朝。鐘鳴らしの一族の鐘の音とともにソルタは目覚める。そのまま寝ようが、それより早く起きようが、ソルタに意見するものはほとんどいないが、起きて、妻の髪を櫛で梳くのがソルタは好きだ。細く滑らかな白い髪は透明感があり、炎のよう、太陽のようと言わ れるソルタの巻き毛とは違う。まっすぐで、流れるように指の間を 零れ落ちていく髪に触れるのはとても楽しい。


「ソルタ様、おはようございます」

「おはよう、ルルス」


 さあ、髪を梳くよ、と声をかけて、部屋に置いてある油をわずかに掌に伸ばして、彼女の髪を掬う。毛先から油をなじませて、ゆっくりと指を滑らせ、仕上げに櫛を通す。ちらちらと揺れる炎に照らされて、つやを増した髪は橙に輝いている。そして、惜しいな、と

も思った。かつて、彼女の髪は夜の帳を思わせるつややかな黒だったのだ。

 ルルスは三年ほど前に、ソルタが拾った女性だ。拾った、というには語弊がある。彼女はこの世界を取り巻く闇から生まれた。それを、ソルタはしっかりとその赤い瞳に映していた。


 夜が激しくうごめいたのだった。静かに、しかし気が付けば手遅れになるように浸食してくる夜らしからぬその動きに、ソルタは炎を撒くのをやめて静かにその動きを観察した。ともに来ていた村の男たちも、異変に気付いたのかたいまつを向けて顔を引きつらせて いる。夜は、ただの夜だ。人の世界は夜の浸食により滅びたけれど も、夜にそのような意図はないだろう。ただ、あふれ出て広がって、 たまたまそれが人にとって不都合であっただけのことだ。

 だが、この夜の動きには意思があるように感じられた。苦しみ、 焦り、もがいている生き物の気配。炎の光で押し戻すべきか、と悩んでいるうちに、勢いよく炎の領域に闇が伸びだしてきた。細い棒。先端が薄く広がり、五本に枝分かれしている黒いなにか。それが手だ、とわかった瞬間にソルタはその伸ばされた手を握っていた。温かい。握ったところから、その手は人の肌の色に変わっていく。手を引くとずるずると肩が、頭が、肩が、胴体が現れ、まとっていた黒い闇は押し戻されていく。引きずり出されたのはまだ幼さが顔に残る女性、少女のようだった。振り放せない闇がまとわりついている、と顔をしかめるも、よく見ればそれは黒い髪と衣服で、ソルタは驚いたのだった。かつて炎の精霊を崇める王国を築いていた、その国の生き残りが住むこの村は、ソルタほどの燃え上がる赤い髪ではなくとも、橙色、薄いサンゴ色である者たちばかりだ。

 警戒する男たちを後目に、ソルタは彼女を連れ帰ることに決めた。

 連れ帰った時はかなりの反発があった。黒い髪、目を開けると瞳も黒い。そして、黒い服を身にまとっている、夜から出てきた少女。それでもソルタはあきらめたくはなかった。だって、彼女は生きていて、まっすぐな黒髪も夜のような瞳も美しく感じられたし、口を開いたときにまろび出た鈴のような軽やかな声も気に入った。名を聞かれ、口ごもり、途方に暮れた顔でわからない、とだけ呟いた彼女を、手を握る力のか弱さ、震える儚さを守ってやりたいと思ったことを、ソルタは今でも覚えている。だから、ソルタは己の住ま う神殿に彼女を招き入れた。彼女が夜を広げないこと、神の炎が彼女を害さないことを確認し、人々に知らしめて、そして、村の長にも相談した。

 長は幼いソルタの髪をしわだらけの手で梳き、顔をしわくちゃにして瞳を覗き込むのが好きだった。太陽のような瞳、温かい日差しのような髪、とソルタを愛してくれた。ソルタも長に良く懐いた。ソルタは母を知らない。父は村の中央、神殿に置かれた神の炎で、その炎に焼かれた巫女が三日三晩苦しみながら産み落としたのがソルタである。神の炎に傅く巫女たちはソルタを通して父を見る。まだ幼い頃、人とも炎と持つかない存在であった炎を、人としてかわいがってくれたのは長だった。長は本当に幼い少女であったころ、 緑あふれる大地と青い空、熱く輝く太陽と冷たく光る月や星を見たことがある最後の人間で、ソルタの寝物語によくよく語ってくれていた。今でもソルタは長を頼りにしているし、長も、ソルタに昔語りをすることを好んでいた。その長は、最初言葉を荒げて言い争う ソルタたちを後目に何も言わずに黙って眺めていたのだが、手招きして呼び寄せた少女の瞳を覗き込むと、ああ、闇だね、と小さくつぶやいたのだった。


「私たちを慰めてくれていたころの、安らぎの夜だよ。悪い子ではないだろう」

「しかし、長よ。私たちにとって夜は外敵だ」

「瞳を見たかい? 黒い瞳に、銀色の光が散っている。ルルスのようだ」


 ルルス、とその場にいた者たちは口々につぶやいた。星というのは、 かつて空にちりばめられていた白く輝く美しいものたちの名前だった。夜の闇の中にあって、なお光り輝き人の行く先を示してくれていた尊い物。夜ではなく、星とすれば反発はある程度おさまるだろう。ソルタはそう考え、少女にルルスの名を与えた。ルルスはそうして、三年前にこの村に受け入れられたのだった。そして今日、彼女は正式に炎の民になり、ソルタの妻となる。


 かつて彼女が着ていた黒くゆったりとした布には金や銀の糸で星をかたどったのであろう刺繍が多く刺されていた。その衣は処分していないものの、背が伸び、体の丸みが増えて女性らしくなったルルスの体には合わない。ソルタと暮らすようになってからは白麻の、 飾り気のない長衣を身に着けていたが、今日のための婚礼の衣装はソルタの横に立って見劣りしないように、あらゆる炎の意匠で飾り立ててある。


「ソルタ様、似合いますか?」


 炎を背後にルルスはソルタに向けて美しい微笑みを見せた。金銀色とりどりの金属片と透明な水晶片を縫い付けた衣を身に着けて、結わえずに流された髪はそのままに、鎖を編んだ飾りをかぶっている。そこにぶら下げられた紅玉の数々も、髪の白さを引き立てて美

しさを改めて問われるまでもなかった。


「似合っているよ。ルルスはいつも美しいけれど、今日も飛び切り美しい」


村で生きていくことは、炎の恵みを受けることだ。色濃く夜の気配を漂わせていたルルスからゆっくりと夜を抜いていき、彼女の美しかった髪と瞳が柔らかな灰色になるころには、ルルスはその穏やかな性質と労働をいとわない性格からほとんどのものに好意的にみ

られていた。今日、巫女たちが着せたこの婚礼衣装も、村の人々が一人一つの刺繍を施してくれたのだ、とソルタは聞いている。


「村人たちも祝福してくれている。......改めて。ルルス、炎ととも に過ごすこの村の一員になってくれるかな」

「もちろんです、ソルタ様」

ソルタである私とともに過ごしてくれるかい?」

「もう三年。ソルタとともにいます。これからも、かなうならずっと」


 傍から見たら淡々としたやり取りだっただろう。だが、ルルスは手を伸ばしてソルタの手を握ってくれたし、ソルタはルルスの真摯なまなざしに心からうれしさを感じていた。


 この村で生まれた赤子は、母の乳よりも先に炎を飲む。夜が指先をかすめても即座にほどけないように、と神の炎を盃に汲んでゆっくりと飲ませるのだ。そうして炎を体に宿し、夜に抵抗力をつける。そのあとも一年に一度、誕生を祝って一口ずつ炎を飲み下す。ルルスはこの村にきて三年目だが、長曰く、夜に愛されている子、とのことだったので、夜が抜けるまで炎を飲むことを禁止した。夜に耐性があるのか、夜に愛されるあまりほどけやすいのかはわからなかったため、村と夜のはざまの見回りは禁止し、常に神の炎の近く で過ごしてもらってはいたけれども、炎を取り入れるのは初めてのことになる。

 この日のために二人で土を掘り、粘土を練って寝かせ、焼いた素焼きの器には、神の炎を表す文様と、その上に瞬く星を刻んだ。その盃で、巫女たちがゆっくりと炎を汲んだ。盃は長に手渡され、長はアッカツネのお導きがありますように、と炎に息を吹きかけて、 そのままソルタに盃を渡す。ソルタも同様に、アッカツネのお導きがありますように、とつぶやいて息を吹きかける。隣に立つルルスに差し出して、ルルスは少し、手を震えさせながらもそれを受け 取った。緊張しているのだろう、じっと、盃の中の炎を見つめてい る。明日にしようか、とソルタが声をかけようか迷っていると、ルルスはそのまま意を決したように目をつぶり勢いよく盃を呷った。 開かれた唇の中に炎が流れ込み、こくりこくりとのどが動く。眉がしかめられ、苦しげに体を折ったけれども、ソルタが支えてほんの一時、体から力を抜いてにこりと微笑んで見上げてきた。その瞳は銀が走ったままだが、穏やかな橙色。髪も、目の前でじわじわと明るく橙色に染まっていく。


「ルルス......美しい色だね」

「良く染まりましたなぁ。うんうん、穏やかな日差しの色だ。優しい色に染まった……文句を言うものも、これならいないでしょう」


 しわくちゃな顔をさらにしわくちゃにして、長は心の底からの笑顔を浮かべている。


「炎、が分かります、私」


 戸惑うようにルルスはのどからみぞおち、腹にかけてを自分の指でなぞっていた。


「体をめぐっているだろう、ルルス」

「ええ」

「それが我らを生かす炎だよ。望まぬ夜から守ってくれる」


 ルルスの中を巡る炎の痕跡を、ソルタもまた辿った。飲み下した腹からじわじわと、巡り巡っていく炎はほかの村人たちと変わらない。大人になって初めて炎を飲んだのだから何かの不具合があってはいけないと思っていたソルタの思いは杞憂のようだった。喉をさすり、髪を梳き、その柔らかな肌を撫でていると、ほう、とルルスの唇から吐息が漏れた。その息の湿った熱さと潤んだ眼差しに慌てて距離をとる。立てるかい、と引っ張り上げて、私はそのままでもよかったのにと残念そうなルルスの額を小突いた。


「これから祝いの宴だからね、ルルス」

「そうですよ、ルルス様。ソルタ様はたいそう、今日という日を楽しみにしていらしたのですから」

「わずかばかりですが酒と、馳走がありますからな。皆、祝い事を口実に騒ぎたいということもありましょう。ルルス様もお楽しみいただければと思いますよ」


 実際、神殿の扉を開きルルスが外に出た時の歓声はかなりの大きさだった。やはり、見慣れた色に染まったことによる安心感は大きい。身につけた婚礼衣装が炎のゆらめきを思わせるものだったのも、一役買ったのかもしれない。そのままなし崩しにはじまった宴会で、 神殿前の広場に並べられた食事はいつもより味が濃かった。調味料をふんだんに使ったのだろう。甘さや辛さ、塩辛さがいつもより激しく、ついつい酒に手が伸びる席だった。豆をつぶして薄焼きにしたもので茸を巻いて食べる。薬草の香りが鼻から抜けていく快感は、 植物が育ちにくい今となってはこれ以上はない贅沢だ。肉があれば言うことはないのだけれど、鳥は今、雄と雌が一対いるだけになってしまった。数が増えない限り、屠るわけにもいかない。赤子が生 まれる度に開かれていた宴も最近はご無沙汰で、定期的な気晴らしとしての祭りが必要かもしれない、とソルタは心に書き留めた。





 ルルスは夜の子だった。夜を抜いて炎の妻になった。

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