第九章「赤い気球」-002

「おいおい、なに叫んでいるんだ」


 俺の行動に興味を持ったのか、3788や他の生徒も寄ってきた。


「いや、清掃をしているんなら、その人に聞こえないかなと思って」


 俺がそう説明すると、生徒の一人が小馬鹿にしたように言った。


「聞こえても返事するわけ無いだろう」


「そうなのか?」


「あぁ、そうだ。噂だと『カナンの日』の清掃や、地下で食事を作っているのは、退学になった生徒だと言うからな」


 自信満々にそう答えた生徒に向かって、俺は重ねて訊ねた。


「退学になった生徒なら、なんで答えないんだよ。元は同じ『学園』の生徒だろう? それなら答えるはずじゃ無いのか?」


「向こうだって顔を合わせにくいんだろうさ」


 そう答えたものの、さして自信は無いようだ。なんだ、結局、生徒の間で噂されているだけ。特に根拠は無いという事か。


 ドアに耳を着け、まだ向こうの様子をうかがっている俺に、3788が訊ねた。


「それで、何か聞こえるのか?」


「足音。あと掃除機かな。機械の動作音みたいなのが聞こえる」


「おお、どれどれ」


 3788と数人の生徒が、壁など思い思いの場所に耳を押しつけた。その中の一人がすぐに口を開いた。


「確かに足音と何か機械音は聞こえるな」


「だろう?」


 そのうち一人がどんどんと壁を叩き出す。


「おい、止めろよ。音が聞こえねえぞ」


 3788がそう抗議すると、壁を叩いていた生徒は恐縮して頭を下げた。


「あ、悪い悪い。壁を叩いたら何か反応するんじゃないかと思ってな」


 しかし壁を叩いても、向こう側の様子に変化はないようだ。相変わらず数人分の足音が動き回り、低く機械音が聞こえてくるだけ。


 ちょっと俺は違和感を覚えていた。足音が何か規則正しすぎるように思えたからだ。掃除をしているなら、もっとせわしなく歩き回っていても良いだろう。それなのにまるで行進しているかのように、規則正しくリズミカルに聞こえてくる。


 まぁ、数人で掃除をしているなら、リーダー的役割の人が居て、その号令で行動しているとしたら、規則正しくてもおかしくはない。

 手早く済ませるならそれが最適だろうし。


 しばらく耳を澄ませていたが、特に変化はないようだ。相変わらず話し声も聞こえない。他の生徒もすでに飽きてしまったようで、壁から離れていた。ドアや壁に耳を付けているのは、もう俺と3788だけだ。


 なんか馬鹿らしくなってきたな。俺がそう思って離れようとした時だ。ドアの向こうから聞こえてくる音に変化が生じた。


 なんだ、これは。音というよりはドアや壁が振動しているようだ。3788も気づいたようだ。壁に耳を当てたまま、俺の方へ向かって言った。


「おい、なんか変だぞ」


「ああ、分かっている」


 俺たちのその会話に、他の生徒たちも壁の所へ来て耳を着けた。


 なんというかうまく表現できないが、廊下と同じくらいの大きなものが通過しているような感じだ。もう足音も機械の動作音も聞こえなくなっていた。


 人よりも大きな、何か大きなもの。しかも音の感じからするとそれは湿っているような。心なしかぴちゃぴちゃとか、ずるずるっという湿度高い系の音も混じって聞こえてくる。


「なんだ、こりゃ?」


 聞き耳を立てていた生徒の中には、露骨に不快感をあらわにするものもいた。それくらい生理的に嫌悪感を抱かせる音なのだ。ちょっと違うが黒板を擦る音には、誰もが嫌悪感、不快感を抱くのと同じようなものだろうか。


 その不快感からか、壁に耳を付けていた生徒たちの何人かは脱落してしまった。しかし俺と3788は我慢してまだ聞き耳を立てている。


「……なんか様子が変わってきたぞ」


 そういう3788に俺は肯いた。


「あぁ、何か喋っているみたいだな」


 そうだ、話し声が聞こえてきた。声の調子から察して話しているのは複数では無い。一人だ。独り言をぶつくさ繰り返しているようだ。


 さすがに壁越しドア越しでは具体的になんと言っているのかまでは分からない。少し甲高い声でぶつくさと延々独り言を言っている程度しか想像が付かない。

 甲高い声だが、なんとなく男の声だと俺は推測していた。意味までは分からないが、口調は女性や小さな子供のような感じでは無い。


「なんて言っているんだ?」


 独り言でもその内容から、壁の向こう側で清掃をしている人間の正体を推察できるかも知れない。


 俺と3788はさらに壁やドアに顔を押しつけて耳を澄ませていた。まるでその瞬間を狙い澄ましていたかのようだ。


「ははっはははは!! はははは!」


 突然、声の主が大笑いした。壁に耳を付けて無くても聞こえる程。現に俺たち以外の生徒もぎょっとして壁の方を見やったくらいだ。


「うわ!?」


 俺と3788は意外な出来事に、思わず耳を離して壁から飛び退いてしまった。


 なんというか、その笑い声も普通では無い。笑い声ではあるが、声の主が心底面白がっている風でもない。抑揚の無い笑い声なのだ。下手な芝居のようにも感じる。


 俺たちが聞き耳を立てているのがばれたか?


 さっと視線を交わし合った3788も、表情からそう考えているのが察せられた。しかし笑い声はすぐに停まった。


 すこし逡巡したものの、俺はまたドアに耳を押しつける。3788も俺に倣った。


 ドアの向こうでは、相変わらず湿り気のある何かが動いている音。そしてぶつくさという独り言。音や声の発信源はゆっくりとではあるが移動して居る。


 俺もそれに合わせて場所を移動しようかと思った時だ。


「はぁあああ」


 さっきの笑い声ほどではないが、また大きな声が聞こえてきた。


「ため息か?」


 俺がそうつぶやくと3788も肯いた。


「そうみたいだな」


 笑い声と違い、こちらのため息には明らかに感情がこもっている。そうは言ってもため息だけだ。もっとも人間、ため息をつく理由などおおよそ決まっている。

 どうしようもない現状を嘆くとかそんな所だろう。


 俺はドアから離れて声と音の主の方向へ移動して、近い所の壁に耳を付けた。


 独り言らしき声は徐々に小さくなり、湿った音もやがて教室の前から去って行った。


 その後、またぱらぱらと足音が少し聞こえたがまた静かになってしまった。


 清掃が終わったのか? それなら『清掃終了』『次の場所へ移動』などとかけ声や指示があるはずだ。


 無言のまま終了というのもおかしな話だ。しかし耳を付けていてもそれ以上なにも聞こえなかった。


 俺と3788は壁から頭を離した。


「なんだったんだ、ありゃあ……」


 何度も首を傾げながら3788は独り言のようにつぶやいた。


「う~~ん、想像するなら……。あの湿った音は廊下や壁を洗う装置。それを操作している人間が独り言を言いながら教室の前を通って行ったという事かな」


 もちろん自信は無い。しかし音だけから察するとそういう結論になる。


「廊下を拭くならモップでもいいじゃん」


 俺たちの話を聞いていた他の男子生徒がそう突っ込みを入れてくる。


「まぁ、そうだな。でも『管理者』の考える事は分からんからな」


「ははは。まぁそうだな……」


 俺の言葉に3788をはじめとする生徒たちは乾いた笑いを漏らした。その笑いは壁の向こうから聞こえた、あの正体不明の、そして何となく不気味な笑い声に少し似ていた。

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