第5話 僕は彼を知る

『相変わらず、やることがひでえな』


 ピンチに陥った僕の前に現れたのは、綺麗な翡翠色の瞳をした一匹の猫だった。

 まるで人間のように二本足で立ち、颯爽と助けに現れたその灰猫は、元人間の僕から見ても格好いい。僕もこんな存在でありたいと思ったくらいだった。


『よう、パルド。元気にしてたか』

『スイ! テメエ!』


 恨めしげに睨みつけるキジトラ猫に対し、スイと呼ばれた猫は飄々とした態度を崩さない。彼らの間に何があったかは知らないが、二匹は旧知の仲らしい。

 スイは小石を投げつけてヤコクたちを牽制し、僕の傍まで歩み寄ってくる。


『おい、立てるか?』

『……大丈夫』


 全然大丈夫じゃないけど、それでも僕は弱音を吐かなかった。

 力を振り絞り、無理やりにでも体を起こしてみせる。


『よし』


 僕が立ったのを確認すると、スイはどこからか取り出した白い玉を地面に叩きつけた。

 刹那、玉が弾けて白い粉が舞った。

 一挙に広がった粉は視界を埋め尽くし、煙幕となってその場に混乱をもたらす。


『今のうちだ、逃げるぞ!』


 スイに促され、僕は駆け出した。

 殴られたお腹が痛い。それでも必死に走る。先を行くスイが時折こちらを振り返り、僕を待ってくれるのがすごくありがたかった。

 後ろから追いかけてくる気配はないが、それでも走り続ける。駅からほど近い場所にある公園まで逃れた僕たちは、草むらに身を隠したところでようやく一息ついた。


『ここまで来れば大丈夫だろう』

『……ありがとう、助かったよ』


 乱れた息を整えつつ、僕はスイに感謝を伝えた。彼が来てくれなければ、今頃どうなっていたことか。本当に助かった。


『お前、見ない顔だな。名は?』

『ゆきし……』


 思わず雪城渚と名乗りかけて、僕は慌てて口をつぐんだ。

 それを名乗ってどうする。僕は今、猫なんだ。猫らしい名前を言わないと。


『ゆきし?』

『あっ、いや、ナギだ。ナギ』


 訝しげな表情を浮かべたスイに、僕は急いで訂正した。

 飼い主がつけたコハクという名もあるが、それを名乗るのはちょっと違う気がして。とりあえず、僕が人間だった頃に友達から呼ばれていたあだ名を伝えた。


『ナギか。俺はスイだ』


 灰猫の彼は、その特徴的な翡翠色の瞳から〝スイ〟と名乗っているそうだ。もともと彼も飼い猫だったらしいが、飼い主を早くに亡くし、今は野良として自由に過ごしているという。


『見たところ飼い猫みたいだが、迷子にでもなったか?』

『いや、行きたいところがあって……』

『それで、あいつらと出くわしたわけか。そりゃあ災難だったな』


 まったくだ。ここまで色々あったけど、僕は何か悪いことでもしただろうかと問い詰めたくなってくる。神様でも仏様でも、誰でもいいから納得のいく説明がほしいところだ。


『ヤコクはこの辺を牛耳ってるボス猫だ。奴らはあの路地裏にある廃ビルを根城にしてる』

『路地裏にそんなものが……』

『ああ、あるぜ。でっけー猫の世界がな』

『随分詳しいんだね』

『もともと、俺もそこにいたからな』


 そう語るスイの眼はどこか遠くを見据えるようで。

 それを見た僕はこれ以上の追及をやめておく。誰にだって言いたくない過去はあるものだ。


『とにかく、あいつらにはもう関わらない方がいい』

『うん。まあ、人に戻れたら関係ないし……』


 人間だった頃、路地裏に立ち入ったことは一度もなかった。だから元に戻れば、そもそも近づかないようにしようなんて意識する必要すらないわけで。人の身で彼らの世界に踏み込もうとも思わないし、きっとまた猫の世界なんて関係のない今まで通りの日常に戻っていくだけだ。

 そんな風に考えていると目の前にスイの顔があって驚いた。


『今、何て言った?』

『……え?』


 そうスイに詰め寄られ、僕は怪訝な表情を浮かべた。

 わかってない僕に、スイがさらに続ける。


『お前、元は人間なのか?』

『あ……っと……』


 そう追及されて、ようやく僕は自分が口に出していたことに気がついた。気をつけていたつもりだったんだけどな。

 人間に戻れたらなんて言ったら、そりゃあびっくりもするよね。何言ってるんだお前って感じだ。もしかしたら、頭のおかしいやつって思われたかもしれない。

 どちらにせよ、聞かれてしまったからには答えを出さなければ。


『いや、答えなくていい。他人の事情に踏み込みすぎた。すまんな、今のは忘れてくれ』


 考えを改めたのか、スイが僕を制した。

 言われるままに、出しかけた言葉を僕は呑み込む。でもすぐに口を開いた。


『……実は、その。そうなんだ。僕、もともと人間なんだよ』


 答えなくていいならいいで助かるが、彼には助けてもらった恩もある。そんな相手にやっぱり嘘はつきたくなくて、僕は自分の正体についてスイに白状した。

 別に隠していたわけじゃないから、白状したっていう言い方もおかしいけど。


『そうか、お前もか……』


 スイはどこか神妙な面持ちで何やらぼっそと呟いた。

 最後の方は何言ってるか聞こえなかったけど、その妙に落ち着いた反応を不思議に思った僕は彼に訊ねた。


『もしかして、僕みたいな猫を知ってるのか?』

『……ああ。お前と同じことを言ってた猫を知ってる』


 スイの言葉に僕は目を見開いた。

 驚いた。僕以外にも人間から猫になった人がいたなんて。その人から話を聞けば、何か手がかりを得ることができるかもしれない。もしかしたら、人間に戻ることができる可能性も。

 そう思うと居ても立ってもいられず、


『スイ、教えてくれないか。その猫について。何でもいい。どんな些細なことだって構わないから!』

『わかった。わかったから落ち着け』


 詰め寄った僕を、スイが宥めた。

 頭上でさやさやと梢が揺れる音が聞こえてくる。目を閉じて一旦心を落ち着かせ、僕は彼の話に耳を傾けた。




  ***

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