第2話 彼女は|誰《た》がために微笑む
エリアナは現在、王都の中でも労働者階級が多く住む街に来ていた。
城から乗ってきた馬車を降りようとして、大きな手が差し出される。
「気をつけてね、エリアナ。今世の君はなぜかよく
手の
貴族なんてあまり見かけないような街らしく、服自体は安価なものを選んだと言うが、着こなす本人から
残念な子でも見るような眼差しを送りながら、エリアナはアルバートの手を取った。
「よく転ぶのは、
「え、それ俺のせいってこと?」
さあ? とエリアナは意地悪く返した。
彼への
その
それはひとえに、エリアナが彼への想いをこれ以上
原因は、数日前にされた彼の相談にある。
『それで、聞いてくれるかい? 相談したかったのは、妹のハンナのことなんだけど』
『ハンナがどうかしたの?』
前世では一人っ子だったアルバートとエリアナだが、今世では二人共にきょうだいがいる。
むしろ前世では二人が
ハンナというのは、アルバートの今世における血の
エリアナにとっても、もう一人の
『最近、俺たち家族にも
『あのかわいいもの好きのハンナが?』
『そうなんだよ! たとえ気心の知れた相手しかいない場でも服装に余念がないあのハンナが。フリルなんて一つもない! シンプルなワンピースを! 楽しそうに着て行くんだ!』
『それは
兄であるアルバートが熱弁したように、ハンナはかわいいものが大好きで、それが
そんなハンナが、フリルのない服を進んで着るとは思えない。
他人が聞けばそんなことかと思ってしまうようなことだが、ハンナという人間を知っていて、かつアルバートが妹を
『そこで物は相談なんだけど』
どうやらここからが本題のようだ。
『エリアナ、前に言ってたよね? 国民の生活を
『言ったわね』
けれどなぜ今その話題を出すのだろう。
と、思っていたら。
『でもアンセルムに許可をもらえなくて、残念がってたよね?』
アンセルムというのは、今世のエリアナの兄のことだ。
全世界の〝兄〟という生き物がそうなのかはわからないが、こちらの兄もまた、妹──というより
『お兄様は過保護なのよ。最低でも十人は護衛を付けないと外には出せないって
『それはアンセルムが俺と似たり寄ったりのシスコンだからというのと、エリアナ自身にも原因があるからだね。聞いたよ? エリアナ、小さい
『おかしいわ。私はあなたの妹じゃないんだけど』
『妹みたいなものだよ。
そんなことを
『そんなことより、話の続きは?』
『ああ、そうだった。だからね、一緒に視察に行こう。そのついでにハンナの真意を
それはハンナの真意を突き止めるついでに視察に行く、と言ったほうが正しいような気もするが。
『私が街に行くのは、反対なんじゃないの?』
『反対なんじゃなくて、不安なんだ。王宮の中ならまだいいよ? でも外なんて広い世界に出るのに──君の騎士たちを
「エリアナっ」
数日前のことを回想していたら、
結局あの提案のあとは、ユーインが暴れて大変だったのだ。
いや、ユーインが
ただ、ユーインは知らなかったようだが、アルバートは優男風の見た目をしているものの、その実力は王宮警備隊の隊長を負かすほどである。
つまり、隊長クラス以上の実力を備えているということだ。
エリアナの兄であり、アルバートとは友人であるアンセルムは、もちろんそのことを知っていた。
そして前世からずっと一緒にいるエリアナは、言わずもがなである。
前世で騎士として
(まあ、ユーインはかなり
これも
「エリアナ、考え事しながら歩くのは危ないよ。ほら、俺の
エリアナは半目で彼を見上げた。
「えっ。なにその目」
「……なんでもないわ。やっぱりアルバートはアルバートねって思っただけよ」
「それって
彼が自分を妹のように思っていることなんて、それこそ前世から知っていた。
が、いくらなんでも年相応の妹だと思っていた。今の
「はぁ……」
「今度はため息!? もしかして、俺が何かした? したなら言って、直すから」
妹に
実際、本物の妹に「お兄様なんて大っ嫌い!」と突きつけられたことがあるアルバートは、そのあとエリアナの部屋で延々と反省会をしていたので、やはりこれも妹扱いの内なのだ。
彼が
