第40話 恩讐の彼方のノーサイド
それでも、七菜はあきらめることができなかった。くっきり残ったボール跡を指さし、正審に訴えた。
「ボール跡を確認してもらえませんか?」
「ボール跡を指しての抗議は、ルール上できません」
と正審は毅然と言う。
七菜は蒼ざめ、ポロポロ涙をこぼした。
「ええ、ええ、だから、イエローカード、出してください。でも、ボール跡の確認は、正審の意思で、ルール上できますよね?」
正審が行く前に、副審がセンターラインとサービスラインが交わるところへ歩み寄っていた。そして明確に残る細長い痕跡を指さし、
「この跡で間違いありません」
と告げた。
近くに他の跡はない。
正審がその横へ進み、ひざまずいて目を凝らした。
そして正審は審判台へ戻り、イエローカードを取り、ネットへ集まった四人の選手に言った。
「ボール跡を確認したところ、フォルト、でした。セカンドレシーブからプレーを再開します。なお、紅玉高校、小原・坂東組には、イエローカードを提示します」
救いのイエローに、留美も七菜も涙を流しながら手を取り合い、ベースラインへ歩いた。
「わたしら、まだ、生きているがですね?」
と言う七菜の涙は、嬉し涙に変わっていた。
留美の指が、それをぬぐった。
「まだまだだよ。ここで一本、返せなかったら、やっぱりすべてが終っちまうんだ。あたいら、一本一本、ちょっとずつでも成長していくしかないんだよ」
ゲームが再開し、観衆が固唾を呑んで見守った。
緑子がセカンドサービスを、無理をせず、丁寧に入れてきた。
『ここでの小細工は、流れを変えることはできない』
と留美は考えた。
「魂の一打」
と留美は叫び、前へ踏み込みながらライジングでフォアレシーブを叩き込んだ。
逆クロスのコーナーをドカンと粉砕する熱球に、緑子は腰が引けた。バックハンドでストレートへ逃げようとしたが、留美の破壊力に押され、甘いロビングとなった。
留美は右へ右へ走った。
『ここで決めないと、負けるんだ・・チャンスは大ピンチ・・』
そう燃える鼓動が叫んでいた。飛ぶように加速して、揺れ動く白球へ突進した。
「おりゃあ」
ストレートへスマッシュを叩き込んだ。
空いたミドルへフォローに動きかけていた緑子が、懸命に身をねじり、長い手足を伸ばして、バックの裏面で驚異の粘りを見せた。
ふらふらと返ってきた白球に対し、コート外まで走り抜けた留美が、フォアに回り込みながら猛然と前進した。さらなるチャンスが彼女の前に輝いている。チャンスであればあるほど、決めなきゃ終わりのピンチなのだ。
「どりゃあ」
もう一度叫び、またもミドルへ動きかける緑子の逆を突き、留美はストレートへスマッシュを一閃させた。白球がワンバウンドでフェンスを越え、東青山学園の応援席を引き裂いた。
紅玉の応援席からキャアキャア悲鳴のような喜びが発せられた。
起死回生のデュースに持ち込んだ留美と七菜だったが、次は緑子にスマッシュを決められ、再び窮地に追い込まれた。
それでも留美のサービスからの前進ジャンプスマッシュで追いついたのだ。
だけどその次のポイントで、留美のポーチボレーが緑子のフォローエースで返され、三度目のマッチポイントを奪われてしまった。
留美が七菜に狂ったように呼びかけた。
「もう一回だけでいい。もう一回だけ、挽回するんだ」
「死んでも負けない」
と七菜も狂った目で絶叫した。
留美はレシーブのポジションでサーバーの真凛を睨みつけた。
『マリリン、あたい、あんたにどうしても勝てんかった。それはあんたの得意のショットを押さえられなかったから。きっと、ここのサーブから、また、あんたは、伝家の宝刀を抜きやがるんだろう? でもね、あたい、それをぶった斬るために今日まで走り込んできたんだぜ』
「アドバンテージサーバー」
と正審がコールした。
真凛は手首のスナップを効かせ、留美のボディーへと、伸びのあるファーストサービスを撃ち込んだ。
留美はフォアに回り込んで緑子を制し、逆クロスへレシーブを振り切った。そして大きく空いたミドルへ前進ダッシュした。
