第20話 通り雨

「あれ、雨降ってきた?」


階下から聞こえて来た津金の声に、つぐみは色鉛筆を動かす手を止めた。


嘘でしょ・・・まさか・・・


朝出かける時はまさに洗濯日和といった青空が広がっていた。


いつもは風呂上りに洗濯機を回す夜干しが多いのだが、今日は珍しく朝から洗濯物を干してきたのだ。


目覚ましより早く目が覚めた自分を褒めたりして、ちょっと悦に浸っていたのに。


眉根を寄せて天窓を見上げる。


「げ・・・」


ガラス窓をはじく雨粒がはっきりと見て取れた。


つぐみの住むマンションのベランダは南向きで、日差しを遮る高い建物があまりないせいで日当たりが良い。


朝日を浴びる生活がしたくて選んだ部屋だ。


だが、セキュリティも兼ねて5階を選んだせいで、雨が吹き込むことが多い。


綺麗に干したニットやパンツたちが雨に濡れていると思うとやりきれなくなる。


久しぶりの有休消化で午後から半休取ってのんびりしようと決めて店に来たのに、今更飛んで帰るのも悔しい。


どうせ家に着く頃にはすっかり湿った洗濯物が待ち受けているんだろうし、ここはすっぱり諦めてしまう方が賢い。


帰ったらもう一回洗濯かー・・・


滅入りそうになる気分を晴らそうと、水色の色鉛筆を握る。


目的なく、気分で紙に色を重ねるのは楽しいし気分転換になる。


無意識のグラデーションが素晴らしくて、仕事に使いたくなることもあるくらいだ。


引き寄せた砂糖たっぷりのカフェオレを一口飲んで、ほっと肩の力を抜いた。


何も考えない休日は、本当に久しぶりだった。


店の内装はほぼ完成して、商品の納品も始まっている。


内覧会の案内状作りも進んでいるし、夏向け商品の制作も順調だ。


パズルのピースが綺麗にはまったときは、すべての事が面白い位するすると進む。


たぶん、小さな小石や溝はいくつかあるのだろうが、勢いがあるのでそのまま滑るように前進してくれる。


サクヤラインのコンセプトは、つぐみにとって初めてのゼロからの挑戦だった。


その土台がきちんと整った今、多少バランスを崩したところで踏ん張り切る事が出来る。


社内の連携と、適切なフォロー、製造元との良好な意思疎通が測れている証だ。


これまで何度もサンプルの段階で不具合が発生したり、希望の色や形が再現されない事が何度もあった。


その度修正を加えて何とか完成まで漕ぎつけて来たのだが、これまでの経験がようやく実を結んで、サンプルの段階でつぐみが求める形がきちんと仕上がってくれたことが大きな要因のひとつだ。


そうしてもう一つは、うまく自分の息抜きスペースを見つけたこと。


壱成が携わったこの店は、いつ来ても極上の癒しを与えてくれる。


一人の時でも、階下から伝わってくる人の気配で完全に隔離されることはないし、話し声はかなり遮ってくれるので集中することもできる。


完全無音の場所では落ち着かないつぐみにとっては絶好の居場所だ。


同じようにクリエイティブな仕事に携わっている六車と、たわいのない会話をしたり、互いの仕事を報告し合うことで、全く違うひらめいきが浮かんだり、アイデアを貰えたりすることもある。