そして〝妹〟を溺愛するのは、前世で妹のようにかわいがっていた存在が、自分より先に死んでしまったせいだ。
ようは、エリアナのせいなのだ。
「ごめんなさい、少し意地悪をしすぎたわ。アルバートは何も悪くないから、直す必要なんてないわ」
そう言って、アルバートの腕に自分の腕を
こういうときくらい、甘い
「ならいいんだけど……俺、意地悪されてたの?」
エリアナがしっかりと腕を組んだのを
その
見つめてくる眼差しは春の
周囲は
ここは
甘い甘い底なし沼。
でも今世こそ抜け出すと決めたのだからと、エリアナは内心で気合を入れ直した。
やがて二人が
アルバートが自ら仕入れた情報によると、ハンナはよくこの近くで馬車を降りるらしい。それから
そして居残り組の侍女やメイドたちがたまにお
だから今日は、エリアナも
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「はい。できれば目立たない席をお願いできますか?」
アルバートが店員にそう言うと、
「ではこちらへどうぞ」
あれは完全に貴族のお
これは店員の
心なしか女性客の視線がアルバートに集まっているような気がして、エリアナは組んでいた手に力を込めた。
「エリアナ、どう? いる?」
こっそりと耳打ちされて、人の気も知らないで、と思ったのは秘密である。
「いないわ」
アルバートも見つけられなかったらしく、「やっぱり?」と首を
「今日はここじゃなかったのかな? やっぱり
「それは嫌われるからやめなさい。私でも嫌よ、知らない間に尾行されてるなんて」
「えっ」
「……え?」
席について早々、二人の間に
目立たない席を希望したおかげで、二人は店の奥に案内された。店内はやはり人気店というだけあって
「アルバート? 今の『えっ』はどういう意味?」
「い、いや~……でも
「エリク」
「ここで前世の名前を出すのは
構わずじっと見つめていたら、観念したらしいアルバートが口を開いた。
「前世でね。
エリアナは
「どうりで毎回あなたが
「だって! アルコールは人を
「だったら
「それは……あの
アルバートが
あの頃と言われて、エリアナには思い当たる節があった。シルヴィアと
あのときは確かに、恋人になりたての二人に
一番は、もう
この男は自分のことには
彼がこんな調子だから、前世の自分は結局
「ほんと、恋人を
「それは俺も思った。でもリジーだけはだめだ。大切な妹が
「…………そしてハンナも」
「やっぱり恋人ができたから!? だから家族にも内緒で
わっとアルバートが机に
実の妹と同じ扱いである時点で、エリアナは彼の妹
(この判断基準、便利ね)
あまり
「ハンナに恋人なんてまだ早いよ。将来はお兄様みたいな人と
「アルバート、『みたいな』って言われてる時点で気づいて。ハンナは結構ちゃっかりしてるわよ」
少なくとも、シスコンの兄を手のひらで転がすことには
「というより、仮にハンナに恋人ができていたとして、ここにデートに来るってことは」
「うん……相手は平民だろうね」
「前世の
「そうかもしれない。でも、ハンナが本気で、相手も本気なら、俺は力を貸すよ。
「……そうね」
彼が急に
(ねぇ、アルバート。それは、
そんなこと、考えるまでもなくわかることだ。
彼が生涯、ずっと一緒にいたいと願う人なんて──。
「出逢えるだけでも幸運だけど、相手も自分と同じように想ってくれたら、それは
ぽろりと、意図せず言葉がこぼれ落ちた。本心だった。たとえ自分が一緒にいたいと思っても、相手もそうだとは限らないことをエリアナは知っている。
それこそ、自分のように。
「エリアナ? それってまさか……」
「それで、どうするの? お茶だけ注文してこの辺を
アルバートに続きを言わせないよう、わざと彼を
彼は少しだけ迷いを見せたが、こちらの意図を
彼が首を横に
「いや、せっかくだから楽しもうよ。女性に人気なカフェなら、たとえ
アルバートがメニュー表を広げる。そこには宝石のように美しいケーキの絵が
二人きりで外に出なければ、わからなかったこと。
「そうね。今日は視察も
だから、まるでデートみたいねとは、
おいしいスイーツと紅茶を
そこでは
祝祭日ではない今日は、人は
「ねぇアルバート。こんなところにハンナがいるの?」