真凛は軽やかなフットワークでフォアに回った。大きく膝を曲げ、ボールを引きつけた。
『来る』
と留美の胸が叫んだ。
「レーザードロップ」
と叫びながら、真凛がコンパクトなドライブスイングを一閃した。
その一瞬前、留美の足は逆クロス前方へと急転回して、脱兎のごとく加速していた。真凛の決め球、高速ショート逆クロスは、センターラインを越えた巨漢の緑子の後ろを通り、留美の視界から消えた。恐ろしい魔球だ。留美は懸命に足を動かし、心の目で白球を追った。そして見つけた白球は、ネットを越えるとサイドラインいっぱいへ鋭く沈んだ。留美の目がグワッと見開き、足の回転が極限まで増した。バックのローボレーを突き出すと、親指にズシッと重みが食い込んだ。
「稲妻ボレー」
と叫んでそれを撥ね返した。
白球が光の玉となって、誰もいないストレートを突き抜けた。
伝家の宝刀の完璧な手応えにガッツポーズをしかけていた真凛は、ただ愕然と見送るしかなかった。
隣のコートまで走り抜けた留美は、観衆のどよめきと拍手に包まれながら、駆け寄って来た七菜と手を取り合った。そして万歳をして喜ぶ仲間たちの方へ、チェンジサイドを行った。
「いいかい、七菜、あたいら、マリリンと緑子に互角の試合をしている・・」
七菜の瞳を覗き込みながら、留美は言う。
「でも、このままじゃ、今までと同じで、勝てない気がするんだ。それでも、あと一歩、あとほんのちょっとでいいから、あと一歩、あたいらが成長できれば、きっと勝てる。負けたくないのは、あの二人も同じ。そんな相手に勝つには、あたいら、何かしら、プラスアルファ、が必要なんだ。一球一球、技術的にも、メンタル的にも、何かしらプラスアルファをつかんで、成長した方が、最後に勝つのさ。だけど今、七菜は肘を痛めちまって、プラスどころかマイナスだ。でもね、きっと人生なんて、こんな困難ばっかなんだよ。こんな時こそ、この困難を逆に生かして、マイナスをプラスに変えるかとが出来たら、それだけでもう、人生に勝利したって、胸を張れるんじゃないかな」
七菜の細い目が、三日月のように笑った。
「俊コーチのせいで、留美先輩も、りっぱなほら吹きっちゃ」
「バカ言ってんじゃないよ・・」
と留美が言った時、正審にまたも「レッツプレイ」と注意された。
ただし、正審が注意したのは、両行の選手たちに対してだった。
緑子も、真凛と話し込んでいたのだ。
それはこんな話だった・・
「なあ、マリリン、七菜のやつ、どうしてバックに回り込んで、ロブばかり上げるようになったんだ?」
と緑子が相談し、真凛がこう答えていたのだ。
「それは、わたくしも気になっていますのよ。おそらく、留美が、自分が勝負するから、と言って、七菜にロブで続けさせていると思いますわ。七菜は、バックの方がロブが安定しているから、バック中心で打っている・・でも、もしかしたら、別の理由かもしれませんわ」
「何だい、別の理由って?」
緑子が問うと、真凛は唇の端を少し上げてほくそ笑んだ。
「七菜は腕を痛めて、シュートボールが打てないのかも。だとしたら、緑子、あなたは七菜のつなぎのロブだけ狙って、スマッシュすればいいですのよ」
「デュースアゲイン」
と正審がコールした。
ネットについた留美は、レシーバーの真凛を見つめて考えていた。
『あたいが続けてクロスポーチに出ているから、さすがにもうポーチはないと、マリリンは思ってくれるだろうか? いずれにせよ、クロスに強打されたら、勝ち目はないんだから、あたいは出るしかないんだ』
サービスの構えに入った七菜も、心で自分と会話していた。
『マイナスをプラスに変えるって、どうすればいいが? この一本の、わたしのプラスアルファって、何だ? あの二人に、いつまでもごまかしは利かないはず。ならば、緑子先輩は、わたしのロブを狙ってくるがよ。わたしはまだ、バックならシュートが打てる気がする。この一本、命がけでやってみせる』
トスを上げ、ファーストサービスを、レシーバーの打点が落ちるよう、スライス系でミドルよりに短く入れた。
それを真凛は待っていた。
「やっぱり強いボールが打てないのですわ」
と緑子に告げながら、さあっとフォアに回って前進していた。
それでも留美はクロスポーチへ飛び出した。
真凛はストレートへ、トップスピンのロビングで攻めた。深さも速さもコースも完璧なレシーブだ。
『つなぎのロブが来る』
と緑子は確信した。飛ぶようにポジションに移動し、プレッシャーをかけた。
七菜は風を切って走りながら、ここしかないと直感した。
『この一本に全エネルギーを注ぎ込む。マイナスをプラスに変えてみせる。ここを失ったら、もう勝ち目なんてないんだ』
バウンドして伸びる白球に右足を合わせ、膝を曲げ、左へ跳びながら、七菜はバックハンドで力の限りスイングした。睨みつける白球が、インパクトで止まって見えた。
「うわああ」
狂った声が彼女から噴き出ていた。鍛え抜かれた腰がブンッと音をたて、打撃音がコートに響いた。
緑子はスマッシュ狙いのステップで下がりつつあった。
「あっ」
驚きが緑子と真凛から発せられた。
七菜は夢のような逆クロスパッシングを撃った後、走り抜けながら万歳をした。一瞬、肘の激痛も喜びで吹き飛んでいた。
小さい娘のスーパーショットに、会場に拍手が鳴り響いた。
紅玉高校の仲間たちは、抱き合って飛び跳ねた。
「凄いぞ、凄いぞ」
と再び明美が音頭を取った。
紅玉の皆も、怒涛のダンスと叫びで狂い咲いた。
「七菜のシュートは芸術より凄い」
「七菜のシュートは奇跡より凄い」
「七菜のシュートは魔法より凄い」
「どういて凄い? なぜ凄い?」
「それをうちらは知っている」
「うちらはずっと見てきたから」
「ほんとの凄さを知っている」
留美が七菜の元へ駆け寄って言う。
「ナイスボールだよ、七菜。だけど、分かっているよね?」
七菜はしだいに増していく右肘の重い痺れに涙をこらえ、うなずいた。
「あと一本で追いつく気持ちでやるがでしょう?」
「ああ、あたいら、まだ何も手にしちゃいないんだ。あの二人みたいに、優勝を手にしたこともない。つまり、あたいら、あいつらにまだ負けてるってことさ。でも、この一本、この一本だけ、死に物狂いでもぎ取れれば、やっとあいつらに追いつけるんだ」
焼き尽くすような目で七菜を見つめ、留美はネットへ戻って行った。
次にレシーブする緑子は、恐ろしい目で七菜を睨んでいた。
「ちくしょう、これが七菜の魂胆だったんだ。七菜のやつ、これを打つために、ロブでつないでいやがった」
と緑子は真凛に言う。
真凛は緑子の背中を、世界の終わりを振り払うようにバーンと叩いた。
「次取られたら、終わりですのよ。だからもう、絶対に隙を見せちゃダメですよ。わたくしが何とかしますわ、だから、もう、決して負けませんわよ」
「アドバンテージサーバー」
と正審がコールした。
「さあ、来い」
とネットにつく留美は叫びながら考えた。
『七菜のバックは健在のようだ。ならば、ここでも七菜のフォアに打たれないようにしよう。まずは、緑子にストレートロブは打たせないぞ』
手の平の白球を見つめながら、七菜は心に誓った。
『負けないっちゃ。この腕が砕け散っても、負けないっちゃ。もう強いシュートは打てないだろうから、今度こそ、千本続けてみせる』
背中の俊が「一本だけ」と呼びかけている。七菜と留美の背中を押す、熱い視線を感じる。明美も、アンも、由由も、夢香も、「一本だけ」と絶叫している。彼女たちの祈りが、二人の心をたぎらせている。輝羅も、佐子も、真由も、美衣子も、鈴も、璃子も、織江先生も、敦子ママも、由紀姉さんも、「一本だけ」と訴えている。みんな狂ったように祈っている。
七菜はトスを上げ、逆クロスへ押し込むようにサービスを入れた。スピードはないが、魂がこもったサービスだ。
緑子がフォアに回り込むと、留美はストレートのロビングを狙って、スマッシュのステップを踏んだ。
緑子は逆クロスへロビングをして、ネットダッシュした。そして七菜がバックでもう一本逆クロスアタックをするぞと構えると、ガチガチにボレーの壁を作った。
七菜は逆クロスへロビングでつないだ。
真凛は走りながら考えを巡らせた。
『逆クロスへのロブは、七菜の前進スマッシュがあるから危険だ。ストレートのロブも、留美がさっきから狙っている。ミドルのシュートも、今の留美には通用しないだろう。ならば、いつでもサイドに打てる体勢から、強打で七菜に打ち勝つしかない』
軽快にフォアに回り、左足をストレートに向けて踏み込んだ。留美は逆クロスポーチに出る構えだ。だけどそこからストレートロビングを狙って動くのが感じ取れた。
「うおお」
と叫んで、真凛はトップ打ちを振り下ろした。
火を噴きながら襲い来る龍のような熱球を、七菜は目を剥きだして睨み、バックハンドで真凛の前へロビングする。
「うおお」
と吼え返して、右肘の悲鳴を吹き飛ばす。
『この一本を耐え抜かなきゃ、何十倍もの苦しみとなっちゃうがよ』
と七菜の心が叫ぶ。
真凛が鬼の形相で留美を制し、逆クロスのコーナーへ、大砲のようなシュートを撃ちまくる。何本も、何本も、何十本も・・
剥き出しの七菜の目が血走っていく。アタックするぞと緑子を睨み、「うおお」「うおお」叫びながら、七菜はロビングで粘り続けた。中学時代、虐待を受け、何度も『死にたい』と思った。だけど今は、一球一球、『生きたい』『生きたい』と打ち返している。数十本続くと、ラリー中なのに会場に拍手が広がっていった。「がんばれ」「がんばれ」と背中を押す応援が、「生きろ」「生きろ」と七菜には聞こえた。
そしてついに、精密な機械のようにシュートとロビングを打ち合う死闘に、事変が起きたのだ。
ポーチに出るぞとプレッシャーを与えながらストレートを狙っていた留美の動きが、サイドの守りを固めてから逆クロスへ勝負するステップに変わった。もう撃ち込む体力も限界に達していた真凛だったが、その一瞬を見逃さなかった。ここぞとばかりにストレートへパッシングしようとした。だけどそこから留美がまたサイドへ戻るのが見える。
「うぐぐぐ」
天才真凛は、食いしばった歯から呻き声を発して打点を遅らせた。ミドル打ちに切り替えたのだ。
逆を突かれた留美だが、このチャンスを逃すまいと思った。留美と七菜を真っ二つに引き裂こうとする剛球を、戦士の眼が鋭く突き刺した。腰をねじり、バックボレーに切り替え、右腕を命の限り突き伸ばした。ラケットの先のフレームに白球が食い込むのを、留美の剥き出した目が凝視した。「うわあ」と叫んで指先に力を込めた。
観衆のどよめきが吹き荒れた。
フレームでボレーされた白球は、緑子が伸ばしたラケットの先を通ってセンターマーク付近へ飛んでいく。
真凛が決死の形相で追いかけた。
その後ろの東青山学園の応援団が、
「取れる」
「がんばれ」
と悲鳴をあげている。
留美は右足でブレーキをかけ、左へターンした。
「チャンスは、大、大、大ピンチ」
と無意識の声が彼女から沸き出ていた。
真凛が走りながら、
「ううっ」
とうなった。
スライスのロビングで超人的に返球した。
「おおっ」
と観衆が真凛の執念に驚愕した。
その白球を留美は追った。
『七菜が死に物狂いで粘ってくれたこの一球、この一球を決めるために、あたいは何万本も努力してきたんだ。この一本を、七菜のために、そしてこの試合を観てくれてるすべての人のために捧げるよ』
留美の足は風を切り裂く鷹のように加速した。夢色に輝く白球が、今、空の中心となった。栄光のその場所へと、フォアに回り込みながら突進し、右足で天高くジャンプした。留美から見て、緑子も真凛もコートの左へ寄り、右側が広く空いている。だけど二人ともそのスペースへ走りかけている。フォローに走る相手の逆を突いて、ストレートへ叩き込めば決まるかもしれない。だけど留美は迷わなかった。ここで最高のプレーをするために、今まで練習してきたのだ。今、留美がやるべきこと・・それはその成果をここで昇華させることなのだ。
