第九章「赤い気球」-018
夢を見ていた。
夢の中でも俺は『学園』にいる。しかし不思議とこれが夢の中の出来事だと認知できる。所謂、明晰夢という奴だ。
『学園』内の光景はいつもと変わりない。明晰夢と認識している俺は、何か記憶を失う前の手がかりが夢の中に無いかと探し回っていた。
しかし『学園』内の生徒の顔はよく分からない。それもそうだ。夢で見ている、関わり合いのない人間の容姿など、いちいち認識しているはずもない。
明晰夢と言っても、見る物をすべて自分の意思で決められる訳では無い。そもそも決められるのならば『学園』の夢など見たくもない。
夢の中で俺は『学園』内をあてどもなく歩き回っていた。どこへ行こうとしているのか、俺自身にも分からない。それに夢の中の『学園』は、実際のものよりもかなり広い感じだ。むしろ迷宮のようにも思える。
生徒の人数も多いようだ。
どうせ夢の中だと思い、俺は気の向くままにあちらこちら歩き回っていた。突然、目の前が大きくひらけた。
ガラス窓だ。大きなガラス窓が目の前に広がっていた。さすがに一枚ガラスとはいかず、窓枠が着いているのが無駄にリアルだ。
その大きなガラス窓の前で、たくさんの生徒が外を眺めていた。ちょうど映画館で上映を待つ観客のようだ。
夢の中だからなのだろうか。誰の声も聞こえない。生徒たちは喋っている様子はあるのだが、声が聞こえないのだ。
不思議な静寂。その中で生徒たちは、大きな広い窓ガラスの向こうに、何かが現れるのを待っているようだった。
それは突然、現れた。
風船だ。いや、風船にしては大きい。これは気球だろう。まん丸というよりは、下方向に引き延ばされた格好になっているのも気球っぽい。
そうだ、これは……。校庭の片隅にあったあの『赤い気球』オブジェそっくりだ。窓ガラスのすぐ側でも無く、はるか地平線の方でも無く、それなりに大きく見える距離だ。
そんなに俺は、あの『赤い気球』が気になっていたのか。そう考えていると、意外な事に気球は、二つ三つと続き、さらに姿を増やしてくるではないか。
なにしろ夢の中だ。下から上がってくる、最初から地上に置いてあるわけでもなく、次から次へと上がっていく。
やがて広い窓の外は、赤い気球で一杯になった。
その時だ。一つの赤い気球が、まるで風船のようにぽんとはじけ飛んだ。それを皮切りに、空中に浮かんだ気球が、次から次へとはじけ飛んでいく。それでも気球の数は減らない。
あとからあとから、新しい気球が上がってくる為だ。
そのうち俺は妙な事に気づいた。気球を眺めている生徒の数が減ってきているのだ。
窓の外で気球が一つぽんと弾けると、内側でそれを眺めている生徒が一人減る。そんな感じなのである。
やがて気球は連鎖するように、どんどんと続けざまに弾けていった。もう後から新しい気球が上がってくる事は無い。
気球が無くなり、窓の外には青い空と緑の森が広がるようになった。その頃に残っている生徒は俺ともう一人だけになっていた。
女生徒だ。誰だ? 彼女は俺の方を振り返った。2800じゃないか。
2800はあの『赤い気球』のオブジェを見上げていた時のような、不安を隠しきれない表情のまま、俺とは目を合わせずにその場から去って行った。
反射的に俺は2800を追いかけようとしたが、それに気づいて思わず足を止めた。
最後にまた赤い気球が一つ上がってきたのだ。それも今までのものよりかなり大きい。広い窓の外を完全に占領しており、青い空も緑の森ももう見えないくらいだ。
いまこの場に残っている生徒は俺一人……。
やばい、やばいぞ!
夢の中の俺はそう感じていた。
あの気球が破裂したら、消えるのは俺だ。
夢の中の俺と、これを夢だと醒めて見ている俺。二つの意識がせめぎ合っていた。夢の中の俺は、気球が破裂する前に逃げ出さないと慌てているのに、これが夢だと分かっている俺は何も起こらない事を確信している。そんな妙な状況なのだ。
しかしこれが夢だと分かっている俺も完全に状況を理解している訳でもない。
あの気球が破裂したら、夢の中の俺は消えるのか? 消えたらこの夢はどうなるんだ? 醒めるのか? まだ続くのか?
そう考えているうちに気球は破裂した。次の瞬間、俺は目が覚めた。
◆ ◆ ◆
辺りを見回す。いつものカプセルベッドの中だ。慌てて外へ出る。就寝施設の中はいつも通り。男子生徒が数人うろうろしていた。
良かった。夢だ。
それは分かっていたのに、俺は胸をなで下ろしていた。
正確な時計がない、時刻が存在しない『学園』だ。何時間寝たのかもはっきりとは分からない。二度寝しようとまた横になったものの、どうもあの夢が気になって寝付けない。
そもそも昼も夜もない空間だ。律儀に寝ている事も無い。俺は起きる事にした。
生活棟から出て最初に向かったのは、あの『赤い気球』のオブジェの所だ。夢の中の出来事とはいえ、やはり気になる。
すでにそこには数人の生徒が居た。男女の比率も半々くらい。寝る前には居なかったはずなのにな。
俺は手近に居る男子生徒へ声を掛けてみた。
「何かあったのか?」
数度顔を見た事がある程度の男子生徒は、俺を怪訝な目で見ながら答えた。
「いや、別に」
「また高くなったとかか?」
俺がそう水を向けても、男子生徒は何か釈然としない顔で首を傾げるだけだ。
まぁいいか。俺は改めて『赤い気球』のオブジェを見上げた。特に変わった様子はない。さらに高くなった様子も、今のところ感じられない。
そうだな、夢だよ。ただの夢。
俺は自分にそう言い聞かせながら、校舎へ戻ろうと振り返った。その視界に彼女が入ってきた。
2800だ。今し方、校舎から『赤い気球』の所へ来たようだ。俺と目が合うなり彼女は、ちょっと驚いたような表情を浮かべたが、小さく会釈してから『赤い気球』のオブジェを見上げた。
その表情は夢の中で見た、あの不安げなものへ変わっていた。
どうにも気になる。表情から察して、2800は好きで『赤い気球』のオブジェを見に来ている訳でも無さそうだ。
それなのにどうして『赤い気球』の所へ来ているのだ。2800から相談を受けた身だ。少し声を掛けてみるか。
しかしいざとなるとどう切り出して良いのか分からない。言い淀んでいると『赤い気球』のオブジェから、視線を下げた2800の方から先に俺に声を掛けてきた。
「あ、あの。6960……」
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