黄昏
「長よ。内密に話があるんだけど、今いいかな」 「どうぞ、ソルタ様。どうなさいました」
「長は、よく寝物語に世界の話をしてくれたね」
「ええ。......あなた様を人とするならば、人の物語を知る必要がありましょうな。人の物語は、人が知覚する世界の物語です。私はそれをあなたに伝えたかった。世界も、人の感情も」
神殿の一室に住まう長を訪れると、ゆったりとした長椅子に埋もれるように座った長が出迎えた。最近は歩くのも腰やひざがつらくてねぇ、と笑う長は日がな一日、うとうとしていることが多い。
「鐘鳴らしの一族の、時間は正確なのかな」
「ほぼ、間違いはなかったです。時計という機械の前で数を数える訓練を続けて、ようやくつける役職でしたからな。時計が壊れて後は、数を数える彼らの後ろに控えて、まったく同じ速さで唱えられるように、と」
とはいえ、と長は小さくため息をつく。
「太陽も月もないのです。朝も夜も確認できんでは、少しずつずれていても、わからんでしょう」
「私が生まれて、十八年」
「あなたの体格を見るに、そんなにずれているとは思いませんよ、ソルタ様」
「うん、そうか......では、長は三百なのか」
「ああ、それが気になりましたか。炎が私を燃やしていますから。夜にほどけるまではこの体に付き合わんといかんのでしょうね」
付き合わなければいけない、の言葉にソルタは瞬いた。
「長。夜にほどけるのはみな恐れているけれども......」
「死ぬのは怖い。生き続けるのも怖い。そういうもんなんでしょうな、ソルタ様。あなたはまだお若いからわからないかもしれません。いや、炎だからこそわからないというのもあるのかねぇ?」
ほら、しゃがみなさい、と長が言うのでソルタは座る長の前で膝を折った。伸ばされた手が優しくソルタの頭をなでて、巻き毛をくるくると指で掬い上げる。
「夜が......夜に正しくほどけて、そこから世界は生まれなおすのだ そうだよ、長」
優しい手の動きが止まった。
「もうずっと生まれなおしたがっているのに、炎にすがって生き延びた人たちがいたからいつまでたっても生まれることができない」
「......ルルスかい」
「それは......その、ええ。はい」
「あの子はどこから来たのかと思っていたが......そうか......私がほんの小さな女の子だったころにね、世界がまだあったころの。突然 人が消えるんだ。夜の間に寝ていて、いなくなる。怖かったねぇ、いつだれが消えるのかわからない、原因もわからない。人さらいが いるのではないかとか、悪い精霊がいるのではないかとか、いろんな噂話が駆け巡ったものだよ」
長は......その頃はまだ、わずかに生き延びた人々の長になることなどだれも予想していなかったころのアーリャは、良い家に生まれた一人娘だったのだという。炎との交感力が高く、性別も女だったため、親は様々な教育を施して、いずれ赤狐殿で成功を収めるのではないかとたいそうな期待を抱いていた。だが、人さらいのうわさや、不安感などから暴動が頻発するようになって、立ち位置を固めるでもなくさっさと娘を神殿に送り込んだ。アーリャは、貴族としての後ろ盾も何もない状態で、巫女見習いとなった。とはいえ同期の巫女見習いはみなそのような背景を持っていたので、お互いに尊重して助け合って見習い過程を進んでいたのだが......炎がまぶしくて眠れない、と言った子がある日部屋から出てこなかった。起こしに行った巫女が姿が見えないと慌てて探し回り、結局見つけることできなかった。尋常の出来事ではない。神殿に侵入することなど、 ほとんど不可能だ。ましてや人一人を拐っていくなどできようはずもない。
やがて、夜が明けない土地のうわさが流れてきた。夜になる。曇っているのか星空は見えない。月もなく、時間が分からない。いつになったら朝になるのだろう、とどれだけ待っても夜が明けない。おかしいな、としびれを切らし暗闇の中旅を再開すると、唐突に眩しい日差し照る昼にたどり着く。
