第39話 死神が審判台を降りて来た
七菜は汗をぬぐうフリをして涙を拭いた。そしてレシーブのポジションへ歩きながら、自分の心に訴えた。
『あと二本、あとたった二本で、真凛先輩や緑子先輩に虐げられてきたわたしの宿命が変わるがよ。だけど、ああ、この腕が痛くて、上げることさえ困難だ。たった二本が、果てしなく遠いよ。そこに見えてるあの夕陽のように、どんなに走って、どんなに手を伸ばしても、届かない気がする。ああ、それでも、この身が焼かれても、手を伸ばし続けるがよ』
七菜は肘のケガを相手に悟られぬよう、精いっぱいの笑顔を相手に向けた。
「3-5」
と正審がコールした。
真凛が七菜の笑みを粉砕する怖い顔でファーストサービスをミドルに叩き込んだ。
「わあ」
と叫びながら、七菜はバックハンドのロビングで真凛の前へレシーブした。
真凛はサイドステップで後ろへ下がり、フォアに構えて大きく前へ踏み込んだ。
サイドかミドルへのアタックの気配に、留美は身構えた。
「うおー」
と吼えながら真凛はクロスへトップ打ちを叩き込んだ。
七菜はもう一度クロスへロビングでつないだが、フォアでの打撃はバックより数倍の痛手だった。音を発するような激痛が肘を襲い、ボールが浅くなった。
真凛がもう一度クロスへ追撃すると、七菜のロビングがさらに短くなった。
それをモンスター緑子が見逃すはずもなかった。さっと下がり、留美のバックの先へ、山を砕くような豪快なスマッシュを叩いた。
「よっしゃあ」
と天に拳を突き上げる緑子が、七菜には巨大怪物に見えた。
留美は事の深刻さを悟った。
『危険を冒してもあたいが勝負に出ないと、勝ち目はない』
と思いながら、七菜に駆け寄り、小声で尋ねた。
「フォアとバック、どっちが痛い?」
「フォアの方が、ずっとキツイです」
と七菜も対戦相手に聞こえぬ声で伝えた。
「じゃあ、あたいが七菜のフォア側へ多めに勝負するから、七菜は、バック側中心に走って、カバーしてくれ」
そう告げて、留美はレシーブの位置へ歩いた。
「4-5」
と正審がコールした。
留美は自分の心に語りかけた。
『追いつかれたら、負傷した七菜が絶対不利だ。ここを先行するには、あたいのレシーブエースしかない。あたいはこれまで、真凛のファーストサーブに対して、後衛前のロブでレシーブしてきた。ここも、それを打つと見せかけたら、緑子に隙が出来るだろう・・』
真凛がトスを上げ、強いサービスが留美のボディーへ襲ってきた。留美はフォアに回り込みながら体を開き、膝を曲げ、小さめのバックスイングで、逆クロスへのロビングの態勢を作った。そこから脇を閉めて腰を急激に回し、「おりゃあ」と叫びながら、睨んだ白球を力の限りストレートへ引っ張った。とっておきのサイドアタックだ。
だけど緑子も追い込まれていた。この一本を取られたらマッチポイントになるのだ。だからガチガチに守りに動いていた。そして「よっしゃあ」と歓喜しながらストップボレーを決めた。
『肝心なとこで、あせっちまった・・』
と留美の心が悲鳴をあげた。
ついに追いつかれてしまい、ゲームの流れも相手に渡してしまったのだ。
「留美先輩、これからが本当の勝負です』
と駆け寄った七菜が悲壮な目で強がる。
留美は七菜の震える手を握り、チェンジサイドするためにゆっくり歩きながら語りかけた。
「ああ、そうさ、次の一本こそが、本当の勝負だよ。だけど七菜、あんたの肘、今、ムリしたら、一生テニスが出来なくなるかもしれないよ。それでも戦い抜いてくれるのかい?」
七菜の指が留美に熱く絡んだ。
「言ったがでしょう? わたし、この試合に負けるくらいなら、死んだ方がましながです。あきらめなければ、奇跡は起きるんですよね? わたしたち、誰にも負けない努力をしてきたから、絶対負けません。だからわたし、次の一本に、命を懸けるがです」
留美がネットにつき、七菜がサービスの位置に着いた。
背中から、仲間たちの悲鳴に似た応援が響いていた。
「5-5」
と正審がコールした。
「先行したら負けない」
と七菜は自分に言い聞かせた。
『もう、強いサーブは打てないけど・・』
七菜はもう一度笑顔を真凛にぶつけた。
理不尽な病魔や困難に見舞われた時、笑顔で切り抜けてきた。真凛や緑子に虐待された時代も、ただ笑うしかなかった。できればここも、笑って勝ちたい。スポーツなんだから、楽しんで勝ちたい。だけど絶対王者の山下・高橋ペアは、それを許す相手ではない。
