ルルスはある日、夜から生まれた。夫であるソルタはそう言って、 今は橙色のルルスの髪をゆっくりと櫛で梳く。血気盛んな人間が多いこの村には珍しく、夫は物静かで穏やかであることが多く、ルルスはこの人に妻にと乞われて良かったな、と思っている。目を開いて初めて見たのは燃え上がる炎だった。夫は肌の色の白い、豊かな赤い巻き毛を持つ男性だが、燃え盛る炎のように見えたのだった。その炎を見る前の記憶は、ルルスにはない。

 時々何かが脳裏をかすめたように感じるので本当に夜から生まれたわけではないだろうと思うのだが、この村でソルタはルルスを夜から生まれた子とみなし、村人は星であるとみなしていた。私はルルス、と拾われてからは良く声に出した。なじまない、それは私の名前ではないと言う感覚がぬぐえなかったからだが、ここしばらくはそのようなこともない。視界の端にちらちらと見える自分の髪の色が橙であることも思ったよりすぐに慣れた。夫とともに婚礼に使う盃を焼いたのも、楽しいと思えた。本当は生まれた時に神の炎を飲ませた器を互いに使うんだけど、ないからね、と苦笑した夫の笑顔と、彼の爪の間に入り込んだ粘土の茶色い色をよく覚えている。普段まったく汚れない人の見慣れない姿というのはとても印象深いも のだ。ここでの生活に不満はない。終わりは近い、と村を見て回るたびに思うけれども、それを意識しているのかいないのか、毎日を懸命に生きている。ただ、空を見上げるたびにこれは正しい世界ではないと思ってしまうのだ。

 ルルスを村に受け入れた長は、たびたび空を見上げるルルスの頭をなでながら、青空と星空が恋しいのかね、と尋ねてくれた。青空、 星空。その言葉を聞いた瞬間あふれた涙の熱さを、ルルスは覚えている。その涙をぬぐってくれた、長の優しく固い指先も。しばらくしてから部屋に戻ってきたソルタは、目を赤くしたルルスにたいそう驚いて、声もかけられずルルスが座る椅子の周りをくるくると歩いていた。おかしくて笑ってしまったら、それをきっかけに声をかけてきた。そんな、出会ってすぐのことを最近よく思い出す。


「さあ、できたよ。今日も美しい髪だ」

「ありがとうございます、ソルタ様」

「どういたしまして。ルルス、今日はなにか、予定はあるのかい」

「村の子供たちに本を読んであげる約束をしています。ソルタ様もご一緒されますか?」


 それはいい、とソルタは小さくうなずいてくれた。ぜひ一緒に、 と手を差し出されたのでその手を握り、ともに神殿中心部へと向かう。紙か布でできた本は貴重品だが、読まずに保存していては劣化に気づかないことが多い。積極的に読み、書かれたものを広め、場合によっては複製することが奨励されている。そろそろ、物語の一族を作る必要があるかもね、と物憂げにソルタが思案しているのに同意したため、物語や文字に興味を示す、適性のある人を探してみようと思ったのだ、と伝えるとありがとう、とソルタはうなずいた。 そして、ふと気づいたようにルルスを見た。


「そういえば。神殿には炎と世界の物語があるよ。もとは部外秘だったらしいからなんとなくルルスには見せてこなかったけれど、もう 良いだろう。読んでみるかい?」


 かつて、夜に覆われる前、世界がとても広くて人がたくさんいたころの炎の教えだから、現実と乖離していて巫女の間でも人気はないんだ、と苦笑するソルタに、ルルスはぜひ、と返事をした。違和感があろうとなかろうと、ルルスは炎の仲間入りをしたのだ。積極

的に炎としてありたい、とそう思っているし、ソルタが奉じる炎の教えであれば過去の遺物となってしまっていても、積極的に知っていきたいのだ。


 アッカツネ、と村人たちが呼ぶ神の炎の部屋、その壁に作りつけられていた戸棚から、巫女が何冊かの本を取り出した。炎の精霊の話、炎の狐とともに暮らした男の話。炎の狐と暮らした男のもとに人が集まり、そうして作られた赤狐殿という組織と、その妻が作り

上げた国の話。クニ、という響きにソルタは昔はもっとたくさんの人がいてね、と説明をし始めた。ええ、知っている言葉です、とルルスは答える。そう、目覚めてから一度も聞いたことがなかった国という言葉を、青空や、星空という言葉とともに、ルルスは知っている。


「ルルスはきっと、夜が世界を覆う前のことを知っているんだね」

「そうかもしれません......思い出せないことが悔しいです」


 何か、今を生きる役に立つような知識。そういったものがあれば、 と思う。異なるものを見る目で遠巻きにされることもあるし、心無い言葉をソルタの目の届かないところでかけられたこともある。だが限りある資源を譲ることに疑問を呈することはしなかった、善良なる炎の人たちの役に立ちたいという気持ちはいつもから回ってばかりだ。