恋愛は刺激になるというが、まさにその通りだった。


自分にとって履き心地の良い、自分の一番好きなものを届けたい。


その基本理念は変わらないが、誰かから見た自分が、少しでも綺麗であるように、という新しい要素が加わった。


他人の視線を意識するとそれだけで気持ちが変わる。


万人じゃなくていい、たった一人に最高に愛されたい。


その為のアイテムとして、新しい靴を生み出したい。


洋服もカバンも、髪型も、メイクも。


皆誰かに見られるものだ。


自分を飾って強くして、前を向いて歩いていくためのものだ。


目的地へたどり着く為の足を包むアイテムが、最強にキラキラしていてくれたら、幸せだと思う。


視線を下げるたび、自分を奮い立たせる特効薬のような効き目を持たせられたら一番いい。


その靴が誰かから褒められるきっかけになれば、もっといい。


階段を登って来る足音で、さっきの会話の相手に気付いたつぐみは、頬杖を突いたままマグカップを手にして、まるで自分の家のように寛いだ表情でやって来た恋人を見上げる。


勿論、午後から休みを取ったことなんて言っていない。


「お疲れ、昼過ぎに来るなんて珍しいじゃない」


「この後打ち合わせ入ってるから、そっちは?」


「午後から休み、決算と開店前にHP回復中」


つぐみの返事に壱成が目を丸くして、ふーんと呟く。


「ほんとは、取引先近くのかつ丼屋に行こうと思ってたんだけど、雨が降り出したから止めたんだ。こっち来て正解だったな」



まじまじと顔を見つめられて、居心地が悪くなる。


見目が良い相手から凝視されるのは落ち着かない。


どうでもいい相手ならまだしも、好意を寄せている相手ならなおさらだ。


「な、なによ、運命的ね、とか言えばいいわけ?」


マグカップをテーブルに置いて、前の席に腰掛けた六車が眉を上げる。


「え?」


ぽかんと呟き返されて、逆に対処に困った。


「え、ってなによ」


「つぐみでもそういう事考えるんだ」


「ちょっと!なによその言い方」


虫の知らせとかいうよりは、ちょっとは情緒的でいいかと思ったのに。


ただの偶然が、運命に思えるのが恋愛の醍醐味じゃないのか。


「いーえ、べーつに・・・」


にやにやしながら六車がつぐみのカップに手を伸ばす。


断りもせず口に運んで、ぎょっとなった。


「これ、砂糖何杯入れたの?」


「・・・3杯」


「なに、ストレスたまってんの?」


「違うわよ、急に甘いものが飲みたくなったの」


どちらかというと、店に置いてあるケーキは甘さ控えめのものが多い。


甘いものが苦手な女性や、カロリーを気にする女性、ケーキに抵抗がある男性でも気軽に食べられるようにという配慮からだが、今日はとことん甘いものが欲しかった。


この雨だし、帰り道に買い物をするのは億劫だ。


天気が良ければ足を延ばして、駅向こうのお気に入りのケーキ屋まで歩こうと思っていたのに。


「まあ、もうちょっと丸みがある方が俺的には嬉しいんですけどー」


マグカップをテーブルに戻して六車が笑う。


慌てて両頬を押さえた。


最近、顎回りがふっくらしてきた気がしていたのだ。


年がら年中甘いものを食べているわけではないが、この時期はとくにどこに行ってもチョコレートの匂いがしてくる。


濃厚な香りと可愛いパッケージに負けない女子はいないと思う。


つぐみの反応を楽しむように眺めて、六車が違うよ、と訂正した。


「俺が言ってるのは抱き心地ね」


「・・・男の人が求めてる理想のラインと、女子が思うラインって違うと思う」


所謂少年漫画のグラビアを飾るような女子の体系が好まれるのだとしたら、つぐみの体系は真逆だ。


胸のふくらみよりも、欲しいのは線の細さだ。


そして、つぐみの場合多少太っても胸に肉はつかない。


「柔らかさは重要だろ?」


「そんなとこに重きを置いてないから」


素っ気なく答えて、再び天窓を見上げる。


ほんのわずかだが、雨粒が小さくなった気がした。


つられるように六車も視線を上げる。


「通り雨だから、止むと思うけど」


「傘持たずに来たの?」


「出かける同僚に駅前まで送ってもらったから」


「濡れたらまずい書類とかないわけ?」


「駅からそう遠くないから、問題ない」


「・・・送って行ってあげようか?この後予定ないし」


視線を下げて微笑んだ六車が、つぐみの指先を捕まえる。


しまった、と思った時には彼の唇が爪の先に触れていた。


「離れがたい?」


したり顔で尋ねられて一気に体温が上がる。


ここで素直に助かるよ、ありがとう、とか言えば可愛げがあるのに。


もう本当に始末に悪い。


可愛げ自体母親のお腹の中に置き忘れて来たあたしが言っても無駄か・・・


視線を合わせるのが気恥ずかしくて、思い切り顔を背ける。


「困るかと思って!」


そうしたら負けだと分かっていても、してしまう。


瞳を覗き込まれるたび、バラバラと自分の武装が剥がされる気がするから。


今更取り繕っても仕方ないとは思うけれど、そんな急に素直になんてなれない。


「お待たせー」


二人の微妙な空気を割くように、階下から津金の声がした。


手に持った大きめのクラブサンドを見つめる六車の視線は穏やかなままだ。


狼狽えてしまう自分が情けない。


「雨、もうすぐ上がりそうだよ?」


気を利かせたのだろう津金の言葉に、つぐみがぱっと顔を上げる。


すかさず六車がもう一度指先を絡め取った。


「どうせ暇なんでしょ?散歩がてら一緒に来なよ」


「暇じゃないです」


勢いで指先を払いのけようとするが叶わない。


津金はにやにやと楽しげな笑みを浮かべて、すぐに階下へ戻って行った。


邪魔はしませんよ、とその背中に書いてある。


六車が小さく息を吐いて身を乗り出してくる。


掴まれた手を六車が引き寄せたせいで距離を広げられない。


今度は手首に唇が触れた。


視線は真っすぐつぐみに注いだままで、六車が決定事項のように言い放つ。


「行くよ?」


「わ・・かったから手、離しなさいよ!」


指先まで熱が走る。


言い放ったはずなのに語尾が震えていて全く威力がない。


つぐみの反応を楽しむように見つめたまま、六車がくすくす意地の悪い笑みを浮かべた。

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