第6話 僕は打ちのめされる
『随分前のことだ。そいつは、ヤコクよりも前にこの近辺を牛耳ってた猫だ』
その猫はイチと名乗り、『俺は人間だ!』と言って威張り散らしていたらしい。最初はみんな、おかしな奴って馬鹿にしていたそうだが、それに対してイチは猫とは思えない動きで周りを圧倒していった。
ほどなくして、ここ一帯の野良猫たちが続々と彼に付き従うようになり、そしてできあがったのが路地裏にある猫の拠点ということだった。
『
『彼は今どこに?』
『わからん。数年前から行方知れずだ』
片桐はある日突然姿を消したのだという。彼がいなくなったことで、もともと対立していたヤコクが彼に代わってこの辺りを牛耳るようになり、今に至るんだそうだ。
『役に立てなくて悪いな』
『いや、十分だよ』
イチという猫に話を聞こうにも、今どこで何をしているのかわからないのではどうしようもない。
だけど、僕には行き先がわかったような気がした。
僕の考えが正しければ、きっと……。
『色々とありがとう』
『行くのか』
『うん、行ってくる』
『そうか、気をつけてな』
スイと別れ、僕は住宅地へと向けて足を踏み出した。
僕が住んでいたアパートまでは、ここまで来ればもうそれほど遠くない。よく見知った道に出ると、ちょうど帰宅時と重なったのか、ついに目的の人物と邂逅した。
『あれ、は……』
その姿を認めた瞬間、僕は言葉を失った。
百六十センチと低めの身長に、中性的な顔立ち。癖のあるショートヘアに、柔らかな雰囲気と相まって、昔から女性と間違われることがよくあった。そんな容姿と一番長く付き合ってきたのは、他でもない自分だからこそ見間違うはずもない。
本当だった。
本当に、僕の体は僕の意志から離れたところで活動していた。
覚悟はしていたけれど、実際に目の前にするとショックはかなり大きい。
「どうした? お腹でもすいたのか?」
呆然と見据える僕に、しゃがんで声をかけてくる。
顎の下を撫でられるが、まったく心地よくない。むしろ不快に思い、僕はその手を撥ね 除けた。爪が当たったのか、手の甲に赤い筋が浮かび上がる。
「痛いじゃないか」
そんな声とともに、すうっと冷めた瞳を向けられた。
背筋が凍り付くような感覚に襲われる。思わず引き下がりそうになるのを僕は必死に堪えた。ここで下がるわけにはいかない。
「だめだろう、もう自分の体じゃないからって傷つけたりしちゃあ」
『……お前、やっぱり』
その一言で確信する。
最初から僕が誰なのかわかったうえで、声をかけてきたのだ。
「思ったより早く来たな、雪城渚」
「そういうお前は、片桐太一か?」
「ああ。その様子だと、どうやら察しもついてるみたいだな」
僕が訊くと、あっさりと首肯した。もはや隠す気もないらしい。
スイから話を聞いたとき、僕はすぐにその答えに行きついた。行方知れずになったのが数年前だったことが引っ掛かったけれど、いずれ人間に戻るのだという彼の発言から可能性は高いと思った。
僕は、片桐太一に体を乗っ取られたのだ。
その方法はわからない。でも何らかの方法で僕を猫にし、そして片桐は僕の体を手に入れた。実際、片桐は今、僕になりすまして人間として過ごしている。そのことが何よりの証だ。
『目的はなんだ? 僕の体を奪って何がしたいんだ?』
「簡単だ、人間に戻ること以外に何がある。その気持ちは君もよくわかるだろう?」
他人の体を奪っておいてよく言う。
「別に君じゃなくてもよかったんだ。でも、ちょうどよく事故で軽傷を負った君を見つけてね。中身が変わっても、事故のせいにすれば多少のことは怪しまれないし」
『ふざけるなよ。このことを知ったからには、僕の体を返してもらうぞ』
「それが残念かな。君はもうこの体には戻れないんだよ」
『そんなはず……』
片桐はその事実をさらりと告げ、不敵な笑みを浮かべてみせる。くらくらと眩暈がした。余裕を見せる片桐を前に、否定しかけた言葉は続かない。
「何なら、ペットとして傍に置いてやろうか?」
『……そんなの、死んでも御免だ』
「だろうね。俺は愉しいけど」
立ち上がった片桐は、もう話は終わったというように歩き去っていく。
対する僕はただその背中を見送ることしかできなくて。それが悔しくて、その場で地面を踏み鳴らした。
『くそ、こんなことってあるのか!』
こんな形で自分の体が乗っ取られるなんて誰が思うだろう。
当たり前に、当たり前の日常が続いていくものだと思っていた。でもそれは唐突に終わりを告げ、予想もしなかった方向へ転がっていく。これこそが現実なのだと、突き付けるかのように。
『……もう、戻れない』
片桐に言われたその言葉を反芻する。
言葉は武器とも言うけれど、確かに今の僕にはそれが最大の効果を発揮していた。戻れないというその言葉だけが僕の中に残り、僕の心に深く突き刺さっている。
その可能性を考えなかったわけじゃない。
ただ、戻れるのだと思っていなければ、信じていなければ、精神的にやっていけなかった。それだけが心の支えだった。そう言ってもいい。
だけど、そんな希望さえも打ち砕かれた今、僕に残されたものは何もない。
『こんなことなら、あの家から出なければよかった……』
真実は残酷で。だから知らない方が幸せなことだってある。
それでも僕は『無知はよくない』って今まで思ってきたけど、こればかりは知らない方がよかったと本気で思った。僕は猫として生きるのだと心に決めて、あの家から出なければこんな思いはしなくて済んだだろう。
『……その方が、よかったよ』
零れ落ちる涙は、雨に流されていく。
いつの間にか降り出した雨が、ザーッと音を立てながら世界を濡らす。
びしょ濡れになりながら、やがて僕はとぼとぼと歩き出した。
目的もなく、行く当てもない。
ただぼんやり歩いていると、ふと横合いから強烈な光が差し込んできた。
目を開けていられないほどの眩い光。
それはまるで、救いの神でも降臨したかのようで。
だから僕は、それが車だということに気づくのが遅れた。
『はは……』
乾いた笑みが零れる。
避けるにはもう間に合わない。神様は僕を人間からこんな状態にした挙句、さらに命を刈り取ろうというらしい。これが僕に対する報いだとするなら、僕は一体どんな罪を犯したと言うのだろう。
『どうだっていいや』
そんなことはもう、どうだっていい。
ここで終わるのだから、考えたって仕方がない。
大体、どうこうしようっていうのが間違っていたんだ。人は思い通りにできないことを思い通りにしようするから、そこに苦しみが生じる。抗わず受け容れてしまうのがきっと正解で。僕の選択は最初から間違っていた。
『まあ、知りたいことも知ることができたしな』
今度こそ死を覚悟した。
だけど、その瞬間。
最期を迎えるはずだった僕の体が、優しい何かに包み込まれて。
「やっと見つけた!」
遠退いていく意識の中で、そんな声を聞いた気がした。
***
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