二周目 声豚、豚呼ばわりされることに快感を覚える

「アホ! 声、声って、この声豚が! 死ねばいいのに」


 演技ならあり得るかもしれないが、アイドル声優がこんな風に本気でファンを罵ることはあり得ないことだ。

 俺は表現できない快感を得て、暫く恍惚とした表情をしていた。


 しかし、さすがに大きな声で豚と言っていたので、イベント司会者の人が近づいてくる。


「なぎさちゃん、ファンの方にそのような口調は……」

「いいんです。この人知り合いで、この方が喜びますから」


「本当ですか?」

「はい、ご褒美です」

「では、最後に握手を」


 俺はなぎさちゃんに向けて右手を差し出す。

 すると、なぎなちゃんは右手で俺の右手をパシっとはたいただけで終わってしまった。


 豚と言われてもいいから、握手はしっかりして欲しかった。


 俺が握手している間に後からやってきた人が二、三人いたようで、順番を変わる。

 ちゃんと握手するまでは帰れないと思い、俺はまた列の最後尾に並んだ。


 そして二周目がやってくる。


「はぁあ? 豚みたいに耳だけ発達して目悪いあんた、また来ちゃって、そんなに私に豚、豚言って欲しいの?」

「なぎさちゃんの正体に気づけなかったのは、なぎさちゃんが俺が知っている姿よりも可愛い過ぎたからなんだ」

「!? はぁあ? 豚のくせに減らず口ね! 正直に声しか興味ない、キモい声豚ですって言いなさいよ!」


「お時間です。最後に握手を」


 またしても差し出した手をパシっとはたかれる。

 

 いや、あと八周分あるんだ。

 チャンスはある。


 すると俺の後ろには十人程が並んでいた。

 皆遅れて来たのだろうか。


「おい、今握手会やってる星宮なぎさっていうアイドル声優、声豚って言って罵ってくれるらしいぞ!」

「マジかよ、握手券まだ手に入るかな?」


 近くにいたオタク達がそう話しながら、CDを手に取ってレジへと向かっていく。


 今先頭でなぎなちゃんと話しているぽっちゃり過ぎるオタクの会話にも耳を澄ましてみる。


「ロリっぽい声でこの声豚、キモいんだよって言ってくれないかな?」

「えへへー……えーっとどうしよう、マネージャーさーん?」


 マネージャーさんとの協議の結果、声豚の要望に応えて罵ることになったようだ。

 もはや、握手会なのか何の会なのかわからなくなってきている。


 そして三周目。


「来たわね。あんたのせいで豚、豚罵らなくちゃいけなくなったじゃない! もう終わらせたいから握手券全部出して」

「ああ……」


 握手券を全部回収されたおかげで、持ち時間は八分になった。

 だが、もう俺から話すことはない。


「十枚分買っておきながら悪いけど、もう俺帰るよ」

「何言ってんの? あんたは後八分間も豚呼ばわりされる権利があるのよ」


 もはやこの空間で豚呼ばわり=ご褒美の式ができあがっている。

 恐ろしいことだ。


「罵られるのは悪くないけど、今日はお腹いっぱいだ。それよりもアイドル声優らしい可愛い声の方が聞きたかった」

「たとえば?」

「妹キャラで甘えてくるとか……」


 付き合っていた頃の柚菜はそういうの毛嫌いしていたなと思い出す。


 するとなぎさちゃんは「しょうがないわね」と言いながら、演技モードに入る。


「おにぃ、なぎのことしゅき?♡ なぎのしゅきぴはおにぃだけだよ?♡」

「はぅあっ! なぎさちゃんヤバ可愛い……」


 この一年間で柚菜に一体何があったんだ。

 妹萌えのツボを完全に押さえている。


「なぎ、おにぃのことしゅきでしゅきで触れて欲しくて仕方ないの……。ちょっと寒いからなぎのおてて、おにぃの手であっためて?♡」


 俺は自然と両手を伸ばす。

 それはただのアイドル声優と声豚の握手だったが、俺にはそれ以上のものに感じられた。


 そこからもなぎさちゃんは自発的に色々なシチュエーションで話しかけてくれていたが、俺はもはや頭が全く働いていなかった。


「お時間です」

「豚小屋に戻る時間よ、ばいばーい」

「…………」


 八分間があっという間に過ぎてしまった。

 もう一度周回してみたい気持ちもあったが、握手券が付いている初回限定版のCDは売り切れてしまっていたようだった。


 豚、豚と罵られたことは完全に忘れてしまっていて、なぎさちゃんの可愛い声が頭の中で反芻し続けたまま帰宅した。

 ついでになぎさちゃんが元カノの柚菜だったことも忘れかけていた。


 自宅に帰ってまずすることといえば、手洗いだが、今日は洗わない。

 俺はそのまま自室のベッドの上でなぎさちゃんと握手した手で一人でシた。

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