第2話 彼女は|誰《た》がために微笑む

 エリアナは現在、王都の中でも労働者階級が多く住む街に来ていた。

 城から乗ってきた馬車を降りようとして、大きな手が差し出される。

「気をつけてね、エリアナ。今世の君はなぜかよくころぶから」

 手のぬしは、ブラウン系のジャケットをセンス良く着こなしたアルバートだ。

 貴族なんてあまり見かけないような街らしく、服自体は安価なものを選んだと言うが、着こなす本人からあふれるオーラが彼を平民には思わせない。

 残念な子でも見るような眼差しを送りながら、エリアナはアルバートの手を取った。

「よく転ぶのは、前世むかしの感覚に引っ張られたときだけよ。アルバートがいないときは大丈夫だもの」

「え、それ俺のせいってこと?」

 さあ? とエリアナは意地悪く返した。

 彼へのこいごころをどうにかして終わらせたいエリアナは、一応、彼との過度なせつしよくはしないように気をつけている。

 そのしように、王宮ではアルバートが訪ねてくるから会うけれど、彼が訪ねて来なければそれもなく、また王宮の外で会うなんてことは今まで一度もしなかった。

 それはひとえに、エリアナが彼への想いをこれ以上つのらせないためなのだが、どうして今日、こうして彼と街に出かける羽目になっているのか。

 原因は、数日前にされた彼の相談にある。


『それで、聞いてくれるかい? 相談したかったのは、妹のハンナのことなんだけど』

『ハンナがどうかしたの?』

 前世では一人っ子だったアルバートとエリアナだが、今世では二人共にきょうだいがいる。

 むしろ前世では二人が兄妹きようだいのように育ったが、そう思っていたのはアルバートだけだ。エリアナはアルバートを兄のように思ったことなど一度もない。

 ハンナというのは、アルバートの今世における血のつながった妹のことである。

 エリアナにとっても、もう一人のおさなじみみたいなものだった。

『最近、俺たち家族にもないしよでどこかにけてるみたいなんだよね。本人は友人のところだって言うんだけど、友人のところへ遊びに行くにしては、服装がシンプルというか』

『あのかわいいもの好きのハンナが?』

『そうなんだよ! たとえ気心の知れた相手しかいない場でも服装に余念がないあのハンナが。フリルなんて一つもない! シンプルなワンピースを! 楽しそうに着て行くんだ!』

『それはめずらしいわね』

 兄であるアルバートが熱弁したように、ハンナはかわいいものが大好きで、それがけんちよに表れるのが服だった。彼女の持つドレスはどれもフリルが多く、ひと言で言ってしまえば派手なものばかりである。

 そんなハンナが、フリルのない服を進んで着るとは思えない。

 他人が聞けばそんなことかと思ってしまうようなことだが、ハンナという人間を知っていて、かつアルバートが妹をできあいしていることを知っていれば、聞き流すこともできなかった。

『そこで物は相談なんだけど』

 どうやらここからが本題のようだ。

『エリアナ、前に言ってたよね? 国民の生活をじかに見てみたいって』

『言ったわね』

 けれどなぜ今その話題を出すのだろう。

 と、思っていたら。

『でもアンセルムに許可をもらえなくて、残念がってたよね?』

 アンセルムというのは、今世のエリアナの兄のことだ。

 全世界の〝兄〟という生き物がそうなのかはわからないが、こちらの兄もまた、妹──というよりていまいを溺愛している。

『お兄様は過保護なのよ。最低でも十人は護衛を付けないと外には出せないっておつしやるんだから。それだと国民の生の声なんて聞けないでしょう? だから正体を隠して街の人とれ合ってみたかったのに、きやつってそくとうするんだもの。公務で修道院に行くときだって、物々しいくらい大勢ので固めるのよ? あれじゃあこっちがえんりよして簡単に街に行きたいなんて言えなくなったわ』

