第38話 悲運に砕け落ちた七菜

 手を取り合って自陣に戻る留美と七菜に、フェンスの後ろの仲間たちが声をかけ激昂する。

 なのにベンチに座る俊は、赤いタオルを顔に当て、またも居眠りしていた。

「おい、俊コーチ」

 留美が俊の肩を小突いた。

「へっ、ここはどこ? おいらは・・」

「あんたは世界一のダメダメコーチだよ・・」

 と留美は毒を吐いたが、俊を見つめる彼女の目は燃えるように見開かれていた。

「居眠り禁止だって言ったのに、ほんとにあんた、ダメダメだね。ファイナルゲームになったけど、どうするよ? もうやめちゃうかい? あんたもう、ほんとにダメそうかい?」

 俊の目も大きく見開き、叫ぶような赤い目で見つめ返した。

「バカ言ってんじゃないよ。おいら、ただ寝ているフリをしていただけだって。いいかい、留美、これが、おいらたちの、最後の戦いだよ。でもね、留美、おいらが思うに、これは、最後であって、最後でないんだ。これから始まるすべての一本が、最後であって最後でない・・この戦いは、留美と七菜の心だけじゃなく、今、これを観ている同僚や後輩たちの心にも残り、テニスであれ、それ以外のことであれ、受け継がれて行くものなんだからね・・留美も七菜も、誰にも負けない努力を積み重ねてきたんだから、今までの一球一球も、これからの一球一球も、二人の魂が込められている限り、最後じゃなくて永遠なんだよ。観る者みんなの心に残り、みんなの血潮となり、受け継がれて行くものなんだ」

 留美の瞳に戦士の光が満ちてきた。

「あんた、また訳の分からないほら吹いて、ちっとも戦略のアドバイスをしない、本物のダメダメコーチだな」

 俊は笑ってうなずいた。

「ああ、ああ、おいら、本物のダメダメコーチさ。でも、留美はこんなおいらの代わりに、日本一になるって言ってくれたよね? だからおいら、このファイナルゲーム、まばたき一つせずに、おまえらの戦いを観ているよ」


 観衆の拍手が、最後の戦の舞台へ戻る選手たちに浴びせられた。


 レシーブの位置に着くと、七菜はネットの向うの仇を睨み、別人の低い声でつぶやいていた。

「我は、あんたらを倒すため、中二の時から地獄を抜けてきた。だから、この身が砕けても負けん。緑子よ、あんたは一ゲーム目の、一本目、ポーチに出てきた。ファイナルの一本目も、また出てくるのかい? それとも、それがあったから、逆にサイドに誘う気かい? どっちにしろ、今の我に怖いものなどないんだぜ」

 自分のことを『我』と呼ぶ七菜の内なる怪物の目が、夕陽を呑み込むように光った。


 正審の声がコーチに響いた。

「ゲームカウント3-3、ファイナルゲーム」


 最終ゲーム、七菜の信じ難い剛球の連打により、紅玉ペアが4-1とリードした。

 だけど真凛と緑子も女王の意地を見せ、そこから二ポイントを返した。


 七菜の口から、なおも重低音の声がもれ出た。

「追いつかれたら、地獄が待ってる。追いつかれなきゃ、負けないとぞ。次、一本先行してみせる」

 血走った目でポジションへ戻る。

 留美は逆クロスのサービスの位置へ歩きながら、心に語りかけた。

『ここは何としても、ファーストサービスを入れて、先に攻めるしかない』


「4-3」

 と正審がコールした。

「負けてたまるか」

 と留美は叫んでいた。

 トスを上げ、手首のしなりを効かせ、緑子のバックへサービスを入れた。

 緑子がバックハンドレシーブを逆クロスへ振り切って前へ出て来る。

 木枯らし舞うような足さばきで、留美はフォアに回ってミドルシュートで攻め込む。そしてネットダッシュをする。

 真凛も軽やかに動いて腰をビュンと回し、バックハンドでクロスへ打ち返す。

 恐ろしい剛球だが、七菜の目が鬼のように光ってそれを睨む。腰を落とし、いつでもサイドを抜くぞと左足を緑子に向け、全体重を白球にぶつける。

「うおー」

 という鬼神の叫びがほとばしり、真凛の剛球のスピードを逆利用したフォアのカウンターショットがクロスへ放たれた。

 真凛は必死でクロスへ戻り、ストレートを抜くぞと牽制した。そして彼女も七菜と同じように、何ものかに憑かれた怖い形相で、「うおー」と別人の叫びを発したのだ。

 さらに威力を増したカウンター返しがクロスを襲い、それを睨む七菜の細い目がグワッと見開かれた。それは身命を賭して戦う仁王の眼だ。沈めた腰の重心を前がかりにし、さらなる反攻を絶叫しながら爆裂させた。

 真凛の眼も、凶暴な獣のよう。いつでも留美にぶつけるぞと睨みながら、危険な爆球で小柄な七菜を吹き飛ばそうとする。

「うおー」

「うおー」

 と魂の叫びが繰り返された。

 人間の限界を超えた壮絶な打ち合いだ。そんな魂のぶつかり合いが何本続いただろう。観衆が手に汗握り、固唾を呑んで見つめる中、真凛のシュートが少しミドルにずれた時、ついに緑子が勝負のクロスポーチに出た。七菜は素早くフォアに回り込みながら腰を沈めた。七菜の異様に光る目が、白球を睨みながらもモンスターの飛び出しを捉えた。わずかに振り出しを遅らせ、打点を後ろにずらした。真凛の渾身の一打は鉛のように重く、七菜は右足を踏ん張り、吹き飛ばされそうな右腕に限界を超える力を込めた。

「うぐぐぐぐー」

 魂の絶叫が、その危険な一打を可能にしたが、右肘が恐ろしい音を発していた。

 緑子の逆を突いたストレートパッシングが、鮮烈に決まった。

 観衆が感嘆の声を上げ、拍手の渦が七菜を包んだ。仲間たちの「神風セブン」コールがコートへ贈られた。

 なのに七菜は喜びの腕を上げることができず、しだいに増す肘の激痛に涙目になっていた。

 七菜に駆け寄った留美が、歓喜の声をかけた。

「ナイスボールだよ。今日の七菜は、神だよ。あれっ? 七菜、どうした?」

 差し出した手を取ろうとしない七菜の目は壊れかけている。

「留美先輩、わたし、もう、強いシュート、打てないみたいがです」

 か弱い声の彼女は、普段の七菜に戻っていた。

「どうした?」

「肘を痛めてしまって・・でも、わたし、この試合、死んでもいいから、負けたくないがです」

 留美は七菜を深く見つめた。

「だったら、この試合、ここから先は、あたいに任せな。今、あたいらがやっているのは、ダブルスなんだ。ここからあたいが、七菜の分まで頑張ってみせるよ。もともと七菜は、かわしの天才なんだ。後衛の前へロブでつないで、緑子がそれを狙ったら、逆方向へロブでかわしな。ひじを痛めたと悟られたら、あいつら、とことん七菜を痛めつけにくるから、平気な顔で、いつでもシュートを打てると思わせて、走ってつなぐんだよ。七菜が粘ってくれたら、あたいが必ず勝利に導いてみせるから」

 正審が「レッツプレイ」と注意した。






























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