「記憶の手掛かりになるかもね」


そう笑ってソルタは一冊の立派な本を差し出してくる。


「ソルタ様、これは?」

「これはね、世界の話だ。私にはなかなか想像することが難しいけれど、長はよく寝物語に聞かせてくれたんだよ」


 ルルスの声で聴きたい、読んでくれないか。ソルタから受け取った本を開くと、きらびやかな装飾文字が踊っている。


「読み違えがあったら、教えてくださいね」


 こほん、と一つ咳払いをして、ルルスはゆっくりと文字をたどる。



 はじまりはなにもなかった。ただ闇が広がるばかり。

 闇は凝って小さな光を発した。

 光は炎となり、四つ足の獣となった。狐である。

 狐は土をこねて仲間を作った。

 仲間は増えたが、増えた仲間は炎ではなく肉を持つ獣だった。

 獣はすぐに動かなくなり、狐は涙をこぼした。

 滴る涙は海となった。


「創世の神話ですね」

「ああ、そうだよ。海が生まれ、魚が泳ぐ。海はたくさんの水で、魚は水の中で生きていくことができる生き物のことだ。そうだね?」

「その通りです、ソルタ様」

「魚を食べて、肉を持つ狐はもう少し長生きするようになったけど、それでもすぐに死んだ。悲しんだ炎の狐はさらに仲間を作ったけど、涙で歪む視界の中で、不格好な形のものを作ってしまった。人間だ。だから、私たちは四つ足ではなく二つ足の生き物なのだ、と続く」


 ルルスはこの物語を知っているのかな? ソルタに問われて、ルルスは自分の知識を顧みた。これは創世の神話の一つである、という答えが返ってくる。


「知っているようですが...おそらく、私が知っている創世の神話は これだけではありません」


 違う創世の神話は、違う神を至高神として奉る物語だ。不愉快にさせてしまわないだろうか、という不安はそうなんだ、と目を輝かせたソルタの反応で消えていく。ねえ、物語ならば思い出せたりしないかな。ほかの神話を知っているかい? 問われて、先ほど開いて いた本を確認する。パラパラと項をめくればやがて神話は歴史書のように体裁を整えていった。炎の王国、女王の統べるソルタニーイェ、炎の狐を神と崇める赤狐殿の成立と発展。

 なるほど、ここはソルタニーイェの末裔のすむ村なのだ、とルルスは瞬きをした。巫女ばかりで男が神殿の中心部にほとんどいないのも、そのせいだろう。国の名を意識すると同時に、それならば他の国も、と思うだけで言葉が口からあふれ出る。


 青い狼を奉るウィステルアーウィ王国。水の精霊とともに旅をした青眼青髪の剣士の冒険譚。

 月を崇め、その月そのものであると皇帝を擁立するルルグス皇国。月に従い、主従の関係を結ぶ太陽の王国シエルバ。慈愛深く人々を導く銀の姫と、彼女に焦がれる金の従者の恋物語。

  土とともに生きる、蛇の民。あまねく大地に広がった、国を持たない旅団の記録。

 風を神として祀るラッハトルシェ神国。風の絶えない渓谷に吊るされた幾千万の鈴の音がすべてを決める、その輝かしい歌と旋律。


「......私は、語れます。歌えます、全て」


 本の最後は地図になっていた。拙い線だが、大まかに国の位置関係はわかるようになっている、地図。ルルスの思う世界と、あまり変わりはない。その地図の端、海の向こうに一言、夜の国と書いてある。下には短い四行詩。


海の果て、いと遠く

誰もやがて流れ着く


 そこまで読み上げると、ソルタが残りをうたい上げた。


夜の揺籃、安寧の地

死者の暮らす夜の国


「思い出しました。私は嘘偽りなく、夜の子だた......」

「ルルス?」

「私だけは、夜の国に生まれた、夜の子だった」


 この狭い、炎に頼りなんとか命をつないでいる、百人にも満たないちっぽけな村。慕ってくれた子供たちの眼差し、敬意をもって接してくれた神殿の巫女たちの声、震えるルルスをなだめてくれた長の温かくかさついた掌、そして毎日目を覚ますと髪を梳いてくれて

いたソルタの細やかな気遣い。世界の終わりを生き延びることができた、優しい人たち。ルルスの脳裏に駆け巡るのは、本当に良い思い出たちだ。熱い炎も人のぬくもりも、拾われたルルスにとってはとてもありがたく、そして、自分の来し方を思い出した今では尊さ