何人かで旅をして、夜の土地を通ると気が付けば人が減っている。 あるいは、夜の土地を経由して旅に出た行商人が帰ってこない。
そんな、怪談のようなうわさが、ひりつくような焦燥感とともに語られた。
「不思議なことに、どの国も目立った対策はしなかったようだ」
暴動がおきて、税の徴収率が減っても、国は対策をしなかった。 むしろ、好きにさせよ、と見せしめにとらえられていただけの罪人などは釈放されたくらいだった。
「不思議だったが、そうさね、もしかしたらみな、世界の終わりと 始まりであると知っていたのかもしれないねぇ。国を治めるという ことは、精霊や神に近しいということだったから」
「人は、受け入れられたのでしょうか。自分が失われて、次の世界 の礎になることを」
「どうだろうか。受け入れられないだろうと思ったから、何の発表もなかったのかもしれないよ。ただねぇ、私はソルタ様の話を聞い てほっとした。夜に溶けることは失われることじゃあないのだ、世界が生まれなおすために必要なんだ。なら、私にも意味はあった。 そして、溶ける先では、私を生んだ父や母、もう顔も覚えていない友人たちが、待ってくれていると思える。これは、救いだよ、ソルタ様。聞かせてくれて、ありがとうねぇ」
救いか、とソルタは考える。そして、朝に妻の髪を梳くときに感 じた、惜しさを思い出す。あのつややかな夜の輝きを、美しいと思ったのだった。すぐに色あせて失われていった、あの夜を。
「ソルタ様。私たちはみなあなたにすがりました。人であるという形を与えながら、あなたに炎であれと要求してきた」
「長、私はそれを苦しいとは思っていないよ」
「ありがたいこと。......ソルタ様。
「......長、それは」
「あなたは常に村のことを考えてくれた。人はみな、自分の意思で自分の生き方を決める。......世界がこうなってから、選択肢はとても狭くなってしまったし、手に入れられるものなんてほとんどなくなってしまったけれどねぇ......好きだと思う人の手を取りなさい。 それがよく生きたと満足するために必要だと、この歳になって思うよ。私を評価できるのは私だけ。ソルタ様、あなたの人生が良いものであるかどうか、判断できるのもあなただけです。あなたはあなたの心に、従いなさいな」
にこにこと笑う長は、世界などどうでもよいかのようにふるまっ た。きっとそれは気づかいなのだろう、とソルタは思う。廊下の窓から外を見れば、そこにあるのは小さな畑と、あぜ道に置かれた炎たち、畑に水を撒く村人たち。暗い空の下、揺らめく炎の中で、それでも幸せそうに見えた。夫婦に駆け寄っていく小さな子供。五年前に生まれた、この村で一番年若い生きている人間。
世界の理のためならば、彼らは終わりを迎えてもよいのだろうか。 カツリ、と廊下を歩き、神殿の最奥、神の炎が燃え盛る部屋にたどり着く。何人かの巫女が炎に浴して修練をしていたが、ソルタは気にせず神の炎の前に来た。
そして、思う。父よ、私はどうするべきでしょう。揺らめく炎は 時々四つ足の獣の形をとる。狐だ、とソルタは言葉だけを知ってい る。父よ、狐とはどのような毛皮の生き物でしょう。太陽と、月と、星は、実際のところどれほど美しいのでしょう。青空という天蓋は、 背伸びをしても届かないほどに高いのでしょうか。途方に暮れるばかりで一日を過ごし、夜になって寝室に戻る。ルルスは戻ってきたソルタを見て、ほっとした色を浮かべた。
疲れたな、と寝台に横になり、ルルスを抱きしめた。布越しの体温はとても甘くやわらかで、これを手放すなどとんでもない、と心がささやくのが分かる。
そして、夜に夢を見た。
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