七菜はトスを上げ、歯を食いしばり、強いファーストサービスを打つと見せかけ、トップスライスのショートサービスをミドルへ放った。
「うっ」
という呻きが彼女からもれた。
フォアに回り込んだ真凛は、サービスが伸びて来ないことに気づいて、慌てて前へ動いた。打点が落ちたが、ポーチに出られても先を通せるクロスが充分空いている。レシーブの瞬間、留美が飛び出すのが見えたが、届くものかと振り切った。だけど留美の脚力は真凛の想像を超えた。フォアボレーのリーチも、想定以上に伸びた。
「おりゃあ」
という雄叫びとともに、鮮やかなポーチボレーが緑子の横へ炸裂した。
留美は振り返り、応援席のみんなと万歳をした。ベンチも俊も、居眠りせずに両手を上げている。
ついにマッチポイントを握ったのだ。
駆け寄った七菜の目が燃えている。
「まだまだこれからです。わたし、次の一本、千本でも、万本でも、粘ってみせます」
留美の目も、同じように炎上している。
「だったら、あたいがもう一本だけ、ここで決めて見せるよ。チャンスは、大ピンチ。ここはまた、逆に一本リードされている気持ちで戦うんだよ。県大会で全国出場を決めた最後の一本・・その前にあたいが言ったことを覚えているかい? 百里の半ばは九十九里だと。この一本を取らなきゃ、あたいら、永遠に到達することなどできないんだよ」
ネットのポジションへ歩く留美の心臓が痛いほど高鳴った。あと一本、そう、あとたったの一本、もぎ取れれば、初めて真凛と緑子に勝てるのだ。今までの苦労が報われるのだ。留美と七菜の人生が、たったの一本で大きく変わるのだ。
紅玉高校の部員たちが「留美、七菜・・」と二人の名前を連呼すると、観衆の半数ぐらいが共鳴して声を出した。
「6-5」
とコールする正審の声も高揚した。
会場が静まり返った時、逆クロスで七菜がトスを上げ、やはりトップスライスショートサービスを、祈るように入れた。
緑子が前へ動き、ストレートのロビングを狙う留美を見ると、無理をせず、逆クロスへロビングでレシーブした。そして大地を揺るがすバッファローのようにネットへ突進した。七菜はその逆を突き、バックハンドで逆クロスロビングでつないだ。
真凛がつむじ風を起こすように走り、フォアに回り込んだ。
「うおー」
と獣の叫びを発し、トップ打ちを逆クロスへ撃ち込んだ。
うなりを上げて襲い来る白球を七菜は睨み、
「ぐうっ」
と呻きながら、バックハンドのロビングで真凛の前へつなぐ。
『留美のやつ、ストレートのロビングを狙ってやがるな・・』
と真凛は見切り、逆クロスへライジングシュートを叩き込んだ。
バウンドして外へ逃げて伸びる白球を、七菜は歯を食いしばり、バックで同じようにつないだ。
シュートを打つ気配がないので、緑子がフォアに回り込んでスマッシュを狙うが、深すぎて躊躇した。
フォローに下がりかけた留美はポーチに出れないと思い、真凛は続けて七菜のバックを攻める。
七菜は死に物狂いで逆クロスへの深く高いロビングを続ける。
真凛の心にプレッシャーが膨らんでいく。留美にポーチに出られたら終わりなのだ。いつでもサイドパッシングを打てる構えから、前へ踏み込んで逆クロスへ叩き込む。ストレートへのロビングは留美が狙っているし、後衛前へのロビングは七菜が前進スマッシュするかもしれない。狂人のように目の色を変え、「うおー」「うおー」と叫びながら、真凛は深く重いシュートを撃ち続ける。彼女のスピード、パワー、スタミナ、メンタルタフネス、すべてが超一流だ。
何本続いたことだろう。
強く噛んでしまったのか、七菜の唇から血が流れていた。
真凛がミドル気味に撃ち込んだ時、緑子が逆クロスのロビングを狙った。
「うぐっ」
フォアで打ち返した七菜の肘が軋み音をあげ、ついにロビングが短くなった。
緑子は余裕でフォアに回り込み、無敵の剣を手にした魔将のように目を光らせた。
留美は忍者の足さばきでフォローに下がった。そして緑子のスマッシュの直前、右に動いて狙われそうなスペースに腰を入れた。
七菜もミドルへフォローに走った。死んでも負けないと思った。
「よっしゃあ」
と叫びながら、緑子のスマッシュが叩かれた瞬間、
「サンダーフラッシュ」
と叫んで留美もフォアのノーバンドストロークを振りだしていた。
