第8話 過去

「何?

何かついてる?」

先生は俺の方を見ながらずっと笑っている。

「いいえ。

セックスでこんなに満足感を味わったのが初めてで、余韻に浸ってるんです。

自分をさらけ出して良かった」


すっかり無防備になった先生は、惜しげもなく愛おしい言葉を漏らしてくる。

計算でもなく、自分の本心をそのまま言っているだけなんだろう。

俺はもう一度襲いかかりたい欲求を必死に抑えた。


「この傷ってさ」

俺は先生の右足の太ももにある傷跡をそっとなぞりながら言った。

ケロイドになった傷跡は少し盛り上がっていて、他の部分とは違ってつるっとした感触がする。


「ナイフが刺さった跡です」

先生は触れられる傷跡を見ながら静かに笑っていった。

「逃げられないようにと、足を狙われました」


「………俺、前先生にコイツらと同じだなんて言った。

ごめんなさい」


人と関わりたくなくなるのも当然だ。

なのに謝るしかできないなんて、俺ってやつは。


「もう先生を傷つけないって約束する。

俺は、相手を傷つける恋愛は絶対にしないって前の恋愛の時に決めたから」

「前の……」

「俺も過去に捕らわれてるのかもしれないな。

先生に偉そうに言っておいて」


「何があったか、聞いてもいいですか?」

先生は深入りしていいのかためらっているようだ。

俺の大事な部分をいたわろうとしてくれている。

「先生はすごいね。

傷つけられてきてもまだ人に優しくできるなんて。

もちろん聞いてほしい」

先生は静かに笑った。


「先生に比べれば大したことじゃないよ。

昔、本気で付き合ってたやつがいたんだけ

ど、あっちは実は遊びだった。

俺だけ真剣に将来のこと考えてるのを知っ

て大笑いされたよ。

それで、俺は実家を出て一人暮らし」

「実家ですか………?」

俺は一呼吸おいて話した。


「相手は義理の弟だった」


先生はどう反応すればいいのか困惑している。

俺は先生が分かりやすいように話を続けた。


「母親の再婚相手の息子なんだ。

両親にどう説明しようとか色々考えてた。

悩んだ挙げ句、両親と義弟揃ったときに真剣に話 したら、義弟からは一蹴で、親の顔はひきつってた」

「そうですか………」

「そ。

だから」

俺は先生を両手でがばっと抱きしめた。

「 俺は人を傷つける人間にはならない。

先生のこと大事にするから。

無神経でごめん」

先生は首を横に振りながら俺の背中に腕を回した。

コトンと頭を任せる感触が肩に伝わってきて、俺は胸が苦しくなった。


「タケルくんは無神経じゃないですよ」

先生の手が俺の頭を優しく撫でる。

慰められてるみたいだ。

「私や家族を気遣ってくれる優しい人です」

抱き合って頭を撫でられていると、何だか段々眠くなってきた。


このまま二人溶け合って眠ってしまいたい。

そうすれば、二人とも孤独の淋しさや傷つくことにもう怖れなくていいのに。


「私たち二人だけでもずっと仲良くしましょうね」

え、プロポーズ?

「二人だけずっと!?」

俺が驚いて先生の顔を見ると、先生はキョトンとした顔で俺の方を見ている。


………多分深い意味はなかったんだろう。

知り合って数日で生涯の伴侶を決めるわけないとは分かっているけど、ちょっと切ない。


「あ、私は身内がもういないんです」

先生は俺が先生の身内のことを気にしたと思ったのか、生い立ちを話し始めた。


「交通事故で亡くなった両親の代わりに母方の祖父 に私は育ててもらいました。

その祖父も私が歯科医になってまもなく亡くなってしまいました。

そして祖父の病院を私が継いだんです」

俺に抱きついたまま話している先生の少し悲しそうな声が肩に響いている。


「お父さん方の身内は?」

俺は先生が動く度にサラサラとなびくダークブラウンの髪を撫でた。


「父がアメリカ人なので、アメリカにいる のだと思いますが、祖父が私を引き取るときに手紙などをすべて処分したので連絡先は分かりません」


「どうして処分なんか…」

「私がずっと日本に馴染めずメソメソしていたからだ思います。

…厳しい人でした。

祖父は病院を継ぐことをいつも念頭に置くようにと言っていました。

病気や怪我のときは…自己管理がなっていないと」

先生の目線は、刺された傷跡に向けられていた。

「痛かったな」

身体も。心も。

俺は先生の傷跡にそっと口づけた。

少しでも先生の悲しみが和らぐようにと願っていた。

「今は少しずつ感謝しています。

自分の力で生きていけているのも祖父のお かげです。

タケルくんの歯の治療だってでき………。

あ────!!」

突然先生はすっとんきょうな叫び声を上げてベッドから立ち上がると、急いで服を着始めた。

「え、どうしたの?」

「歯!

治療が途中だったじゃないですか!」


あっという間に先生は仕事用のキリッとした表情に変わった。

さっきまでの甘いったるい雰囲気は微塵も感じられない。

俺は名残惜しくて、どうすれば余韻が消えないか考えを巡らせた。

「いいよ、診療がある日で。

それよりどこか行こうよ」

イベントを調べようと携帯を探した。


あれ、携帯がない。

どこいった?

「お探しのものはこちらですか?」

歯科医の声になった先生がにっこりと笑いながら俺の携帯をかざしている。

「治療が終わったらお返ししますね」

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