第九章「赤い気球」-019
声を掛けてきたはいいが、2800の方も何と後を続けて良いか分からないようだ。落ち着き無く周囲を見回すや、途端に頭を下げた。
「ごめんなさい。何でも無いんです」
そう言うと脱兎の勢いで走り出した。
「お、おい。2800!!」
訝る周囲の目も気にせず、俺は2800を追いかけた。『赤い気球』のオブジェから少し離れた場所で、ようやく2800に追いついた。意外と足が速いぞ。彼女。
「どうしたんだよ。何か話したい事があったんだじゃないのか?」
怯えさせないよう、出来るだけ声を潜めてそう言った。
「う、うん。まぁ、ちょっと……」
ようやく話してくれたが、俺の方は向いてくれない。視線をあちらこちらにそらせて、やがて俺の背後へと向けた。
視線を追って気がついた。その先にあるのは、例の『赤い気球』のオブジェだ。
「あれが……。『赤い気球』がどうかしたのか?」
俺もつい先ほど、夢で赤い気球が破裂すると生徒がいなくなる夢を見たばかりだ。正直、あれを見るのは余り気が進まない。
「あの、大した事じゃないんだけど……」
そうは言うが、なかなか切り出せないようだ。仕方ない。俺の方から話を振るか。
「なんか気味悪いよな。あの『赤い気球』。俺もさっき夢に見ちゃってさぁ……」
あくまで話を切り出す為の方便。実のところ俺が見た夢なんてどうでもいい。しかし2800は意外な反応を見せた。
「本当!?」
今までの不安げな表情はどこへやら。いきなり食いついてきた。余りの勢いに俺の方が面食らったくらいだ。
「お、おう! なんか変な夢を見てさ。校舎の中でみんな、外を見ているんだけど。そこにたくさん赤い気球があるんだ」
「それで、みんなはどうなったの?」
これまたかなり切羽詰まった様子で訊ねてきた。
「ええと、それが……。妙な話なんだけど、夢だからなぁ。外に見える気球が破裂する度に、生徒が消えていくんだ」
2800は俺のその言葉に唇を噛みしめた。俺の話の続きを待っているようだが、残念ながら話せるのはここまでだ。
「そこで目が覚めちゃってな」
2800には悪いけど、それで終わりだ。
「そうなんだ」
案の定、2800は嘆息すると、少しがっかりしたように言った。そして気を取り直して、また俺に訊ねた。
「他にも『赤い気球』の夢を見た人って知らない?」
「いや、知らないなぁ」
第一、いちいち他人に夢の話なんて聞かない。それは2800も納得してくれたようだ。
「そうね。そうよね」
自分自身に言い聞かせるかのようにつぶやいた。その反応を見て、俺はピンとくるものがあった。
「なにか変な夢でも見たのか?」
「うん、まぁ……」
言いにくそうだな。言いたくなければ言わなくても良い。そう告げる前に2800の方が口を開いた。
「あのね、ちょっと馬鹿馬鹿しい話なんだけど……」
また俺から視線をそらせつつ話し始めた。
「なんでもいいから話してみろよ。馬鹿馬鹿しく聞こえても、他人に話すだけも気が楽になる」
安易な言葉だと分かっているが、俺にはこういう事しか言えない。2800は曖昧に肯いてから話し始めた。
「最近よく夢に見るの。あの『赤い気球』……」
まぁ、そんな所だろうな。しかし後に続いた言葉は意外なものだった。
「夢の中で誰かが話しかけてくるのよ。『「赤い気球」が無くなった時に、お前もこの学園から消える』って。言い方とかニュアンスとは、毎回違うんだけど、言っている内容は大体同じ……」
ひょっとして『学園』で生徒が消える。消えた生徒がどうなるかを気にしていたのは、その為なのか?
