第13話

 それから俺はトレーニングとバイトに明け暮れた。


 最初のうちは毎日のように身体が痛くてたまらなかったが、気付くといつの間にかそう感じることはほぼなくなっていた。バイトも幅広くいろんな雑用をさせてもらえるようになり、少しだが海さんの役に立っていると実感できて嬉しい。


 海さんは、まさにその名の通り、海のように大らかな人だった。 

 バイトの俺のこともよく気遣ってくれるし、みんなが海さんを慕っているのがよく分かる。


 海さんは、俺にとって先生のような、兄のような存在だ。

 バイトで失敗しても、それを隣で笑い飛ばしてくれる。その上、海さんはよく俺を褒めてくれた。いつしか海さんは俺の憧れとなり、俺は海さんの期待に応えるため、ますますバイトに精を出すようになった。それを楽しむ俺の姿を見て、海さんも喜んでくれ、俺たちはより仲を深めていった。


 いつしか海さんのジムは、俺にとってどこよりも居心地の良い場所になっていた。


 莉緒ちゃんとのトレーニングはというと……相変わらずきつかった。慣れてきたかと思えば、回数が増える、スピードが上がる。翌日には、メニューが増える。


 莉緒ちゃんは俺がこなせるギリギリのところを責めてくるのが、本当にうまかった。


 ヒィヒィ言ってる俺をそれはそれは嬉しそうに見つめ、一緒にトレーニングしている。


 いつも「もうダメだ」「やめる」と俺が弱音を吐きそうになる直前に「頑張ろうね!」と最高に可愛い笑顔をくれる彼女は、俺を追い詰める天才だと思う。


 そして、時々ご褒美のように俺にマッサージをしてくれた。そんな時はまるで天使だと思った。


 とまぁ、こんな毎日を過ごして五ヶ月。

 季節だけではなく、色んなことが変わった。


 まず第一に身体つきが変わった。贅肉で覆われていた俺の身体は、かなり引き締まり、豚と雄大に罵られていた頃の面影はない。

 自分ではあまり感じないが、どうも顔つきも変わってきたらしい。とは言え、伸ばしっぱなしの癖っ毛のせいで、もさっと感は変わらないが。


 また、俺の生活もガラリと変わった。学校が終わるとジムに直行し、バイトとトレーニング。終わるのがもう夜遅いので、帰ってきて母親が用意してくれた夕飯を軽く食べて、風呂に入って、寝る。朝は早めに学校に行き、放課後にできない課題などを済ませるようになった。


 バイトを始める前は家にいる時間が長かったので、雄大ともよく顔を合わせていたが、生活リズムが変わってからはあまり顔を合わせなくなった。


 雄大と会わないからか、時間が経って心の傷が癒えてきたのかは、わからないが、前はあんなに悔しくて、惨めで、情けなかったのに、今は毎日が楽しいと思えた。


 確かに二人に馬鹿にされて、由衣に裏切られたのは、腹が立つ。

 だが、今はそうなって良かったとさえ思っていた。あの出来事がなかったら、莉緒ちゃんとこんなに仲良くなることもなかっただろうから……


 俺の中でどんどんと彼女の存在が大きくなっていく。


 そして、莉緒ちゃんからも嫌われてはいないと思う。


 彼女は俺のことを「翔吾」と呼ぶようになった。


 それに、よく俺の反応を見て、遊んでいる。

 他の人とはそれなりに距離をとって話すくせに、俺との距離はやたら近く、俺の反応を見て、楽しんでいる。


 腕に絡みつくのはいつものこと……顔が赤いからと自分の額で熱を測ろうとしたこともあったし、帰りにトレーニングだと称して俺におんぶさせることもあった。そして、俺の動きや表情がぎこちないと容赦なく揶揄ってくる……


 今もまだバイト中で窓掃除をしている俺に莉緒ちゃんは後ろから抱きついてくる。


 「翔吾、今日もお疲れ様!」


 「……うん」


 俺は出来るだけ背中にあたる感触を意識しないように必死で、返事が疎かになってしまう。


 「んもう! 私が来てあげたのに反応わるーい!!」


 「い、今は仕事中だから。……は、離れて」


 そう伝えながら、窓掃除を終えて、ロッカーに向かう。なのに、莉緒ちゃんはより強くしがみつき、その柔らかな身体を俺に押し付ける。


 「いーやーだー! 外寒かったんだから、翔吾であったまるのー!」


 いや、ほんと勘弁してほしい。

 歩きづらいし、ジムの人たちの視線は痛いし、あとで海さんに「莉緒に軽々しく手ぇ出したら殺す」って脅される俺の身にもなってほしい。


 (それに、夜ベッドに入るとどうも感触を思い出しちゃって……ってーー)


 ロッカーに着き、荷物を下ろす。


 「あのさ、莉緒ちゃーーっ!! 冷たっ!!」


 思わず俺は声を出した。いつの間にか莉緒ちゃんの手がシャツの裾から差し入れられて、俺の腹筋を触っていたのだ。


 「あったかーい! にしても、良い身体してるぅ♪

 さすが私が鍛えてるだけあるなー!」


 「り、莉緒ちゃん……まじで手、冷たすぎ」


 「でしょ? だから、翔吾があっためて」


 色気の滲む声色でそう耳元で囁かれ、俺は固まった。彼女の方を向けない。


 莉緒ちゃんの手が……指が妖しく動く。

 腹筋を触ってた指は少しずつ下がり、俺のパンツのゴムをツーっとなぞるように動く。俺はギュッと目を瞑った。


 「り、莉緒ちゃん……っ」


 (ここはロッカーで、今は周りに誰もいないけど……だけどーーっ!)


 しかし、次の瞬間、パッと莉緒ちゃんは俺から離れた。

 思わず彼女の方を見ると、ニッと白い歯を見せて笑った。


 「やっと私の方、見てくれた」


 「そ、それは……」


 「分かってる、恥ずかしかったんだよね? あんなにスキンシップしてるのに、まだ慣れないの?」


 クスクスと莉緒ちゃんが笑う。


 正直、莉緒ちゃんにスキンシップを取られる度に困る。勘違いして、彼女を好きになったりなんかして、困らせたくない。


 (莉緒ちゃんは酷い失恋をした俺に同情してくれているだけ……。自惚れるな、期待するな。莉緒ちゃんを困らせるな)


 そうやって、いつも通り自分に言い聞かせていると、莉緒ちゃんが突然俺の指先を掴んだ。


 「ねぇ、翔吾?」


 「な、なに?」


 トレーニング中の強引さが嘘のように、莉緒ちゃんはモジモジと恥ずかしそうに、俺の指で遊んでいる。


 「私とデートしよっか?」


 小さな声で、確かに、そう彼女は言った。


 ……彼女は俺の決意を試してるんだろうか……?


 もちろん断ることなんて出来るはずもなく、次の休みに俺は莉緒ちゃんとデートすることになったのだった。

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