第九章「赤い気球」-012

 俺はそのまましばらくしゃがみ込んでいたが、如何にこの『学園』では時間の概念がないと言っても、いつまでもそうしているわけにも行かない。


 取りあえず生活棟の方へ向かった。


 背後から誰かが駆け寄ってくる気配がする。慌てて振り返った先には、体育の授業という名のサッカーを終えて戻ってくる生徒たちがいた。


 そうだ。人が居るんだ。人の気配がするのは当たり前だ。


 生活棟に入ろうとすると、また誰かが近づいてくる気配がある。ぎょっとして周囲を見回す。食事に来たらしい女子生徒が数人連れだって歩いてきていた。


 俺は少し、いやかなり驚いていたのだろう。彼女たちは俺を怪訝な顔で見ていた。そのうち一人が、他の女子生徒へ耳打ちした。


「ほら、例の……。脱走王!」


「あぁ、あの……!」


 そんな会話が耳に入る。どうやら俺は自分でも知らぬ間に、かなりの有名人になっていたようだ。


 少し人の気配に神経質になりすぎているようだ。食堂に入った俺は、何も食わずに水だけを数杯飲んだ。


 頭を冷やして考えを巡らせる。考えた所で、今のこの状況が変えられる訳でもないのは、重々承知だが、一つ気になる事があったのだ。


『見捨てられた町』の『学園』に居たの気配のような物を感じたのは事実だ。気になる事というのは、もしかしたらか、それに近い存在はもともと、この山の学園にも居たんじゃないかという点だ。


 そうだ。もともと居たんだ。『見捨てられた町』の『学園』同様。でもあちらは生徒数が少ないうえ、霧が濃いからその中を動くを視覚で捉えられたんだけど、この山の中の『学園』ではそういう条件が整っていない。


 そして山の中の『学園』では、生徒の人数が多いから、人の気配を感じたとき、常に誰かしらいる。だからのような存在には気づかなかったとしたら……。


 俺は食堂の中を見回した。そして目を閉じてみる。


 目を閉じても当然、人の気配は感じる。しかしその気配が本当に人間の、目に見える人間の気配なのか?


 かなり近くに寄らないとその気配の数なんて分からない。ざっとあの辺りに一人か二人、向こうに四、五人。そんな程度だ。


 そこにが紛れ込んでいるとしたら?


 俺は目を開けてもう一度、今度はそっと周囲を見回した。近くに人は居ない。当然、近くに人の気配もない。


 だが本当にそうなのか? 俺が気づいていないだけのかも知れない……。


「あー!! くそ!!」


 俺はドリンクコーナーに行ってインスタントコーヒーを淹れ、ブラックのまま一杯飲み干した。


 こんな事を考えていても無意味だ。俺が認識できないのだからどうしようもない。


 しかし……。誰かに相談してみるか。その方がすっきり出来る。


 1103ヒトミか……。『見捨てられた町』でに遭遇しているし、一番、適任なのだろうが、その分バイアスが掛かりそうだ。出来れば外の状況を知らない、この山の中の『学園』に詳しい生徒が良い。


 3788は面白がってくれるだろうが、それだけで相談した所で役立つ結果になるとも思えない。


 そうなると、選択の余地はないな……。


◆ ◆ ◆


「それで私の所へ来たという訳か」


 9999フォアナインは、いつものように美術閲覧室に居た。傍らにはいつも見ているクリムトの画集。しかしそれだけでは飽きると見えて、いま寝転がって見ているのは、小さな判型をしたシャガールの画集だ。


「まぁ、他に意見を聞けるような人は居ないし……。9999フォアナインなら、昔から『学園』に居るから、何か知っているんじゃないかと思って……」


「ふむ……。それで何を聞きたい」


 シャガールの画集を下ろすと、9999フォアナインは、スツールに座り直した。


「いや、だから……。この『学園』でも、そんなの話が無かったのかなと……」


「気配はするのに見えない……。そんな怪談じみた話か?」


「まぁ、そうなるかな」


「う~~ん」


 珍しく9999フォアナインは考え込んだ。しばしの後にようやく口を開く。


「まぁ、そういう怪談のような話はまま聞く。特にそういう怪談じみた話で多いパターンは『退学』させられた生徒たちにまつわる話だな」


「『退学』?」


 俺はオウム返しに訊ねた。『退学』者とは成績が思わしくなかったり、授業に出なかったりで、地下にあるという施設送りになる生徒の事だ。


 1103ヒトミが言うには、一度、地下送りになって帰ってきた生徒は居ないと聞いた憶えがある。


「まぁ退学者はエレベーターで地下送りになるのだが……。中には逃げ回る奴も居てな。大体は『学園』のどこかに隠れ潜む」


「まぁ『学園』は広いからな」


 隠れる場所はそれなりにありそうだ。それに夜も来なければ、雨も降らないというのは大きい。食事も誰か協力者が居れば、パンくらいは食堂から持ち出せるはずだ。

 7750ナナコたちも『学園』内にアジトを作っていた。しばらく管理委員から逃げ延びる事も出来そうだ。


「しかし不思議な事に、そうやって逃げ回っている生徒……。いつの間にか消えてしまうと聞いた事がある」


「消える? どのようにして?」


「分からないな。分からないから、みんな『いつの間にか消える』と言っているんだ」


「それは行方不明という事なのか?」


 9999フォアナインは、いささか自信なさげに肯いた。彼女にしては珍しい態度だ。


「まぁ、そういう事なのだろうな。隠れている退学者に協力している生徒も、いつの間にか行方を見失ってしまったらしい。管理委員も地下へ送り込んだ事は無い。君のように『学園』から脱出した可能性もあるが……」


 そして9999フォアナインは、後の言葉を濁して少し考え込んだ。


「可能性もあるが……?」


 俺が聞き返すと、ようやく9999フォアナインは顔を上げた。


「いや『学園』から脱出するつもりなら、もっと早くそうしていただろう。だから当時の生徒の間では随分と不思議がられた」


 う~~ん、何か奥歯に物が挟まったような言い方だな。しかし今は余り詮索しない方が良いだろう。


「それが俺の言ったとどんな関係が?」


「ふむ……」


 一呼吸間を置いてから9999フォアナインは言った。


「退学者が行方不明になってから、校内でその生徒と会ったという者が居てな。会ったと言っても、実際に顔や姿を見たわけではないようだ。話をしたわけでもない」


 俺は勢い込んで訊ねた。


「まさか……、その人の気配がしたとか?」


「いや、詳しくは私も分からぬ」


 そう言うと9999フォアナインは苦笑交じりで、洋画の登場人物のように肩をすくめて見せた。


「これこの通りの引きこもりだからな。ここへ来る生徒たちの噂話を小耳に挟んでいただけだ。その噂では行方不明になった生徒から手紙が来たとか、壁にメッセージが書いてあったとか」


「手紙? メッセージ? 書く物があったのか!?」


 この『学園』では紙や鉛筆、ペンなど筆記用具は自由に入手できない。その為に手紙はおろか、記録さえろくに取れない。それなのに行方不明になった生徒から手紙が来たのか?


「手紙はよく知らぬが、メッセージは水でグラウンドに書いてあったとかそういう事らしい。そしてその姿を見た人間は居ない」


 なるほど。ホースやバケツなどがあれば、水を持ち出してグラウンドの乾いた土に何かメッセージを残す事は可能だ。雨が降らないのだから、転校を気に掛ける必要も無い。


「行方不明になった生徒は、まだ『学園』内に居た。そういう事か?」


「なんとも言えぬな。単なる悪戯も知れんぞ」

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