意見だ。
「結構です」
まるで訪問セールスを断るかのような勢いで言い返す。
動きたくないとか、面倒くさいとかもっともらしいことを言えばよかった。
「・・過剰反応」
笑った六車がつぐみの額を指の背でこつんと弾いた。
「目を覚ましたこと後悔してるだろ」
分かり切った事言わないでほしい。
叶うなら30分前からやり直したい。
そうしたら華麗にタヌキ寝入りを決めて見せるのに。
僅かに唇が尖ったのは、言い返せない不満の表れだ。
肩までかけてあったブランケットを引っ張り上げたいけれど、六車に逆襲されそうで出来ない。
完全な形勢不利。
せめてもの抵抗で座面に置いていた腕を引き寄せて顔を隠す。
と、六車がその手を掴んでソファの下に下した。
指が床の手前で行き場を失くす。
爪の先を掬い取った六車の掌が、ソファの背もたれに手をついて身を寄せて来た。
一気に縮まった距離に身体が縮こまりそうになる。
そう思ってみれば・・・
つぐみが目を覚ますまでの彼の行動が読めない。
六車の背後にあるローテーブルには、空いたままのワインボトルやグラスがそのまま置かれている。
片づけをした気配はない。
テレビはいつの間にか消されていたし、音楽もかかっていない。
確実に手持無沙汰だろうに。
「俺は、目を覚ますのを待ってたけど」
「・・・何して待ってたの?」
六車も少しうたた寝したんだろうかと純粋な疑問を口にしたつぐみに、六車が驚いたように目を見張った。
「俺がここにいるのに訊くわけ?」
「・・・床に転がしてくれて良かったのに、ソファまで運んでくれてごめんね。重たかったでしょ」
デザインが浮かばず、アイデアを描き散らした紙に埋もれて床で眠ることもままある。
朝日が昇って目を覚ましてげっそりするのは慣れっこだ。
それよりなにより、脱力しきった身体を至近距離とはいえ抱き上げられた事が辛い。
「重かった」
「悪かったわね」
身長と体重は比例するのだ。
モデルでもない限り。
心底申し訳なく思いつつ、それでも可愛げのない口調になってしまうのは六車のせいでもある。
「床に寝かせたままだと、見えにくいから」
「・・なにが?」
明らかに高い位置にあるテレビを見るのに邪魔になるわけでもあるまいし。
背もたれに置かれていた手が、首元でたまったつぐみの髪をかき上げる。
寝起きのせいか、ひんやりとした六車の指が心地よい。
うなじに風が通ると、寝汗を掻いていたことに気付いた。
ホッと息を吐いたつぐみの耳元で、六車が穏やかに告げる。
「寝顔」
「・・・!!見ないで!!」
いい具合に化粧もよれて禿げて酷いことになっている自覚がある。
それでなくても深夜の顔は最低だ。
「だから今更だって。さっきまで酒の肴にしてたし」
美味しいワインもさぞや不味くなることでしょう。
もう冗談なのか本気なのか分からない。
とりあえず、どっちにしても勘弁してほしい。
捕まったままの左手を取り返そうともがいてみたけれど、六車の力は意外な程強くて、少しも緩まない。
もう今の自分がどんな顔しているかなんて、考えたくもない。
「あんたってホント不思議だな。警戒心の塊みたいなのに、俺に触られるのは嫌じゃないんだ」
首筋を行き来する指先は、野良猫を手なずけるように優しく触れる。
つぐみの許容範囲ぎりぎりのラインをうまく綱渡りする六車のテクニックが憎い。
「・・・手、離してよ」
「ベッド行くなら離してもいいよ」
「なら繋いだままでいい」
瞬時に切り返したつぐみに、六車がくつくつと喉で笑う。
「・・・意地悪」
心からの本音だ。
片眉を上げて見せた六車が、指を顎先に移動させる。
爪の先で引っかくように擽られて顔を逸らした隙に、唇が重なった。
マンゴーの味が僅かに残る、甘ったるいキス。
啄んだついでにぺろりと唇の端を舐めた六車が、そのままの距離で囁く。
「子供みたいなこと言うな。こーゆうのを、駆け引き、っていうんだよ」
言い含めるみたい口調に、苛立ちが募る。
そういう駆け引きに手慣れた大人の女だったら、きっといまここにはいない。
「楽しむ余裕なんてないわ」
悔しまぎれの一言に、六車が目を細めた。
「だろうな」
分かっているなら仕掛けないでほしい。
寿命は縮まる一方だ。
「でも、そういうあんた見てるのが俺は楽しいよ」
「さいってい」
「それは、男にとって時々褒め言葉だ」
もはや意味が分からない。
ぼやけた頭で繰り返す問答の合間に、六車は器用につぐみの鎧を剥いでいく。
「それで、どーする?つぐみ」
最終通告に、思い切り視線を逸らした。
「そんなの知らないわ」
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