第九章「赤い気球」-017

 俺は管理委員長の4761から、うまく丸め込まれそうになったので、なんとか取り繕ってその場を離れた。


 あのまま話を聞いていたら、4761から管理委員選挙への立候補を承諾させられそうになったからだ。


 その足で、4761の言うところの『美術閲覧室の魔女』こと9999フォアナインの所へ向かった。


 4761から魔女呼ばわりされている事を教えると、9999フォアナインは笑った。それだけだった。


 管理委員の人数の件を確認すると意外な答えが返ってきた。


「いや、そこまでは知らん。管理委員の人数などには興味は無いからな」


 うん、まぁそれはそうか。俺だって1103ヒトミと知り合って居なきゃ、多分、管理委員の人数なんて興味は持たなかっただろう。


「しかし昔はもっと多かったような記憶もあるし、少なかったような覚えもある。まぁ、その程度の事だ。ようするに現管理委員長の言う通り、人数など大した問題では無いのだろう」


 結局9999フォアナインの言う事が政界なのかも知れない。


 9999フォアナインに訊ねた事は他にもあった。1103ヒトミの言った、お悩み相談室的な生徒のケアシステムの事だ。


 これまた9999フォアナインの返答は意外なものだった。


「勘弁してくれ。どうせ女子生徒の相談相手を私に押しつけようと言うのだろう? それほど暇じゃ無いんだ」


 いやいや、どうみても暇だろう。今もクリムトの画集を眺めているだけだ。


 俺ががっかりしているのを見て取ったか、9999フォアナインはフォローをいれてきた。


「しかし悪い考えでは無いぞ。確かに生徒が悩みを相談するシステムは必要かも知れない。一般生徒が立ち上げるのは無理だろうが、管理委員なら出来るかもだな」


 9999フォアナインはそう言うが問題は『管理者』だな。 


「『管理者』が何か言ってくるかな?」


「分からない。でもこういうシステムは無かった。その一方で誰でも考えつく事だ。つまりそういう話だ」


 なるほど。『管理者』は歓迎しないというのが9999フォアナインの推測か。実際、そうなのだろうな。


「分かった。有り難う」


 俺は9999フォアナインに礼を言うと閲覧室から出て行った。


◆ ◆ ◆


 さて、特にやる事も無くなった。いや、学生の本分という意味では、勉強をするべきなのだが、そういう気分でも無い。


 俺の足は何気なく、あの『赤い気球』のオブジェへと向かって居た。


 今は誰の姿も見えない。見たところ、また少しばかり上へと伸びたようだが、言われなければ気がつかない程度だ。いや、そもそも伸びたというのも気のせいかも知れない。


 そうか、周囲には誰もいないのか……。


 2800との話を思い出し、俺は周囲にのような気配が無いか探ってみた。


 人の気配は無い。声や物音も、離れた校舎から聞こえてくる物だけだ。風もない。


 やはりこの前、感じた気配は気のせいだったのだろうか。 


 目蓋を閉じて見る。そうしてみると、どこに居るのだか分からなくなりそうだ。


 本来、こんな山の中でも風は吹いているはずだ。しかし風らしい風は無い。太陽の温かさは感じるけど、日は傾いている為か、はっきりと分かる程ではない。

 校舎の方から聞こえてくる生徒たちの声で、ここが広い空間だと分かる。しかし山の中なのかどうかは、目蓋を閉じるとはっきりとは分からない。


 しかし周囲に人の気配が無いのも確かだ。


 無駄か。


 俺は目蓋を開けて嘆息した。見上げる『赤い気球』が、また少し高くなったような気がするけど、それも気のせいかも知れない。


 何もかもはっきりとした尺度は無い。みんな『そう思う』『そう感じる』という程度だ。


 正直、疲れてきた。生活棟で一寝入りして休む事にしよう。


 俺は生活棟の方へ歩き出し、そして数歩で足を止めた。


 足下を見る。すでにグラウンドの上だ。グラウンドは堅く押し固められた土と、その上に少し粗めの砂が薄く捲かれている。


 グラウンド整備も生徒の仕事だ。体育の授業の後、グラウンドをならしたり、あるいは表面の砂が薄くなったりした場合、倉庫に保管してある物を捲いたりする。

 雨が降らないせいか、その程度でかなりグラウンドは維持できている。


 そうか、表面に粗い砂か。


 改めてその可能性に気づいた。9999フォアナインは、水でメッセージを書いた例があったと言っていたが、水で無くても良いはずだ。


 むしろこの方がいいかも知れない。水は乾燥すると跡形無く蒸発するけど、雨も降らなければ風も吹かない、この環境ならこちらの方がいいはずだ。


 俺は子供のように、グラウンドの表面の砂を、スニーカーのつま先でかき分けて、模様を書いてみた。


 まず直線を引き、つづいて意味の無い円を描く。


 ちょっと離れて観察する。うむ、いけそうだ。グラウンドの隅なら、あまり生徒もこない。しばらくこの状態が維持できるはずだ。


 念の為、もう少し隅の方へ寄る。コンクリートの歩道ぎりぎりの場所だ。出来るだけ大きい方がいいだろう。しかし余り大きすぎると文字だと分からなくなる。

 その辺の頃合いが難しい。


 さてと思い、スニーカーのつま先を立てて見て思案する。何と書いたものか。


『誰か居るのか?』では、他の生徒への呼びかけに思えてしまうだろう。目に見えない人間が本当に居るとして、そんなに呼びかけるのに良い文面……。


 う~~ん、考えても良い文章が出てこない。あまり考えすぎても本末転倒。向こうに意味が分からない可能性がある。


 ここはシンプルにいこう。


『だれだ?』。漢字で書くと読みにくくなるから、ここはひらがなだな。


 俺はグラウンドの隅にそう書いた。少し離れれば読めるはずだ。これで何か反応があるかどうかは分からないが、しばらく放って置いても面白い。


 俺は満足して一旦、生活棟へ引き上げる事にした。


 幸い生活棟のカプセルベッドは空いていた。俺は適当なベッドに転がり込むと天井を見上げて考えを巡らせる。


 見えない人間。消える生徒。管理委員選挙。なんか色々有りすぎて頭の中が混乱している。

 そもそもいつの間にか、この異常な状況になれてきている自分が恐い。

 いつも日が傾いているのに、それをおかしいと思わなくなっているのだ。俺よりも長く『学園』に居る生徒は尚更なのだろう。


 確かに『学園』から脱出しようとはしなくなるはずだ……。


 そんな事を考えているうちに、徐々に睡魔が忍び寄り俺は寝入っていた。

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