第九章「赤い気球」
第九章「赤い気球」-001
それからしばらく、俺は大人しく過ごした。なにしろ時間の経過が分からない。しばらくとしか言いようが無いのがもどかしい。
もちろんヒトミ本人も行動には注意しているようだ。
そんなわけでしばらくは『学園』から脱出する試みも控え、謎や秘密を探るのも控えた。
感覚的には一ヶ月程だろう。
そうこうしているうちに俺が『学園』に来てから二度目の『カナンの日』を迎えた。『カナンの日』というのは学校施設の整備や清掃、点検をする日らしい。らしいというのは、それを生徒がやるわけでも無いから。そして生徒はその光景を見られないからだ。
『カナンの日』は管理委員会を通じて『管理者』から一方的に通達され、その間、生徒は教室や食堂、生活棟にこもる事になる。
時間は三時間から六時間くらいらしい。その間、食事はおろかトイレにも行けないので、適切な設備の無い施設にこもった時には大変な事になるそうだ。まぁ寝て過ごしてもいいんだけど。
そんなわけで二度目の『カナンの日』。俺はトイレを済ませて適当な教室へこもった。
◆ ◆ ◆
「よぉ。0696」
馴れ馴れしく声を掛けてきた男子生徒がいた。3788だ。俺が最初に『学園』へ来て、初めて入った教室にいた男子生徒。ヒトミに連れられてその教室から出て行く時に、手を振ってくれた生徒だ。
その後も何度か話した事がある。良い奴か悪い奴か、まだ判断は難しいけど、馴れ馴れしいのは確かだ。
「最近、大人しいじゃないか。もう『学園』から脱走しないのか?」
他にも数人の生徒が居る。余り込み入った話は出来ないな。俺はそう考えて適当に濁すことにした。
「まぁ失敗したからな。当面、大人しくしているさ」
嘘は言っていない。
「なるほどねえ。で、どうだったんだ。この前、しばらく居なかったじゃ無いか。逃げ出していたんだろう?」
「ああ、地下をうろうろしていたら結局戻ってきた」
そう説明した。これも嘘はついていない。
この前の脱出行については余り他の生徒に話していない。そもそも話した所で信じて貰えるかどうかは微妙だ。
地下へ行くと町がありました。船がありましたなんて言われても信じられないだろう。
そもそも信じられぬ光景を用意しておき、脱出する意欲を削ごうとしているのかも知れない。
そう言ったのは、管理委員以外で俺が経緯を説明した数少ない生徒
言われてみれば確かに一理あるような気もする。こんな出鱈目な展開。誰が信じる? 信じたところでそれを参考にして、自分も脱出を試みようとするか?
変に正統派の妨害をするよりは効果的かも知れない。まぁそれにしてもかなり手間暇はかかっているわけで、そこまでする事の説明にはならないだろうけど。
「地下には工場があるとか、行方不明になった生徒が働かされてるとか、そんな噂があるけど。本当なのかよ?」
ある意味、工場はあったけど、それを見たのは俺でもヒトミでも無い。
「俺は見てないなぁ。工場。だから当然、誰が働いているのかは分からない」
うん、嘘はついていないな。でも3788は意外と鋭い所を突いてきた。
「ほほぉ、お前は見てないと。すると他の誰かが見たのか?」
「さぁ、知らないな。そういう噂があるのは知っているけど」
俺がそう答えても、3788は意味ありげに笑みを浮かべるだけだ。その時だ。俺にとっては都合良く校内放送が流れた。
「これより『カナンの日』に入ります。全生徒は『カナンの日』が終了するまで、各教室、決められた場所から出ないで下さい。途中、体調が悪くなった場合は電話で管理委員会室まで連絡して下さい」
話を逸らす絶好のチャンスだ。俺は3788に今し方思い浮かんだ疑問をぶつけた。
「なぁ、体調が悪くなった場合は連絡してくれって。実際になんかしてくれるのか?」
「あぁ、なんかその周囲だけ早く終わらせてくれるとか、あるいは一時中断してくれるとか。そういう話だぜ」
そして3788は声を潜めて付け加えた。
「……まぁ、そういうのは女子が多いけどな。だから女子はいつも生活棟や食堂を利用している。あっちの方が色々と設備は整っているからな」
なるほど、言われてみれば教室に残っているのは男子ばかりだ。女子生徒はほとんど生活棟や食堂に行っているのだろう。
そうこう言っているうちにカーテンが勝手に閉まり、教室の窓には雨戸が降りる。いや、雨は降らないのだから、正確には雨戸では無いのだけれども。とにかくこれで教室の外は一切分からなくなったわけだ。
これで本格的に『カナンの日』が始まったようだ。
「『カナンの日』って校内の清掃、整備をするんだろう?」
「ああ」
俺が改めてそう訊ねると3788は肯いた。そんな3788に俺は重ねて訊ねる。
「その清掃や整備をやっているのは誰なんだ?」
もしくは何だな。
「分からないな。なにしろ一般生徒は外を見られない」
芝居がかかった態度で肩をすくめて3788は答えた。俺は無言で立ち上がり、教室のドアの前に向かった。
手を掛け開けてみようとする。しかしびくともしない。そんな俺に3788は離れた所から言った。
「無駄だよ、無駄。絶対に開かない。『カナンの日』だけ、特別な鍵が掛けられるようだ」
俺は3788の説明を聞き流しながら、何か聞こえないだろうかとドアに耳を着けてみた。
「なにか聞こえるか?」
俺の様子を見ていた他の生徒が、からかい半分でそう訊ねた。
「いや、別に……」
「だろうな」
訊ねた生徒はそれで興味を失ってしまったかのように、教室の奥へ行くと椅子に座った。そのまま『カナンの日』が終わるのを待つつもりだろう。
俺はしばらくドアに耳を着けていた。ドアはかなり厚い。音が聞こえてくるのも余り期待できないか。
諦め半分になった時だ。ドアの向こうからかすかに足音のようなものが聞こえてきた。そして何か機械音。大型掃除機の動作音に聞こえない事も無い。
確かに音だけなら掃除をやっているようにも聞こえる。しかし妙なのは足音が数人分はありそうなのに、話し声がまったく聞こえないと言う事だ。
数人で手分けして掃除をしているのなら、手順の確認や場所の割り振りなどの会話は必要になるはずだ。それでなくとも掃除をしているならおしゃべりくらいはしていてもおかしくない。
そもそもドアの向こうにいるのは人間なのか……? 素朴にそんな疑問が首をもたげてきた。
足音は確かに聞こえた。しかしそれは本当に人間の足音なのだろうか? ひょっとしてロボット掃除機の動作音かも知れない。
俺はドアに耳を着けたまま、大声で叫んでみた。
「おお~~い!!」
俺の行動に教室内の他の生徒はぎょっとしてこちらを見る。しかしその間も俺はドアの向こうに聞き耳を立てていた。
もしも足音の主が人間なら、いまの大声で一瞬、足を止めるはずだ。そう考えたのだ。しかし足音が停まった様子はない。
するとやはり人間では無いのか。あるいはよほど肝の据わった連中なのか。また周囲から完全に遮断されたヘッドセットなどを付けて、それでコミュニケーションを取っている可能性もあるな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます