第九章「赤い気球」-003

 音が消えてからしばらくして、校内放送で『カナンの日』終了のお知らせが流れた。ちょっと待つとドアのロックが自動解除されて、窓の雨戸も開いた。


 俺はドアのロックが解除されるとすぐさま廊下へ出た。


 なるほど、廊下や壁は綺麗になっている……。ような気がする。いや、『カナンの日』前もそんなに汚れていた訳では無かったし、余り綺麗になったという実感は無い。


 しかしそれよりも気になるのは、あの湿った音の正体だ。どういう仕組みか分からないが、廊下や壁を洗浄する機械の音なら、すぐに確認すれば何かの痕跡があるかも知れない。


 俺は壁に触ってみた。特に濡れた感触は無い。湿らせたモップやブラシのようなもので洗浄した後、乾かしているのかも知れない。しかし乾燥機のような音は聞こえなかったので、乾いた布のようなもので拭き取っているのか?


 廊下も見てみる。こちらは確かに綺麗になっているような気がする。だがやはり湿っているような感じでは無い。とはいえ、音がしなくなってから一時間くらいは経過しているだろう。


 廊下や壁も完全に乾いてもおかしくない。逆に言うなら、乾くのを待って『カナンの日』終了のお知らせがあったとも推測できる。


「なにか分かったか?」


 一目散に廊下へ出た俺を追いかけて来た3788がそう訊ねてきた。


「なんにも分からん」


「ははは、そうだろうな」


 3788はちょっとむかつく笑い方をして見せた。その時だ。教室の方から何か聞こえてきた。


「おい、何だよ。あれ」


「さっきまで無かっただろう」


 俺はすぐさま教室の中へとって返した。あの湿った音の正体が気になり、校舎の外で何か変化が起きるなんて考えてもいなかったのだ。


「なんだ、どうしたんだ?」


 俺が教室へ駆け込むと、中にいた生徒たちは窓際に鈴なりになっていた。


「お前、ああいうの好きだろう?」


 生徒の一人が俺の方を振り返ってそう声を掛けてきた。どうやら俺の『厄介もの』好きは、生徒の間ではかなり知られているようだ。


「なんだよ、ああいうのって」


 俺はそう訊ねながら窓際へ向かった。しかし窓にたどり着く前に、それは目に飛び込んできた。


 それは空の青と山の木々が醸し出す緑を背景にして、余りにも目立つ存在だったからだ。


「赤い……」


 そうだ。青と緑の間にぽつんと、だがやけに存在感を主張する赤が一色あったのだ。


「なんだ、あれ。風船か?」


 見た目にはそう思える。空に浮かんだ赤い風船だ。距離は……、かなり近い。『学園』内と思える。


「いや、風船か? 下に何か付いて居るぞ。気球じゃ無いのか?」


 後から付いてきた3788が、俺の肩越しに窓の向こうを見てそう言った。


 確かにその通りだ。真っ赤な風船の下に、何か台形の籠のようなものが見える。そこからさらに下へ、ロープか支柱のようなものがまっすぐに降りていた。


「いや、気球にしては小さいだろう。あれが『学園』内にあるとすれば、到底、人が乗れるような大きさじゃない」


 風船にしてはちょっと大きい。しかし人が乗る気球にしては小さすぎる。それが俺の持った印象だった。


「いや、別に人が乗るとは限らないんじゃないの? 観測用とか宣伝用とか、そういうのにも気球を使うって言うぜ」


 3788はちょっと得意げにそう言った。なるほど、そういう話も聞いた事がある。


「そもそも気球や風船なのか? さっきからぴくりともしてないぜ。風船でも気球でも、風が無くても少しは揺れるんじゃねえの?」


 別の生徒が首を傾げた。確かにそうだ。あの気球はまったく動かない。『学園』のあるこの森というか空間は、ほとんど風が吹かない。気球や風船だって流されないはずだが、中身は流動性のあるガスのはずだ。


