第9話
結論から言うと、海さんは優しく、良い上司のようだった。
俺はしっかりとバイトの説明を受け、ちゃんと契約書も書き、その後は一からゆっくりと仕事を教えてもらった。
バイトをやることになったその日から働くことになるとは思わなかったが、海さんからあとで莉緒ちゃんが来るからと聞いた。そういえば彼女が「あとで」と言っていたことを思い出して、海さんは見学だけでもいいと言ってくれたが、そのまま働かせてもらうことにした。
俺の仕事は雑用全般とあって覚えることや、やることは多かったが、決して難しいことではなかった。
今までは家でゴロゴロしていた分、常に動いているのは疲れるが、十分やっていけると思った。海さんもよく気にかけてくれるし、他のトレーナーさんも優しかった。
そして、海さんから聞いていた今日の終業時間となる直前に莉緒ちゃんが帰ってきた。
「おにーさーん、頑張ってるぅ?」
「うおっ……!」
トレーニング器具の手入れをしていた俺の背中に、莉緒ちゃんはのしかかるようにして容赦なく柔らかな凶器を突き付けてくる。
嬉しい感触ではあるが……
今は他の会員さんからの突き刺さるような目線が痛い。
俺はそっと彼女と距離を取った。
「莉緒ちゃん……お、おかえり」
「ただいま!」
莉緒ちゃんはニコニコして、とても機嫌が良さそうだ。
そこへ呆れ顔をした海さんがやって来た。
「莉緒ー、バイトの件、何も説明してないってどういうことだよ。丸投げにもほどがあるぞ」
「ごめんごめん。言い忘れてたの!
で、もうおにーさんの仕事終わる?」
「あぁ、もう時間だし、終わりにしていい。
佐藤くん、バイト初日、お疲れ様だったな。飲み込みも早いし、ちゃんと仕事やるし、助かったよ」
海さんに褒められて嬉しい……
これからも頑張ろうと思える。バイトのおかげで生活に張り合いが出そうだと思った。
「これからもよろしくお願いします」
少しでもやる気が伝わればと、ピシッと腰を曲げてしっかり挨拶すると、反応したのは莉緒ちゃんだった。
「いいね! それだけ元気があるなら、大丈夫そうだね。じゃあ、早速始めますか!」
「……へ?」
一体、何を始めるというのだろう?
バイトは確かに終わりだと海さんは言ってたけど……
間抜けな表情の俺とは違って、莉緒ちゃんはなんだかさっきまでと顔つきが違うような……
莉緒ちゃんは自らの右の拳を左の掌に叩きつけた。
パァンッと乾いた音が響く。そして、彼女は言った。
「鍛えるんだよ。
雄大をぶん殴るためにね♪」
莉緒ちゃんはなんともイキイキした表情をしている。
……が、待ってほしい。俺はバイト初日が終わったばかりだ。肉体的にも、精神的にも、十分に疲れ切っている。
なのに莉緒ちゃんは今にでも始めそうな勢いだ。
冗談であってほしいと微かに祈りながら、恐る恐る尋ねる。
「……今、から?」
「うん! 今から♪」
即答。それ以外の選択肢なんて許さないとばかりの笑顔。
「……莉緒……。お前、トレーニングのことも説明してなかったのか?」
(トレーニングって……なんだ?)
海さんも呆れ顔だ。
「そう! サプライズ♡」
「はぁ、まったく……お前ってやつは。
佐藤くん……頑張ってくれ。莉緒が嫌になっても、バイトはやめないでくれよ?」
「え? ……え?」
頭が追いつかないが、俺のトレーニングをやる、のか? 海さんも今日はやめとけ、とか言ってくれるんじゃないの?
必死に目線で海さんに助けを求めるが、海さんは諦めろというように眼を瞑った。
「やだなぁ、人聞きの悪い。
おにーさんは逃げたりしないよ、目標があるもん! ね?」
俺にウィンクを投げかける莉緒ちゃんは可愛い。ずるい。
……嫌だなんて言えるはずなかった。
「…………はい」
「じゃあな。頑張れよ」
「え……か、海さん?」
手をひらひらとさせながら、海さんはその場から去っていく。
海さんに伸ばされた俺の手を掴んだのは、莉緒ちゃんだった。
俺の手を胸元でギュッと握り込み、大きく潤む瞳で、見つめてくる。
「私と一緒じゃ、いや?」
「莉緒ちゃん……と?」
「そうだよ。おじさんと約束してたの。バイトを見つけてきたら、その人と一緒にジムを使わせてくれるって。莉緒、ずっとトレーニングのパートナーが欲しかったの♪」
「そ、そうなんだ……」
莉緒ちゃんはじりじりと距離を詰めてくる。近づくたびに、いい香りがする。
「おにーさん、すごい良い
莉緒ちゃんは、手を伸ばし、うっとりとした目で柔らかな俺の腹や胸を細く綺麗な指で撫でていく。
「だから……私と頑張ろーね♡」
「………………ガンバリマス」
なんだか言いようのない不安を感じる。
それでもやるしかない。
それに、海さんじゃなく、莉緒ちゃんにトレーニングに付き合ってもらえるというのは、逆に良かったじゃないか。こんなに可愛い、普通なら話すことも叶わないような俺の理想の美少女ギャルに応援してもらえれば、モチベーションも上がるってもんだ。
疲れた身体に鞭打って、改めて気合を入れる。
大丈夫。きっとやれる。
でも、俺はこの時気づいていなかった。
先ほど羨ましそうに俺を見ていた周囲の視線が、いつしか憐れむような視線になっていたことに……
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