第九章「赤い気球」-011

 なにか聞こえた。はっきりとは分からない。しかし人の話し声のようなものが聞こえたのだ。


 それも耳のすぐ側。ぼそぼそと独り言をつぶやくような声だ。


 当然、周囲には誰もいない。遠くの話し声が反響で聞こえてきたというのも無さそうだ。


 気のせいか……。


 俺は深呼吸をしてもう一度、慎重に周囲を見回した。


 うん、何の変化もない。ずっと続く夕方の校舎だ。


 数歩歩いてハッとして背後を振り返る。また人が居る気配を感じたからだ。しかし人の気配は無い。


 そしてまた誰かが駆け寄ってくる気配を感じた。人間、どうしても他人が近づいてくる気配を感じると、その実体が見えずとも反射的に避けてしまうように出来ているようだ。


 俺もまた避けてしまいそうになった。


 そこで俺は理性に言い聞かせる。


 避ける必要は無い! ここには誰も居ないんだ。ぶつかる心配は無い! このまま立っていていいんだ!


 当然といえば当然なのだが、俺にぶつかってくる人は誰も居なかった。いや、気配のようなものも俺の目の前で停まったように思えた。


 おそるおそる手を伸ばしてみる。目の前で停まった気配が人の物ならば、そこに誰かが居て良い場所へ手を伸ばしたのだ。


 特に何かに触れる訳でもない。空気の動きが変だとか、そういう訳でもない。温度も変わりないようだ。


 落ち着け、神経質になりすぎている。ここには誰も居ない。俺一人だ……。


「一人だけだ。そう思ったかい?」


 やにわに耳元でそう言われたような気がした。


「うわぁああ!?」


 俺は思わず飛び退いて振り返る。誰も居ない。しかし聞いた。確かに聞いた……、ような気がする。


 誰かの悪戯か?


「誰か居るのか! 悪戯かよ、おい!!」


 しかし答えは無い。


「分かった、分かった。俺の負けだ。びびったよ。あんたらの勝ちだ。それで良いだろう。出てこいよ」


 やはり答えは無い。


 俺の声だけが誰もいない廊下に響いただけだった。


「見捨てられた町の学園に居たか?」


 ダメ元で訊ねてみるが、やはり答えは無い。


 もう一度、さっき耳元で聞こえた声を思い出してみる。男の声か、女の声か……。考えて見ると、今ひとつはっきりしない。


 甲高い男の声にも聞こえたし、俺たちよりも少し年かさの女性のものにも思える。


 いや、そうなると本当に聞こえたのかどうかも怪しいぞ。周囲が静かだと余計に空耳を聞きやすくなるとも言う。


 空耳、幻聴なのか?


 耳を澄ませてみる。音は聞こえ……、いや何か聞こえるような気がする。


 足音なのか? 誰かがそっと足を忍ばせて歩いているような音。むしろ音というよりは、そういう感覚だ。


 そんな感じがする。それも一人や二人ではない。十人くらいは居るんじゃないだろうかという雰囲気だ。


 目を閉じれば、俺の周囲で十人程度の人間が、悟られぬように足を忍ばせて歩いている。そう言われれば信じてしまいそうだ。


 透明人間というものが存在すると言われれば、今の俺なら信じてしまいそうだ。


 なにしろここへ来てから出鱈目な事ばかり起きている。透明人間くらい居ても今更驚いてもいられない。


 その透明な連中はどこへ向かって居るんだろうか。俺の周囲で足を忍ばせて歩いている気配はある。しかしどちらへ向かって居るのかは今ひとつ分からない。


 今、俺は廊下に立っている。授業を終えて校舎から出ようとしていた所だから、廊下の先には階段がある。


 後ろか? 振り返った。後ろにはもう少し教室が続き、そして壁があった。……いや、一番奥にある教室。そこと壁の間に何か有りそうだ。


 俺はおそるおそるそちらへ歩いて行った。


 周囲の気配は消えたり、現れたり。変な言い方だが、人の気配のというものがあれば、それが消えそうな程度に薄まったり、また濃くなったりという感じだ。


 廊下の奥まった所へついた。一番、奧の教室のドアを開けて中を覗き込んでみたが誰も居ない。授業の準備もしてないようだ。長らく使っていないのか、少々ほこりっぽい。


 そして離れた所から見て気になっていたところ。一番奥の教室と壁の間にちょっとした空間がある。


 本来なら一番奥の教室は壁に突き当たっているはずだ。しかし壁と教室のドアの間は、明らかに不自然で広い。


 教室の大きさ分、広がっているのだとしたら、一番奥のこの教室だけ少し広いという事になるが、中を見た限りではそんな事は無かった。そして教室の奧よりの壁は、廊下の壁よりも手前だ。つまり教室と奥の壁の間には、何かがあるという事だ。


 もう一度壁を見てみる。


「ん……?」


 不自然な隙間があった。それが少し狭いドアのような形になっていた。しかしドアにしてはドアノブなど開く為の設備が無い。


 押してみるが動く気配は無い。引こうにも手が引っかかるような場所も無い。上は屋上。普通に出入り出来るはずだが、入った事は無い。しかし外から見て特別な施設はなかったと思う。そして下は二階。下の階にある奥の教室がどうなっていたのかは見てない。

 しかしすぐ上が屋上という事を考えると、ここがドアになっていて、上下に移動するとも思えない。


 可能性としてはから押す。あるいはにドアノブやハンドルなど、引いて開ける為の設備があるかだ。


 つまり廊下側からは開けられない。


 万事休すだ。


 笑っている? 気のせいだろうか、周囲から感じる人の気配が、俺の醜態を笑っているかのように思えた。


 もちろん、笑い声が聞こえたという訳ではない。しかし教室や外で、何かヘマをやって、それを見た人が自分を笑って見る時は何となく気づくはずだ。


 そんな雰囲気が有った。


 不思議な事にそれほど不気味な印象は受けなかった。俺は周囲に居るその気配へ向かって声を掛けてみた。


「ご覧の通りだ。俺は打つ手が無い。それとも何か、こいつを開ける手立てがあるというのか? あるのなら教えてくれよ」


 当然、答えは無い。俺の声は無人の廊下に虚しく響くだけだ。


「性格悪いぞ、お前ら」


 俺は苦笑して付け加えた。その時だ。に気づいた。


 音……? 音が聞こえているような気がした。高周波とか超音波とか、その手の類いかも知れない。人間の可聴領域を越えるか越えないかと程度。可聴領域には個人差があるというし、聞き取れるか聞き取れないか、ぎりぎりの所なのかも知れない。


 その瞬間、俺の周囲に居た人間の気配は、ゆっくりと消えていった。一斉に消えるというよりは、一人分また一人分と消えていくような感じなのが不気味だ。


「お、おい……」


 誰へとともなく声を掛けるが、当然、返事は無い。結局、最後に残った気配も消えてしまった。


 残された俺は、圧倒的な孤独感を覚えた。


 ここは誰も居ない。俺一人だ。そう思うと、冷たい汗が流れるように感じた。


 俺は踵を返して階段へ向かって走った。遮二無二に階段へ走り、そして駆け下りた。一刻も早く誰か、他の人間がいる場所へ行きたかった。


 校庭に出ると見慣れた午後4時46分の日差しが俺を迎えてくれた。グラウンドにはちらほらだが、運動している生徒の姿が見えた。話し声も聞こえてくる。


 俺はほっと胸をなで下ろして、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る