「え? あー、ここってこの街で一番大きい市場だから、観光スポットにもなってるみたいでね。他都市だけじゃなくて、他国の品物も豊富なんだよ。流行好きのハンナなら来そうじゃない?」
そう言われると確かにそんな気がした。
彼ら
いや、アルバートの場合は、何に対してもほとんど関心を示さない。それは前世から変わらないが、エリアナはその理由を知っている。
何をやってもすぐにこなしてしまう彼は、夢中になれるほど何かにのめり込めないからだ。
そんなとき、彼はいつも
そんな
ただ彼には、笑っていてほしかったから──。
「見て見て、エリアナ。海でとれた魚も売ってるよ。昔一緒にとった川魚より全然大きいね」
前世と姿は変わっているのに、太陽が
そんな彼が
「本当ね。でも海だとこんなに大きな魚がとれるのね。全然知らなかったわ。調理前のものって初めて見るから」
「だと思った。他にもほら、あっちには南の国でしか
「ええ!」
アルバートは以前も来たことがあるようにエリアナを案内した。
今は何が
「すごいわ、アルバート! 私、前世は領地の外になんて出たことなかったし、今世もほとんど王宮の外に出たことがなかったから、自分の知らないことがたくさんあって
いつのまにかハンナを捜すという目的も忘れて、エリアナは市場に夢中になっていた。
知らない食べ物。知らない工芸品。どんな思いでそれらが作られ、どうやってこの地にやってきたのか。
「でも、前世はアルバートも私と同じ
「まあね。これでも一応侯爵家の
そこでエリアナは、もしかして、と一つの可能性を頭の中に浮かべた。
「あ。ねぇ見て、エリアナ。これ、海で見つかるガラス
ああ、やはりだ。浮かんだ一つの可能性が、確信になりつつある。
「俺たちは実際の〝海〟を知らないし、見に行くには少し遠いだろ? 俺はともかく、君はそう簡単に行けない。だからさ、その
アルバートがエリアナの顔を
彼がふっと笑う。
「うん。想像以上に喜んでくれて、俺も
アルバートのグリーンスフェーンの
この色を見てただ喜んでくれただけだと思い込む彼に、感謝すればいいのか、
でもこれで、可能性は確信に変わった。
彼の瞳から
「ハンナのことは、
「え? ハンナ? ──あっ」
忘れてた、とその反応が語っていた。
「私が視察に行きたがってるから連れて行ってやってほしいって、お兄様に相談でもされた?」
彼が気まずそうに
「いや、相談はされてない、かな。視察に行きたがってるってことを雑談の中で聞いて……アンセルムはどちらかというと厳しい顔をしてたよ。でもハンナのことも嘘ではないんだ。本当に最近
そういえば彼は、最初にこう言っていた。
──〝だからね、一緒に視察に行こう。そのついでにハンナの真意を
(なんだ)
エリアナが
でもじゃあ、どうして彼はまるで後ろめたいことでもしているような反応をしたのだろう。
エリアナのそんな疑問を感じ取ったのか、アルバートは視線を落としながら答える。
「だってエリアナは、俺がただ視察に行こうって
ぎくりと心臓が
「よくわからないけど、それこそカフェで話した〝あの
なぜ最後だけ敬語になったのかは、この際置いておこう。
(むしろ気を
そう、あの頃は、彼の
でもそれは、彼から家族を
「視察は、
「え?」
「視察なら、喜んでご一緒するわ」
「本当に? いいの?」
だって今は、誰に気を遣う必要もない。
「ええ。視察はね」
大事なことだから三回も
けれどそれ以外では、彼と一緒には出掛けたくない。
エリアナは今世こそ彼への
そのために、彼との
「私、もっともっと自分の国のことを知りたいわ。前世では知らずに終わったこと、もったいなかったなって、転生して初めて思ったの」
「うん、俺もだよ」
「だからまた、連れて行って、アルバート」
おそらくこの先、その機会は多くない。
エリアナもアルバートも、すでに
願うことだけは自由だからと、そんな言い訳を心の中でしながら。
そのときアルバートが目を
転生王女は幼馴染の溺愛包囲網から逃げ出したい 前世で振られたのは私よね!? 蓮水 涼/角川ビーンズ文庫 @beans
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