バンッ、と思考回路を遮断するような轟音が響いた。悔しくて、留美は痛みなど感じなかった。だけど左ももが赤く燃え、彼女の顔もみるみる赤くなった。
「サンダーフラッシュ、敗れたり」
と緑子が拳を振り上げた。
ペアの代わりに、
「当てちゃってごめんなさいね」
と真凛が謝るが、顔も体も喜びに打ち震えている。
留美は宿敵の二人を光るナイフのような目で見返した。
「ありがとうよ、緑子。おかげで、あたいの足が目覚めたよ」
緑子が竜のような目で睨む。
「次は、その足、動けなくなるくらい痺れさせてあげるぜ」
「レッツプレイ」
と正審が声を張り上げた。
次は緑子がサービスで、七菜がレシーブだ。
七菜はレシーブの位置へ歩きながら考えた。
『これだけロブを上げてちゃ、緑子先輩も上を狙うっちゃ。でも、この肘じゃ、真凛先輩に通用するシュートは打てそうもない。だけど、バックなら、緑子先輩がロブを狙った時、パッシングショットを打てるかもしれない。絶対に負けられない戦いなんだから、たとえこの腕が折れていたとしても、たとえもう二度とテニスができないとしても、わたしは、あの二人にだけは負けられない。このまま負けたら、一生後悔するがよ』
「デュース」
と正審がコールした。
緑子が、野獣の声を上げ、高い打点からサービスをミドルに叩き込んだ。
七菜はバックハンドで低いロビングのレシーブを緑子へ返した。
留美が中央寄りにポジションを取った。
『あたいの使命は、クロスへ強いシュートを打たせないこと』
そう心で叫び、開けたストレートへ戻ると見せかけ、クロスポーチに飛び出た。
緑子はフォアでストレートロビングを上げ、前へ出ようと考えていた。だけどインパクト直前、留美がクロスへ動くのが見えた。だからチャンスを逃すまいと、ストレートパッシングに切り替えた。
留美のポーチを見て、七菜もカバーに動いていた。だけど追いつくのが精いっぱいだ。グリップをイースタンに握り替え、走りながらバックの裏面で返球したが、そこへ緑子が前進して来ている。
緑子はネットダッシュしながら考えた。留美がクロスへフォローに下がりながら「さあ来い」と叫んでいる。さっき言ったことを実行するには絶好球だ。だけどフォローされるリスクもある。何より勝つことが相手の心をへし折ることになるだろう。だから緑子は、七菜が走り抜けて誰もいなくなったストレートのミドルよりへ、確実にスマッシュを決めた。そして「よっしゃあ」と拳を突き上げ狂喜した。
真凛も絶対女王とは思えぬくらい飛び上がって喜んだ。
今度はさっきとは逆に、東青山学園の応援団がマッチポイントを祝い、
「マリリン、緑子・・」
と手拍子しながら連呼した。
重苦しい心臓の爆音が、留美と七菜に圧しかかった。
「大丈夫ばい。いい試合しとるよ」
と叫ぶ明美の声が聞こえた。
「一本だけ挽回」
仲間たちの絶叫が、留美と七菜の背中を支えた。
留美もレシーブの位置へ進みながら叫んだ。
「一本だけ挽回」
七菜も生き残るための叫び声をあげた。
「一本だけ挽回」
「アドバンテージ、サーバー」
と正審の声が響いた。
留美の心臓がさらに高鳴った。
『もう、マリリンと緑子から、一本も奪えないのか? 絶体絶命を撥ね返す、何か手立てはないのか? ここで緑子は、エースを狙ってサーブを打ってくるはず。今、あたいにできることは、まず、それを返すことだけ。それには、一歩目が勝負だ』
留美は七菜に呼びかけた。
「ぜってえ負けないよ。この一本を、取れれない限り、テニスは、ぜってえ負けないんだ」
「絶対負けない」
と七菜も絶叫した。
モンスターがトスを上げ、宙へ舞い上がりながら、ビューンと竜巻のように曲がり落ちる、とっておきのトップスピンサービスをセンターへ撃ち込んだ。ミドルも半分予想していた留美は、素早くスタートを切ったが、想定以上に速く、鋭く曲がり落ち、バウンドしてさらに大きく逃げていく。留美は目を飛び出すほど剥き出し、腕も足もちぎれるくらい伸ばした。それでも白球はラケットの先をかすめて突き抜けた。
「ううっ」
という呻きが留美からもれ出た。
会場じゅうがどよめいた。
「ゲームセット」
高らかな審判の声が、留美と七菜には死神の宣告に聞こえた。
真凛と緑子が両手を高々と上げて駆け寄り、抱き合って喜んでいる。
死神が審判台を降りて来た。
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