第3話 僕は旅に出る
翌朝、チャンスは突然にやってきた。
玄関が開いている。
そのことに気づいたのは、寝床から起き上がり眠気を噛み殺しながら廊下を歩いていたときだった。話し声がして振り返ると、玄関が開いているのが見えて僕ははっとした。
『その手があったか!』
と、思わず叫んでしまったくらいだ。
何で今まで思いつかなかったんだろう。塀を越えられないのなら、玄関から出ればいいのだ。ペットらしい生き方をしなければと意識するあまり、すっかり頭から抜け落ちていた。
何も別に、猫は塀を超えて外へ行かなければならないなんていうようなルールがあるわけじゃないんだ。堂々と玄関から出掛けても咎められはしない。
ただ、行けるとなったらなったでまた勇気がいるもので。
『……それじゃあ、行くか』
一呼吸置いてから、意を決したように僕は歩み出した。
玄関で話し込んでいる飼い主と来客の足元をするりと抜ける。二人は僕が出ていくのにまったく気づいていない様子だが、それでも少し緊張した面持ちで歩いていく。何も言わずに出かけるなんて、何だか悪いことをしている気分だった。
そんな罪悪感からか、
『いってきます』
と心の中で唱えつつ、僕はいよいよ敷地の外へと足を踏み出した。
思えば、猫になってからひとりで出掛けるのは初めてだった。まるで冒険にでも出発するかのようなドキドキ感。
この家の場所を完璧に記憶しているわけではないが、駅までの道のりはなんとなく覚えている。僕が住んでいるアパートは同じ街にあるのでそう遠くはない。とりあえず駅まで行けば、あとは通い慣れた道順を進むだけだ。
というわけで、まずは基点となる駅に向けて僕は歩みを進めていく。
『おわ……っと』
曲がってきた自転車に轢かれそうになって、慌てて飛び退いた。
死ぬかと思った。迫り来る巨大な車輪は、今の僕にはとんでもなく怖ろしいものに見える。そんな気も知らず、こちらを一瞥し何食わぬ顔で去っていく自転車のおばさんを僕はキッと睨みつけた。
『なんだよ、危ないな』
そんな声は届かない。誰にも。
だから自分が気をつけるしかない。それはわかっている。わかっているけど、それでも避けられないから事件事故は起こるのだ。
例えば、喉が渇いて立ち寄った公園で大きな玉に襲われたり。大玉が転がってくる罠にでもかかったのかと思った。それは結局ただのボールだったのだけれど、猫になるとやたら大きく感じるものだ。
ちなみに、そのあと『あっ、ネコちゃんだー』と子供たちに捕まって、ワキワキワシワシされたときにはまた違う意味で死ぬかと思った。それなのに、悶絶する僕を大人たちは微笑ましげに見ているんだから何とも腹立たしい。楽しくじゃれてるようにでも見えたのだろうか。
そして、繁華街に出ると今度は人に蹴り飛ばされそうになったり、踏み潰されそうになったり。行き交う人々が巨人の進行に見えて、なかなかの迫力だった。かなり怖い思いをしたので、人通りが多いところは二度と行くまいと心に誓ったくらいだ。
そんなこんなで、
『やっと、着いた……』
どうにか駅に辿り着いたときには、僕はもうヘトヘトだった。
視点が低いというのは、こんなにも危険がいっぱいなのかと嫌というほど思い知らされた。こんな冒険を毎日のようにしていたら、命がいくらあっても足りない気さえしてくる。
――『家から一歩出ることは危険なことだ。道に踏み出せばしっかり立っていないと、とんでもないところへ行ってしまう』
そのとき、ふと僕が大好きな物語を思い出した。
外は危険に溢れている。人間だった頃は、いつも通りの毎日を、いつも通りに過ごして。それが当たり前に続くと思っていた。
でも、そうじゃない。
いつどんなことが起きるかわからない。
いつ死ぬとも限らない。
だから、僕たちには今しかないんだ。
この現実に物語の主人公が体験するような冒険はないけど、きっと生きるというのはそういうことなんだ。毎日が死と隣り合わせの冒険で、そんな日々を過ごしているのだということを、僕たちは忘れてはいけない。
――なんて深いことを考えていたら、ぐるるとお腹が鳴った。
締まらないなあ、と思わず苦笑する。
どこかで少し休んでから、何か食べるものを探しにいこう。
***
駅前の木陰で休んでいると、ときどき人がやってきて僕を撫でていく。
中には食べ物をくれる人もいて。試しに円らな瞳でねだってみると思いのほか効力を発揮して、食べ物を探しに行く必要もなくなるくらいに腹は満たされた。
『さて、そろそろ行くかな』
ぐぐーっと伸びをして立ち上がる。最後におっちゃんからもらった煮干しを咥えながら、僕は再び目的地へ向けて出発した。
さっき味わったばかりのトラウマレベルの体験から、人通りの少ない道を選ぶ。
そうして鼻歌交じりに歩いていると、
『おい、テメエ!』
と呼びかける声がした。
誰かがチンピラに絡まれている、かわいそうに――って最初自分が呼ばれているなんて思いもせず、完全にスルーしていた僕の前に二匹の三毛猫が立ち塞がった。 それでようやく自分が呼ばれているのだということに気がついた。
『無視してんじゃねえぞ、おい!』
『うん?』
背後から届いた声に振り向くと、見るからにガラの悪そうなキジトラの猫がこちらを睨みつけていた。目つきはかなり悪い。どう見てもチンピラみたいな風貌だ。どうやら猫の世界にもこういう輩はいるらしい。
『僕?』
『そうだよ、テメエだよ!』
『あー、やっぱり?』
人違い……じゃなくて猫違いということもあるかと思って一応聞いてみるも、そういうわけじゃなかった。残念。
ああいう輩には関わらないのが一番なんだけどな。どうやらそうもいかないらしい。さて、どうしたものか。
***
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