第九章「赤い気球」-004

 赤い気球を見上げていると、誰かがそれに向かって石を投げつけ始めた。どうやら本物の気球かどうか確かめようとしているらしい。


 何度か投げたが当たらない。しかし標的はそれなりに大きい。そのうちに命中する石が出てきた。


 カチンと言う金属音を立てて石が跳ね返るのが分かる。やはり気球でも風船でもない。金属音を立てたからと言って、金属製とは限らないが、どちらにせよ相当に堅い物質なのは確かなようだ。


 下から支えているのは、俺の腕くらいあるとは言え、一本の金属製の支柱だけなので、上にある気球のようなオブジェは、かなり軽いもので出来ているのだろう。強化プラスチックみたいなものか。金属だとしてもアルミニウムのような軽いものなのは間違い無い。


 何人かの生徒が真似して投げていたが、外れた石が落ちてきて、物騒な事この上ない。


「おいおい、止めろよ」


 そのうち誰かが注意すると、石を投げていた生徒たちも白けた顔をして散っていった。他の生徒たちも銘々、校舎へ戻っていく。


 それもそうだろう。これ以上、ここに居ても何かあるわけでもないし。赤い気球のオブジェが突然、現れた。それだけの事だ。


「はいはい、散った散った」


 管理委員が残った生徒たちを校舎へ帰す。俺もそれに倣って校舎へ戻ろうとした時だ。


 突然、声をかけられた。


「きみ、きみ! ええと0696。0969!!」


 俺の生徒番号を呼ぶ声がした。見回すと別の管理委員の側に、いつの間にか見慣れたある顔があった。


 この人は……。4761、そうだ4761だ。管理委員長の4761。赤い気球に生徒たちが集まっているので、様子を見に来たのだろう。


 考えて見れば管理委員長の4761は、いつも副委員長の女子生徒5865と一緒に居た記憶しか無い。一人でいる所を見たのは初めてか? いや、ひらの管理委員が居るので、厳密には一人ではないのだけれども。


 俺を見つけた4761は小走りに駆け寄ってきた。


「ちょうどいいところで会った。校舎へ戻るのかい?」


 馴れ馴れしく話しかけてきた。


「ええ、まぁ」


 何の用事だろう。少し警戒する俺に、4761はいきなり切り出した。


「4882と2407が、今さっき帰ってきた。ちょうど『カナンの日』が終わった頃だ」


「4882と2407……?」


 生徒番号を言われても咄嗟に思い出すことは出来ない。しかし4761の言うからすぐに想像がついた。


 1103ヒトミと一緒に、俺たちを追いかけて校舎地下のパイプに入っていった管理委員だ。2407は印象が薄いが、4882は最初に会った時、拳銃をいじっていたので記憶に残っている。


 二人はヒトミに先行してパイプを下っていったはずだが、なぜか下にいた俺や3920ミクニ7750ナナコたちとは出会う事無く、行方不明になっていたのだ。


 その後、俺たちが『船の学園』や見捨てられた町を回っている間も、結局は再会できずにいた。


 4761たちは俺たちが何か知らないかと期待していたようだが、生憎とそれには応える事が出来なかった。


「無事なんですか?」


 別に仲が良い訳でもない。しかし気にならないと言えば嘘になる。俺たちが地下のパイプを降りなければ、追ってこなかった訳だし、何かあったらどうしても責任は感じてしまう。


「ああ、無事だ。怪我もない。彼らにしてみれば3、4日の出来事だったらしい」


 またか……。俺は思わず嘆息した。俺たちがパイプを降り、張りぼての町や『船の中の学園』、見捨てられた町を経由して戻ってくるまで。俺の主観では一ヶ月くらい経過しているように思えた。


 しかし4761たち、学園に残っていた生徒たちとしては、一週間くらいしか経過していないようだったという。


『学園』には時計がない。いや、ある事はあるのだけれども、すべてが4時46分を示していて意味が無い。


 時間の計りようがないのだ。眠気や疲れ、髪や爪の伸びる速さなどで体感的に判断するしかない。


 それだから環境が変われば主観的な時間感覚も変わってしまうようだ。


「それで、どこに居たんですか。二人は……?」


「そうだな。……校舎に戻るのだろう? 歩きながら話そうか」


 そう言いながら4671は俺と一緒に校舎に向かいながら、4882と2407が経験した事を話してくれた。


 4882と2407はヒトミに先行してパイプを降りて行ったが、下に居た俺たちとは出くわさなかった。その理由は分からない。


 そして4882と2407の二人は、俺たちが最初に着いた『張りぼての町』にそっくりな場所へたどり着いたらしい。


「……しかし、君たちが見たような住宅街では無かったそうだ。十階建てくらいのビルがいくつも並んでいるオフィス街のようだが、どのビルにも入れなかった。道路もすぐに行き止まりでそんなに遠くまでは行けなかったらしい。そして当然、町はもぬけの殻。誰もいなかったそうだ」


 4671はそう言った。


「4882と2407はそこで3、4日過ごしたんですか?」


「あぁ、何でもビルの間に『学園』の物と同じ自動販売機が有り、そこで飲み物を購入して何とかしのいだらしい」


 すると食べ物は無かった訳か。主観的には3、4日というのは嘘じゃ無さそうだ。一ヶ月、あるいは二週間でも飲み物だけではさすがに厳しいだろう。


「……でも二人が言うには、そこには非常にというか、とにかく異様な景色が広がっていたそうだ」


「はぁ……」


 4671はもったいぶるが、今更、少々奇天烈なものが出てきても驚かない。そのつもりだった。しかし次の瞬間、4671の口を突いて出た単語は、余りにも意外なものだった。


「頭の上に富士山が逆さまに見えたらしい」


「……はぁ?」


 俺は思わず足を止め、間の抜けた調子で聞き返した。


「富士山って……。あの富士山? 日本で一番高い山の富士山?」


「そうだ。他に富士山があるか?」


「……はぁ」


 まあ他に富士山はないな。しかしというシチュエーションが理解できない。


「ええと、それは……。例えば銭湯にあるような富士山の絵が見えたとか……」


「いや、僕も理解しがたいのだけれども……」


 そう前置きしてから4671は慎重に、言葉を選びながら言った。


「頭上一杯を占領するように、衛星写真の真上から見た富士山のような光景が広がっていたそうだ」


「衛星写真? 真上から見た富士山?」


 ちょっと想像が付かない。


「そうだ。町の真上、空に富士山の火口が見えたらしい」


 なるほど。徐々にイメージ出来てきた。人工衛星や宇宙ステーションから、富士山を写した写真というのは俺も見た記憶がある。


 ぽっかりと火口が開いており、季節によってはその周囲に丸く雪が積もっている。そんな光景なのだろう。


「じゃあ、その町の上空には地球が見えたという事なんですか?」


「いや、地球じゃない。富士山だ。そんな高度ではないらしい。富士山しか見えない。その富士山が頭の上、全体に広がっていたそうだ」


「おかしいじゃないですか!」


 俺は思わず叫んだ。


「それだったら日の光は当たらない。真っ暗になるはずです」


「ああ、事実ずっと薄暗かった。日の光は夜明け直後か日の入り直前のように、ほぼ横から差し込んでいたそうだ。そして周囲はビルで囲まれて太陽は直接、見えなかったらしい」


「富士山もですか? 富士山にもそんな感じで日の光が当たっていたんですか」


 俺が訊ねると4671は肯いた。


「そうらしい。それどころか、彼らのいた所から、富士山の周囲にいる登山客も見えたららしい」

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