『それはアンセルムが俺と似たり寄ったりのシスコンだからというのと、エリアナ自身にも原因があるからだね。聞いたよ? エリアナ、小さいころはよく街に出掛けては迷子になったり、をしたりしてたらしいね? そういえばエリアナは生まれたときから前世のおくがあったって言ってたから、そのえいきようかな。だったらアンセルムの過保護もなつとくだよ。もし俺がアンセルムと同じ立場だったら、絶対同じことした自信がある。そんなエリアナを無防備に街に行かせるなんて、不安で仕方ないからね。ほんと、この話を聞いたときの俺の気持ちがわかる? 俺と再会する前のエリアナにアンセルムがいてくれて良かったって、心の底からあんしたんだから』

『おかしいわ。私はあなたの妹じゃないんだけど』

『妹みたいなものだよ。前世むかしから変わらない、俺の大切な家族で、ずっと一緒だ』

 そんなことをやさしいまなしで言われたって、エリアナはちっともうれしくない。

『そんなことより、話の続きは?』

『ああ、そうだった。だからね、一緒に視察に行こう。そのついでにハンナの真意をき止めたいから、協力してほしい』

 それはハンナの真意を突き止めるついでに視察に行く、と言ったほうが正しいような気もするが。

『私が街に行くのは、反対なんじゃないの?』

『反対なんじゃなくて、不安なんだ。王宮の中ならまだいいよ? でも外なんて広い世界に出るのに──君の騎士たちをしんらいしてないわけじゃないけど──だれか他人に君の命を預けるのはおそろしくていやなんだ。それこそ君が修道院を訪問するときみたいに大勢の騎士で固めるならまだしも、そうできないときだってある。そのときが不安なんだよ。また前世みたいになるんじゃないかって……。けどその点、自分が一緒ならその不安も解消されるからね。アンセルムにも、なんとか許可はもらったから──』


「エリアナっ」

 数日前のことを回想していたら、あやうくすれちがう男性とぶつかるところだった。すんでのところでアルバートが引き寄せてくれなかったら、確実にぶつかっていたことだろう。

 結局あの提案のあとは、ユーインが暴れて大変だったのだ。

 いや、ユーインがおこるのは当然のことだった。アルバートの話はつまり、ユーイン一人ではその役目を果たせないと言っているようなものなのだから。

 ただ、ユーインは知らなかったようだが、アルバートは優男風の見た目をしているものの、その実力は王宮警備隊の隊長を負かすほどである。

 つまり、隊長クラス以上の実力を備えているということだ。

 エリアナの兄であり、アルバートとは友人であるアンセルムは、もちろんそのことを知っていた。

 そして前世からずっと一緒にいるエリアナは、言わずもがなである。

 前世で騎士としてかつやくしていたアルバートなのだから、事情を知っているエリアナからすれば何も不思議なことではない。

(まあ、ユーインはかなりくやしがってたけど。そしてアルバートは昔からなんでもできちゃうから、そういうところ、無自覚に相手の神経をさかでしちゃうのよね……)

 これもすべては、一見して文官にしか見えないアルバートの見た目のせいである。

「エリアナ、考え事しながら歩くのは危ないよ。ほら、俺のうでつかんで。それとも手を繋ぐ?」

 エリアナは半目で彼を見上げた。

「えっ。なにその目」

「……なんでもないわ。やっぱりアルバートはアルバートねって思っただけよ」

「それってけなされてる!?」

 彼が自分を妹のように思っていることなんて、それこそ前世から知っていた。

 が、いくらなんでも年相応の妹だと思っていた。今のあつかいはまるで五歳以下の子どもに対するものだ。

「はぁ……」

「今度はため息!? もしかして、俺が何かした? したなら言って、直すから」

 妹にきらわれたら生きていけない。そんな続きの言葉が聞こえてくるような落ち込みぶりだ。

 実際、本物の妹に「お兄様なんて大っ嫌い!」と突きつけられたことがあるアルバートは、そのあとエリアナの部屋で延々と反省会をしていたので、やはりこれも妹扱いの内なのだ。