 ガスのバランス一つでちょっとは揺れてもいいはずだ。それがまるで空の一点に制止したかのようにぴくりとも動かないのは不自然だ。


 いや、まぁそもそもこの『学園』が永遠の夕方、午後4時46分なのも思い切り不自然なんだけどな。


 そういう事情もあってか、こんな出来事が起きても他の生徒は不審に思わないし、不安にも思わない。悪い意味で慣れっこになってしまっているのだ。


 もっともそういう生徒ばかりでもないようだ。校庭を見ると、赤い気球に興味を引かれたのか、そちらへ向かって行っている生徒も少なからず居る。


「行くかい?」


 俺の意図を見透かしたように3788はにやにや笑いながら言った。


「そうだな。……で、どうする?」


 念の為に訊ねてみた。


「俺? なんで俺が行かなきゃならねえのよ。腹減ったから食堂でなんか食ってくるわ。途中までなら一緒に行ってやってもいいぜ」


 まぁ、そんな所だろうな。恩着せがましい3788に俺は言ってやった。


「なんだよ、それ。小学生じゃあるまいし。俺一人で行くからいいよ」


 そして俺は教室を後にした。


「おつかれ~~」


 間の抜けた声で3788は背中からそう言ってきた。


 なんというか、とらえどころの無い奴だな。悪い奴では無さそうだが、良い奴でも無さそうだ。


◆ ◆ ◆


 校舎を出て校庭を横切り赤い気球の元へ向かう。どうやら校門手前にある花壇の上辺りにあるようだ。すでに生徒が集まり始めていた。


 ざっと見回した所、知った顔は見当たらない。管理委員が何人か来ていたけど、みんなさして親しくない連中ばかりだ。


 ある花壇の真ん中に金属製の支柱のようなものが直立していた。かなり太い。俺の腕くらいはあるだろう。それがまっすぐに上空へ伸びているのだ。


 支柱にそって視線をあげて行くと、案の定、そこには気球があった。


 つまり上空にあるは、実の所、気球ではないようだ。金属製の支柱で支えられた一種のオブジェのようだ。


 例の『スティーブ・ジョブズに憧れているIT起業家』の彫像が、いきなり現れて以来、『学園』内には意味不明のオブジェが突然、現れるようだ。


 俺とヒトミが帰還した『置き時計から蒸気機関車が突きだした』ようなオブジェもその一つ。


 そしてこの『赤い気球』もそんな意味不明のオブジェなのだろうか。


 それにしても『赤い気球』か。誰かの作品にあったような気がする。デ・キリコか? いや、あれは『赤い塔』だったか。今更もう塔はいらないな。『学園』の裏山にある黒い塔だけで充分だ。


『赤い気球』は確かパウル・クレーか。それにしてもこれだけ美術品の知識がある俺は、記憶を失う前には一体、どういう高校生だったのだろうか。


 絵を描いたような覚えはない。すると美術校はおろか、美術部だったかどうかも怪しい。単なる美術オタクだったのだろうか。


 それはさておき、何人かの生徒が花壇へ入り込んで、その金属製の支柱を揺さぶったがびくともしない。


 冗談半分で登ろうとした生徒も居たが、支柱は錆止めらしきペンキが塗ってあるだけで、特に手すりや掴めるようなものはない。登っていくのはつらそうだ。事実、ちょっと登る真似をしただけで、すぐに諦めてしまった。


 真下から気球を見ると、確かにゴンドラのようなものが見える。高さは14、5メートルくらいだろうか。


 高さから察して気球も、やはり本物のように人が乗れるような大きさではない。バルーン部分は直径2。3メートル。ゴンドラは一メートルと言ったところか。


 やはり実用的な気球では無く、一種の、そして風変わりなオブジェだと思った方がいいだろう。


 そんなものが唐突に現れた理由だけど……。うん、正直、考えるだけ無駄かも知れない。

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