「そんな、ただの夢だろう?」
俺は笑い飛ばしてみせるが、それには若干虚勢も入っていた。先ほども『赤い気球』に関する妙な夢を見たばかりだ。2800の言う事を、安易に笑えない心情もあるのは事実だ。
「それは……。まぁそうなんだけど。ここしばらく、ずっとそんな夢ばかり見ているのよ」
そして2800は嘆息した。
「じゃああの『赤い気球』をしばらく見ない方がいい。あんなの見てるから気になるんだ」
俺はそう言ったけど、『赤い気球』も徐々に高度を上げてきている。もう『学園』中どこからでも見えるようになっていた。顔を上げると見えてしまう。正直、目に入れるなと言う方が無理だ。
しかし俺の無理な提案に2800は力なげに笑って見せた。
「そうだよね。どうしても見なきゃいけないものでもないし。目に入れなきゃいいんだよね」
「そうそう、ただの夢だし……」
そうは言ってみたものの、俺は不安を隠せない。何者かが、具体的に言えば『管理者』が何らかの意図を持って、特定の生徒に特定の夢を見させているのかも知れない。
寝ている時に、コーヒーの香りをかがせれば、夢の中でもコーヒーを飲む。波の音を聞かせれば、海の夢を見るなんて話を聞いた覚えがある。
本当にそうならば常に生徒が『学園』内で寝ているのである。『管理者』としては、任意の夢を見せる事も可能だろう。
もっともどうやれば『赤い気球』の夢を見せられるのかは想像も付かないが。そもそも気球には香りや音もしない。
「ごめんなさいね。今の話はなしって言うか、忘れて。私も星が減って、ちょっと神経質になってるみたい。だから気にしないで。それじゃ」
2800はそう言って話を切り上げると、そそくさとその場を離れて行ってしまった。その時に首から下がっている身分証明書を確認する。
星は一つのままだ。
神経質になるのも無理からぬところだろう。
さて、俺も校舎に戻るか。『赤い気球』の所には、時折、生徒が来て物珍しそうに見上げているが、特に何か変化がある訳でもない。生徒は上空を一瞥して『赤い気球』が相変わらずそこにある事を確認すると、各々自分の用件に戻っているようだ。
そんな生徒たちに『赤い気球』の夢を見た事があるかと確認したい欲求に襲われるが今は止めておこう。
2800の耳に入れば、彼女も気にするに違いない。
校舎へ戻りかけた俺は、あの事を思い出した。
寝る前にグラウンドの隅に書いたメッセージ。グラウンドの上に敷いてある細かい砂を、スニーカーのつま先でかき分けて描いた『だれだ?』のメッセージ。
何か反応があるだろうか。寝ていたのは、体感で4、5時間という所。誰かがいたずらした可能性もあるけど、取りあえず確認してみるか。
俺はメッセージを書いた、グラウンドの隅へ向かった。
実のところ、そんなに期待はしていなかった。こんな事、誰でも思いつく。試した人間も少ないはずだ。
『管理者』が何かをしているにせよ、簡単に尻尾を出すはずがない。
そう思っていたのだ。
だからグラウンドに俺が描いたメッセージが見えてきた時、思わず歩を早めた。
おいおい、嘘だろう!? 自問しながら駆け寄る。
「マジかよ」
最後には思わず声に出してしまった。スマホがあれば四方からその光景を撮影していたのは間違い無い。
俺が『だれだ?』と描いたメッセージは残っていた。しかし残っていたのは一部だけ。
『だれだ?』の後ろ二文字、つまり『だ』『?』が消されていたのだ。そして別の文字が書き加えてあったのだ。
筆跡というべきなのか。足で砂をかき分けて記した文字でも、個人の癖が出る。その点では、この文字は明らかに俺自身が書いたものではなかった。
そこには『だれでもない』とあった。そうだ、別人によって『だ?』の二文字が消され、『でもない』の四文字が加えてあったのだ。
「誰でも無い……!」
そういう事なのか……!?
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