 彼がことさら家族を大切にするのは、前世で血の繋がった家族にめぐまれなかった反動だろう。

 そして〝妹〟を溺愛するのは、前世で妹のようにかわいがっていた存在が、自分より先に死んでしまったせいだ。

 ようは、エリアナのせいなのだ。

「ごめんなさい、少し意地悪をしすぎたわ。アルバートは何も悪くないから、直す必要なんてないわ」

 そう言って、アルバートの腕に自分の腕をからめる。

 こういうときくらい、甘いゆうわくに乗っても許されるのではないかと思った。

「ならいいんだけど……俺、意地悪されてたの?」

 エリアナがしっかりと腕を組んだのをかくにんして、アルバートが歩き出す。

 そのはばはエリアナに合わせてせまかった。

 見つめてくる眼差しは春のれ日のように優しい。

 周囲はこいびと関係を疑うこの光景でも、二人は兄妹きようだいでしかない。少なくとも、アルバートにとっては。

 ここははちみつでできたぬまだ、とエリアナは思った。

 甘い甘い底なし沼。け出さないと自分が死ぬとわかっていても、その甘さが心地ここちよくて抜け出す気力すらうばわれそうになる。

 でも今世こそ抜け出すと決めたのだからと、エリアナは内心で気合を入れ直した。

 やがて二人が辿たどり着いたのは、雲の形をかたどった看板がぶら下がっている、今女性に人気だというカフェである。

 アルバートが自ら仕入れた情報によると、ハンナはよくこの近くで馬車を降りるらしい。それからじよだけをともなって、街の中へとけ込んでいく。

 そして居残り組の侍女やメイドたちがたまにお土産みやげとしてハンナからもらうのが、このカフェの焼きとくれば、おおよその予測は立てられるというものだ。

 だから今日は、エリアナもだん着ているドレスをぎ捨てて、シンプルなワンピースにそでを通していた。いつもかぶっているボンネットは、今日はクローゼットの中に置いてきている。

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」

「はい。できれば目立たない席をお願いできますか?」

 アルバートが店員にそう言うと、まばたきの間に彼の姿をさっと観察した店員が、にっこりと訳知り顔でうなずいた。

「ではこちらへどうぞ」

 あれは完全に貴族のおしのびを疑った顔だった。

 これは店員のかんするどいというよりは、アルバートの全身からあふれるみやびやかなふんのせいだろう。とても前世が養護院出身だとは思えない。

 心なしか女性客の視線がアルバートに集まっているような気がして、エリアナは組んでいた手に力を込めた。

「エリアナ、どう? いる?」

 こっそりと耳打ちされて、人の気も知らないで、と思ったのは秘密である。

「いないわ」

 しんにならない程度に見回した店内には、目当ての人物はいない。

 アルバートも見つけられなかったらしく、「やっぱり?」と首をかしげていた。

「今日はここじゃなかったのかな? やっぱりしきからこうすべきだった?」

「それは嫌われるからやめなさい。私でも嫌よ、知らない間に尾行されてるなんて」

「えっ」

「……え?」

 席について早々、二人の間にみような空気が流れる。

 目立たない席を希望したおかげで、二人は店の奥に案内された。店内はやはり人気店というだけあってんではいたものの、みんな風通しのいいテラス席、またはまどぎわの席を好むようで、だから奥の席はまだちらほらと空いていた。