俊の言葉がもう一度、留美の心に希望の鐘のように響いた。
『留美、スマッシュには、トップ選手にもフォローできない、ゴールデンコース、てえのがあるんだ・・これができれば、山下・高橋組を撃ち砕ける・・』
「ゴールデンサンダー」
と留美は絶叫しながら、血豆が潰れるまで練習した逆クロスの鋭角へのスマッシュを叩き込んだ。
留美の対面の応援席からは悲鳴が、留美の背中の応援席からは歓喜の叫びが、
「キャアア、キャアア」
「キャアア、キャアア」
とテニスコートを呑み込んだ。
誰もが留美の魂のこもった白球を凝視した。フォローに飛び込んだ緑子のバックボレーの先をそれは抜け、サイドラインいっぱいに入ると、コートサイドへ伸びていった。
あきらめない真凛は、それでも走った。だけど遥かに届かず、真凛は人工芝に崩れ落ちた。体力の限界を超え、精魂尽き果て、大の字に横たわった。
七菜の手からラケットが滑り落ちた。拍手と大歓声で正審のコールも聞こえなかったが、すべてが終わったのだと、全身の細胞が感じ取っていた。すると、右肘の痛みが恐ろしいまでに膨れあがり、顔をゆがめずにはいられなかった。なのに計り知れない喜びも胸を突き破りそうで、笑わずにはいられない。だけど真凛と同じように七菜の体力も果てていて、コートに溶け込むように膝から崩れた。せめて倒れ込む前に留美に抱きしめてもらいたいと思った。なのに留美はラケットを放って俊コーチの方へ駆けて行く。拍手と歓声が続く中、俊にしがみついて号泣する留美を見て、「ばかあ」ともらしながら七菜も大の字に横たわった。青空の一部が夕焼けに染まり、涙の熱い紅が揺れた。燃える右肘の痛みと、突き抜ける幸せの絶頂の中、「うわあ、うわあ」と七菜はうめいていた。
一方、留美は、「ゲームセット」の正審のコールを聞き取っていた。そしてその直後、後ろのベンチを振り返っていた。俊が立ち上がって万歳している。するともう、留美はラケットを放し、何もかも忘れ、駆け出していた。心が爆発して、胸に真っ赤な血潮が炎上していた。溶けだした体が涙となって、俊がぼやけた。俊が見えなくなる前に、その体にしがみついていた。すると胸の底から、「うえーん」という泣声がほとばしっていた。
「やったあ、やったあ」
と狂喜する由由の声が胸に響いた。
「このこったら」
という敦子ママの声も聞こえた。
明美と夢香は抱き合い、留美と同じように大声で泣いていた。
アンはなぜか「ビューティフル、ビューティフル」と連呼していた。
織江先生はただしゃくりあげていた。
「留美先輩」
と呼びかける輝羅の泣声も聞こえた。
俊が留美の頭を叩いて、
「留美、挨拶が終らなきゃ、勝ったことにはならないんだよ。さあ、早く行きな」
留美はハッと我に返り、俊の胸を突き放していた。
「てめえ、何あたいに抱きついてんだよ」
赤い顔で留美は背を向けた。
「へっ?」
俊はフェンスに背を沈めながら、ベンチに腰を下ろした。
留美が涙をぬぐってコートを見ると、七菜が人工芝に倒れ、「うわあ、うわあ」叫んでいる。
立ち上がった真凛が、緑子と一緒にそんな七菜の元へ歩いて、手を差し伸べた。
そこへ留美も歩いて行った。
俊は静かに目を閉じた。まぶたに娘たちが輝いていた。
立てない七菜を真凛が抱き起こした。
「こんなに熱くなれた試合は、初めてですのよ」
と耳元で真凛が伝えると、緑子も七菜を引き上げながら告げた。
「七菜、強くなったな」
七菜は彼女たちの腕を振り払おうとしたが、そんな力は残っていなかった。真凛と緑子の目を見ると、悔し涙が見え隠れしているのに、七菜にやさしく笑っている。そんな二人の目に突き刺され、七菜はなぜだか『負けたちゃ』と感じた。
「二人がわたしを強くしたがです」
という声が震えた。
そこへ留美が来て、七菜を立たせるのを手伝った。
「七菜、大丈夫かい?」
と問いながら七菜の指を握る留美の指が、真凛と緑子の指にも絡んでいた。
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