第8話

 僕はファミレスを出てから、莉緒ちゃんに連れられ、ある場所に向かっていた。莉緒ちゃんが足を止め、両手を広げる。


 「じゃじゃーん!!」


 「……ここってーー」


 「今日から毎日のようにおにーさんが通うところ、だよ♪」


 俺の目の前の看板には『ボクシングスタジオ Ocean』とある。

 ここに来る前に「味方になってくれる人がいるところ」とは聞いていたが、こんな直接的な場所に連れて行かれるとは思わなかった。


 (ここで体を鍛えろってことか……てか、今日お金持ってきてないけど、大丈夫かな? 大体料金によっては俺通えないけど……)


 バイトでも始めないとここに通う資金が……と思案する俺の腕を取って、莉緒ちゃんは入り口に向かう。映画館で感じたあの感触が再び俺の右腕を包み込む。


 「ちょっ……莉緒ちゃん?!」


 「おじさん! いるー?」


 (……おじさん?)


 ジムの中に入ると、リングの上でスパーリングが行われていた。

 素早く繰り出されるパンチや、それを軽やかに避ける身のこなしは見事なもので俺は目を奪われる。最後は、赤いヘッドギアを付けた人が相手の懐にズシンと重い一発をお見舞いしたところで、ビーッと終了の合図が響いた。


 (かっこいい……けど、こえーなぁ)


 そんなことを考えていると、先ほどの赤いヘッドギアの人がリングを降りて、ズンズンとこちらに向かってきた。体格も大きくて、目の前に立つだけですごい威圧感だ。

 だが、ヘッドギアを外したその人の顔は、爽やかな笑顔を浮かべていた。うん、イケメン。


 イケメンは、俺の隣に立つ莉緒ちゃんの頭に手をやり、ガシガシと髪の毛を乱した。


 「やっ! もうやめてよ、おじさん! 子供じゃ無いんだから」


 莉緒ちゃんが手櫛で髪を整えながら、その人を睨みつける。それさえも可愛いが。


 「ははっ! よう、莉緒!」


 「私の話はいいの。ほら、連れてきたよ」


 「おぉ、こいつか! こりゃなかなか鍛えがいのありそうな奴を選んだなぁ」


 おじさんと呼ばれたその人は、俺をじーっと観察するように見た後、腕やら肩やらを確かめるように触っていく。

 

 初対面で身体を触るなんてマナー違反だろ……と思いつつも、俺は抵抗する勇気もなく、されるがままだ。


 固まる俺を見て、莉緒ちゃんが隣でクスッと笑った。


 「おにーさん、この人は私のおじさん。才原海さいばらかいっていうの。ここのボクシングスタジオのオーナー兼トレーナーだよ」


 海さんは、手を止めて、先程の爽やかな笑みを俺にも向けてくれた。そこでようやく口を開くタイミングが掴めた。


 「は、初めまして……。俺、佐藤翔吾って言います。よ、よろしくお願いします……」


 「こちらこそよろしく頼むな!」


 とりあえず受け入れられたらしい雰囲気を感じ、俺は差し出された手を握った。


 ……握られた手が若干痛い。


 俺たちの握手を満足そうに見届けた莉緒ちゃんは、バンっと俺の背中を叩いた。


 「……った!!」


 なんとか海さんの方に倒れそうになるのを踏みとどまったが、予想外の力の強さに背中がヒリヒリする。


 莉緒ちゃんは、俺が痛みに狼狽える姿すら楽しそうに見ている。……ひどい。


 「じゃ、おじさん、よろしく!

 おにーさん、頑張ってねー!

 また、あ・と・で♪」


 「えっ、ちょっ……莉緒ちゃん?!」


 引き止めようとした俺の手をするりと躱し、莉緒ちゃんはなんの説明もなく、悪戯な笑みと共に去っていった。


 「……え、俺どうすればーー」


 「覚悟はできてんだろうな?」


 肩にずしりと海さんの腕が乗る。俺とは全く違った、重くて、太くて、硬い腕……。


 ギギギとぎごちない動きで振り返れば、海さんは満面の笑顔。


 そして、何故かもう一人のトレーナーらしき人も俺の背後に回り、笑みを貼り付けていた。


 (こ、こわい……。これから何が行われるんだっていうんだ……?)


 「まずは話を聞かせてくれよ。な?」


 (俺……なんでこんなところに来ちゃったんだろう……)


 数十分前の決意が今にも消え去りそうだった。


 「まっ、待ってください!」


 でも、このままじゃいけないと意を決して叫ぶ。


 「あ?」


 海さんは怖いが、有耶無耶のまま始めるわけにはいかない。いざ入会したらとんでもない高い会費だったなんて、笑えないから。


 「あ、あの……莉緒さんから何も説明受けてなくて……今も何が何だかわからないんです。確かに目的のために身体を鍛えようとは思ってるんですけど……その、お金とかはあまりなくて……」


 少しポカンとした後、海さんは俺のことを怒るわけでもなかったが、面倒そうに頭を掻いた。


 「ったく、莉緒の奴、丸投げしやがったな……」


 海さんは溜息を一つ吐くと、俺に言い聞かせるように言った。


 「佐藤くんは、うちのジムに入るためにここに連れてこられたわけじゃない。今日からここでバイトをするんだ」


 「バイト……ですか?」


 「あぁ。ちょうど雑用をしてくれるバイトを探しててな。なかなか応募がなくて困ってたら莉緒がアテがあるっつうんで、連れてこられたのが、君」


 そういえば外にバイト募集の貼り紙がしてあったかもしれない……と思い至る。


 ……バイト。莉緒ちゃんが頼まれて、俺を紹介した、だけ。


 俺のためを思ってここに連れてきてくれたのかと思ったが、バイトしてくれる都合の良い奴を探してただけだったのかもしれない。


 (『一発かましてやろう』って言ったのも、一緒に悲しんだり怒ったりしてくれたのも……ここに連れてくるため……)


 俺はじっと床を見つめた。


 「なんだ? ここの雰囲気が気に食わなかったか? やってくれると助かることは助かるんだが、事情を聞いてなかったというなら、無理しなくてもいいぞ?」


 海さんはそう言って気を遣ってくれる……きっと優しい人なのだろう。


 (……やるって決めたのは自分だ。きっかけをくれただけでも、莉緒ちゃんには感謝しなくちゃな。変わるんだ、俺は、ここで)


 「やりたいです……。こんなみっともない身体で、ここにいるのも恥ずかしいくらいだけど……やらせてください!」


 顔を上げて、海さんを見る。


 海さんは白い歯を見せて、ニカっと笑った。


 「その潔い感じ、好きだぞ。佐藤くんとは上手くやっていけそうだ。よろしく頼む!!」


 海さんに頭をガシガシと撫でられる。

 その手は重く、なんとも力強かった。

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