「アルバート? 今の『えっ』はどういう意味?」

「い、いや~……でも前世むかしの話だし」

「エリク」

「ここで前世の名前を出すのはきようじゃない!?」

 構わずじっと見つめていたら、観念したらしいアルバートが口を開いた。

「前世でね。ちかって今はやってないんだけどね。リジーがほら、ルークとか仲の良かった仲間と飲みに行くときは、その……心配デケテマシタ」

 エリアナはてんじようあおいだ。

「どうりで毎回あなたがむかえに来ると思ったら……。自分も近くで飲んでたなんて、うそだったのね」

「だって! アルコールは人をだいたんにするんだよ。何かあってからじゃおそいじゃないか」

「だったらいつしよに来れば良かったのに」

「それは……あのころの君は、たぶん俺をけてただろ? だから言えなかったんだ」

 アルバートがねたように小声で答える。

 あの頃と言われて、エリアナには思い当たる節があった。シルヴィアとアルバートエリクが恋仲になったばかりの頃のことだ。

 あのときは確かに、恋人になりたての二人にえんりよした、という理由もあったけれど。

 一番は、もうほかの女性のものになってしまった彼を見たくなかったからである。そんな彼をおもって泣く夜から、ただただげたかったからである。

 この男は自分のことにはどんかんなくせに、どうして他人のことには気づいてしまうのだろう。

 彼がこんな調子だから、前世の自分は結局さいまで彼を忘れられなかったのだ。

「ほんと、恋人をほうって何やってるのよ、あなた」

「それは俺も思った。でもリジーだけはだめだ。大切な妹がおおかみわれたら、俺は相手も自分も許せない」

「…………そしてハンナも」

「やっぱり恋人ができたから!? だから家族にも内緒でけてるってこと!?」

 わっとアルバートが机にせる。危ない。またしようりもなく、彼の言葉にまどわされるところだった。

 実の妹と同じ扱いである時点で、エリアナは彼の妹わくから抜け出せていないというのに。

(この判断基準、便利ね)

 あまりうれしくはないけれど。

「ハンナに恋人なんてまだ早いよ。将来はお兄様みたいな人とけつこんするって言ってたのは嘘だったの?」

「アルバート、『みたいな』って言われてる時点で気づいて。ハンナは結構ちゃっかりしてるわよ」

 少なくとも、シスコンの兄を手のひらで転がすことにはけている。

「というより、仮にハンナに恋人ができていたとして、ここにデートに来るってことは」

「うん……相手は平民だろうね」

「前世のおくがあるから私は特に思わないけど、こうしやくと侯爵夫人がなつとくしないんじゃない?」

「そうかもしれない。でも、ハンナが本気で、相手も本気なら、俺は力を貸すよ。しようがい一緒にいたいと思える人とえるのは、とてもぎようこうなことだからね。ハンナには幸せになってほしいんだ」

「……そうね」

 彼が急に真面目まじめな顔をして言うから、エリアナの心は小さな痛みをうつたえた。

(ねぇ、アルバート。それは、だれを思いかべて言ってるの?)

 そんなこと、考えるまでもなくわかることだ。

 彼が生涯、ずっと一緒にいたいと願う人なんて──。

「出逢えるだけでも幸運だけど、相手も自分と同じように想ってくれたら、それはせきね」

 ぽろりと、意図せず言葉がこぼれ落ちた。本心だった。たとえ自分が一緒にいたいと思っても、相手もそうだとは限らないことをエリアナは知っている。

 それこそ、自分のように。

「エリアナ? それってまさか……」

「それで、どうするの? お茶だけ注文してこの辺をさがす?」

 アルバートに続きを言わせないよう、わざと彼をさえぎった。

 彼は少しだけ迷いを見せたが、こちらの意図をんでくれるようだ。

 彼が首を横にる。

「いや、せっかくだから楽しもうよ。女性に人気なカフェなら、たとえからりでもエリアナも楽しめると思ったから入ったんだ」

 アルバートがメニュー表を広げる。そこには宝石のように美しいケーキの絵がっており、どれもおいしそうだった。一緒に載っている紅茶のめいがらの中には、王女であるエリアナもよく飲むものがある。