を増すばかりで、どうしてもソルタの顔を見ることができない。ごめんなさい、と小さく謝ることしかできなかった。



 ソルタは大いに戸惑っていた。夜の国の話題が出てからというもの、妻であるルルスの機嫌が良くない。不機嫌という訳では無いのだが、視線は合わないし顔色も悪い。朝起きて髪を梳くときも、大人しくされるがままで、まるで人形のように心あらずだった。今日は散歩に誘ってみようか、それともきらびやかな服を贈ってみようか。る彼女の髪を手に取りながら考えているとふと、目に入るものがあった。黒い髪。穏やかな橙色の中に一本だけ、黒く染まった髪の毛があった。夜だ、と思い、ソルタはその一本に丁寧に指を添わせる。二回、三回と撫でていけば夜の気配は立ち去って、他と変わらない色に戻っていく。

 ソルタはルルスが大切だ。一目見た時からその可愛らしさや美しさを欲したし、声を聞いて目を見て絶対に共にありたいと思った。だが、ソルタソルタで、この村の精神的な支柱であり、夜を退けるものでなくてはならない。


「ルルス」

「......ソルタ様?」

「君は、私と共に炎として暮らしてくれるかい」


 先日は嬉しそうに首肯してくれた問いかけに、ルルスは答えなかった。肩に手を置いているからこそわかる体のこわばりに、悲しみが込み上げてくる。


「ルルス」

「ソルタ様、私は、私はあなたを愛しています。この村も。炎と共に生きるこの村の人々も」

「なら、何を悲しむことがあるのかな?」

「私は夜の子でした、炎ではない」

「私がそう呼んだのがいけなかったかい?」

「いえ、そのようなことは。あなたは正しく、私の本質を捉えたのです。ずっと不思議でした。他の方々は夜から拾ってきた、世界の外から来た、闇、星と私を指すのにあなただけは私を夜の子と呼んだ」

「それは、確かに......でも、それが何か?」

「私はあなたを炎だと思いました」

「うん、私は炎だ」


 ひとつ頷き、ソルタは立てた人差し指の先をほんの少しほどいて炎をともして見せた。体全てを炎に戻すのはとても大変だが、こうして簡単な火種を作ること、炎を介して神の炎アッカツネを呼ぶのはソルタにとって息をするのと同じほどに容易い。


「私は、夜なのです」


 振り向いて顔を見てくるルルスの瞳が、初めて会った時と同じ漆黒に銀の散る虹彩になっていて、ソルタは驚いて覗き込んだ。


「思い出してしまったのです。私は、炎の民でありたかった」

「そうありたいならば、そうあれば良い。私は炎だ、ルルス、君を炎に染め続けることはできる」

「いつまで?」

「いつまで、とは......?」

「ソルタ様、村人は何歳まで生きるのです。長は、何歳ですか」

「炎に馴染めなかった赤子は直ぐに内蔵を焼かれて死ぬね。そうでなければ、炎に負けるまでは生き続ける。長は、もう三百ほど歳を重ねているはずだが……」


 肉体が炎に耐えられなくなったら、内側から燃えて炎に還るのだ。 早めに気づいて自ら神の炎に還るものも、一定数いる。なぜそのようなことを聞くのだろう。


「ソルタ様、人はそんなに長くは生きられないのです、普通は」


  夜にほどけていってしまわないようにと神の炎を飲む、そのために不完全な不死を身につけたのでしょうけれど、とルルスは静かに、淡々と言葉を紡ぐ。

 そっと瞼を掌で覆うと、まつ毛が擽ったい。じんわりと炎を流した後に手を離せば、ルルスの瞳はいつもの橙色に戻っていた。


「それは、悪いことかな」

「いいえ、生き延びるための工夫、知恵を凝らしての毎日は人の世の常です」

「なら、ルルスがここで炎として生き続けることとなんの違いがあるだろう。毎朝髪を梳いているその習慣に、炎を染み込ませるという簡単な動作が加わるだけだ」

「でも、正しくはない......世界は正しく終わらないと、新しく生まれることは出来ないのです。ソルタ様、私はあなたもこの村の人々も好きです。愛しい。温もりを手放したくない」

「手放さなければ良い」

「でも私は、青空を見たい。星空を知りたい。風駆け抜ける草原、葉擦れざわめく森、波轟く海......そして広い世界に生きる様々な人、動物達のいる世界を見たい」

「......思い出した、と言ったね。語ってくれないか、君の知る世界を。何をどう感じて生きてきて、いま、何が正しいと思うのかを。ルルス......ルルスではない名前があったのかな。あったとしても、私は君をルルスと呼びたいのだけれど」


 ソルタは意識して穏やかな笑顔を浮かべて、ルルスの瞳をのぞき込んだ。目をそらそうとするのを先回りして、顔をそらせないよう両手で頬を挟み込む。ねえ、ルルス。お願い。


「そうですね、語らせてください、ソルタ様。そして私をルルスと呼んでください。私の名前はルルス。かつての名はありません」


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