 二人きりで外に出なければ、わからなかったこと。

「そうね。今日は視察もねてるんだものね」

 だから、まるでデートみたいねとは、じようだんでも言えなかったエリアナである。


 おいしいスイーツと紅茶をたんのうしたあとは、アルバートに連れられてこの街の中央広場にやってきた。

 そこでは市場マーケツトもよおされており、様々な種類のテント型てんが中央にある丸いふんすいを囲むようにして並んでいる。

 祝祭日ではない今日は、人はまばらだった。

「ねぇアルバート。こんなところにハンナがいるの?」

「え? あー、ここってこの街で一番大きい市場だから、観光スポットにもなってるみたいでね。他都市だけじゃなくて、他国の品物も豊富なんだよ。流行好きのハンナなら来そうじゃない?」

 そう言われると確かにそんな気がした。

 彼ら兄妹きようだいは見た目は似ているのに、性格は全く似ていない。流行にびんかんで派手なものが好きな妹と、そういったものには興味を示さない兄。

 いや、アルバートの場合は、何に対してもほとんど関心を示さない。それは前世から変わらないが、エリアナはその理由を知っている。

 何をやってもすぐにこなしてしまう彼は、夢中になれるほど何かにのめり込めないからだ。

 そんなとき、彼はいつもくうきよな目で、夢中になっている他の子どもたちをながめていた。

 そんなどくな人だったから、一人にはさせられなかったのだ。

 ただ彼には、笑っていてほしかったから──。

「見て見て、エリアナ。海でとれた魚も売ってるよ。昔一緒にとった川魚より全然大きいね」

 前世と姿は変わっているのに、太陽がかがやくようなその笑い方は、今も昔も変わらない。

 そんな彼がいとおしくて、エリアナもつられて笑った。

「本当ね。でも海だとこんなに大きな魚がとれるのね。全然知らなかったわ。調理前のものって初めて見るから」

「だと思った。他にもほら、あっちには南の国でしかさいばいできない果物も売ってるんだ。見に行く?」

「ええ!」

 アルバートは以前も来たことがあるようにエリアナを案内した。

 今は何がしゆんでどんなものが売れているのか。また天候のちがいによってどんなえいきようが農作物に降りかかっているのか。アルバートや店先にいる店員の話を聞いて、エリアナは新聞や座学だけでは知り得なかったことを学んでいく。

「すごいわ、アルバート! 私、前世は領地の外になんて出たことなかったし、今世もほとんど王宮の外に出たことがなかったから、自分の知らないことがたくさんあっておどろいたわ。机の上ではわからないことって、たくさんあるのね」

 いつのまにかハンナを捜すという目的も忘れて、エリアナは市場に夢中になっていた。

 知らない食べ物。知らない工芸品。どんな思いでそれらが作られ、どうやってこの地にやってきたのか。

「でも、前世はアルバートも私と同じきようぐうだったはずなのに、博識だったわね。今世で勉強したの?」

「まあね。これでも一応侯爵家のあとりだから、色々と勉強させてもらったよ。父上も自分の目で確かめたい側の人間だから、よく領地の視察にも連れて行ってもらったりね。そのたびに思ってたんだ。きっとエリアナもいつしよだったら、もっと楽しかったのにって」

 そこでエリアナは、もしかして、と一つの可能性を頭の中に浮かべた。

「あ。ねぇ見て、エリアナ。これ、海で見つかるガラスへんなんだけど、シーグラスって言うんだよ。シーグラスは波にまれて角が取れたガラスのことでね、くもりガラスのような風合いがれいだと思わない? これで作るアクセサリーが人気みたいで、エリアナを連れて来られたら見せたいと思ってたんだ。君はこういう〝物〟のおくり物は受け取ってくれないからさ。良かった、今回も出品されてて」

 ああ、やはりだ。浮かんだ一つの可能性が、確信になりつつある。

「俺たちは実際の〝海〟を知らないし、見に行くには少し遠いだろ? 俺はともかく、君はそう簡単に行けない。だからさ、そのへんりんでも感じ取れるものを見せたら、きっと喜んでくれると思ったんだ」

 アルバートがエリアナの顔をのぞき込んでくる。

 とつぜんのことに表情を作ることもできず、かくすこともできなかった。

 彼がふっと笑う。

「うん。想像以上に喜んでくれて、俺もうれしいよ」

 アルバートのグリーンスフェーンのひとみには、顔を真っ赤にした自分が映っている。

 この色を見てただ喜んでくれただけだと思い込む彼に、感謝すればいいのか、らくたんすればいいのか。

 でもこれで、可能性は確信に変わった。

 彼の瞳からのがれるように、うつむいて言う。

「ハンナのことは、うそだったの?」

「え? ハンナ? ──あっ」

 忘れてた、とその反応が語っていた。

「私が視察に行きたがってるから連れて行ってやってほしいって、お兄様に相談でもされた?」

 彼が気まずそうにほほく。

「いや、相談はされてない、かな。視察に行きたがってるってことを雑談の中で聞いて……アンセルムはどちらかというと厳しい顔をしてたよ。でもハンナのことも嘘ではないんだ。本当に最近けることが多くてさ。この辺りに来ているらしいってことも本当だよ。ただ今日は、最初にも言ったように、エリアナが最優先だった」

 そういえば彼は、最初にこう言っていた。

 ──〝だからね、一緒に視察に行こう。そのついでにハンナの真意をき止めたいから、協力してほしい〟

(なんだ)

 エリアナが穿うがったかいしやくをしただけで、彼は本当にハンナのほうをついでにしていたのだ。

 でもじゃあ、どうして彼はまるで後ろめたいことでもしているような反応をしたのだろう。

 エリアナのそんな疑問を感じ取ったのか、アルバートは視線を落としながら答える。

「だってエリアナは、俺がただ視察に行こうってさそっても、きっとうなずいてはくれなかっただろ?」

 ぎくりと心臓がねた。

「よくわからないけど、それこそカフェで話した〝あのころ〟から、エリアナは俺と出掛けてくれなくなったから。ハンナを捜すっていう目的があるなら、まだ一緒に来てくれるかなって……思いました」

 なぜ最後だけ敬語になったのかは、この際置いておこう。

 しかられる直前の犬みたいにかたをしょんぼりとさせている彼を見ると、なんだかこちらが悪いことをしたように思えてくる。

(むしろ気をつかっただけなのにね)

 そう、あの頃は、彼のこいびとになったシルヴィアに気を遣った。

 だれだって自分の恋人と親しい異性はおもしろくないものだ。

 でもそれは、彼から家族をうばうことと同義だったのだと、今になって気づく。

「視察は、だいじようよ」

「え?」

「視察なら、喜んでご一緒するわ」

「本当に? いいの?」

 だって今は、誰に気を遣う必要もない。

「ええ。視察はね」

 大事なことだから三回もり返した。

 視察しごとなら、アルバートと一緒でも大丈夫だろう。かんちがいしないストッパーがある。

 けれどそれ以外では、彼と一緒には出掛けたくない。

 エリアナは今世こそ彼へのおもいをち切ると決めているのだ。またしつれんの決まった人生なんて、誰も好き好んで歩みたいとは思わないだろう。エリアナとてそうだ。

 そのために、彼とのきよは適度に保つ必要がある。

「私、もっともっと自分の国のことを知りたいわ。前世では知らずに終わったこと、もったいなかったなって、転生して初めて思ったの」

「うん、俺もだよ」

「だからまた、連れて行って、アルバート」

 おそらくこの先、その機会は多くない。

 エリアナもアルバートも、すでにけつこんてきれいに入っている。いつこの関係がくずれるとも知れない。

 かなうかどうかわからない願いを胸に、エリアナは笑った。

 願うことだけは自由だからと、そんな言い訳を心の中でしながら。

 そのときアルバートが目をみはっていただなんて、灰色の未来に思いをせていたエリアナには、気づくよしもなかったのだった。

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