第37話 七菜の変身
「ゲームカウント2-3」
と正審がコールした。
『このゲームを取られたら、すべてが終る。流れを変えるためには、ファーストサーブが入ったらポーチだ・・』
とネットについた留美はレシーバーの真凛を見つめて考えた。
『だけどそれは、マリリンもよく分かっている。二ゲーム前の一本目、マリリンはレシーブのサイドパスで流れを変えた。だから今度は、クロスレシーブの確率は高いんだけど・・それでも、データーでは、ここはストレートの中ロブが多い・・ちくしょう、どうするのが正解なんだ?』
留美は一歩サイドへポジションを変えた。
『あいつの性格なら、あたいがここにいる方が、ストレートに打つ可能性が高いはず・・』
七菜はサービスの構えをしながら、横江拓也の最後のアドバイスを思い起こしていた・・
「七菜ちゃんが、あの二人と最後に戦う時、人格が変わるくらい、隠れている潜在能力を出せれば、奇跡は起こる・・」
と拓也は言って、「潜在能力?」と問う七菜に、こう続けたのだ・・
「そう、人が隠し持っている、本人も知らない、野獣の力。たとえ筋肉がちぎれ骨が砕けようと、どうしてもそれを出さなきゃいけない理由がある者だけが出せる、火事場の馬鹿力、究極のパワーさ」
今こそ、たとえ死んでも、その力を出さなきゃいけないと、七菜は唇を噛みしめ、烈しく念じた。
大声を発して真凛の正面へファーストサービスを入れた。
真凛がフォアに回り込んだ時、留美は狭いサイドに寄るふりをした直後、クロスポーチに飛び出す一歩を見せた。だけど真凛のスイングの一瞬前に、スマッシュ狙いのフットワークに切り替え、ストレートに下がった。
しかし真凛はクロスへフルスイングでレシーブしたのだ。重い剛球がコーナーへと食い込んだ。
『逃げたら負け。振り切ってフォローをやり通すっちゃ』
七菜は腰をひねり、曲げた膝で踏ん張って、襲い来る白球を睨んだ。
「わあー」
と叫んで、腰をひねり返し、ライジングで叩くと、緑子の巨体がポーチに飛び出すのが見える。
条件反射で七菜の体は左へ動く。
留美も二歩フォローに下がった。
モンスターの長い手が伸びてクロスのフォアボレーが炸裂するのに合わせ、留美がバックボレーでブロックしようと面を突き出す。
『死んでも返す』
そう心で叫びながら、ほとんど見えない白球に目を凝らす。奇跡的にフレームの上に当たって撥ね返った。だけど生贄のように緑子の前へふわりと上がっている。留美はさらに下がってもう一度フォローしようと腰を据えた。
「よっしゃあ」
と叫びながら、緑子は誰もいないクロスの鋭角へスマッシュを決めた。
留美と七菜の後ろの東青山学園の応援団から拍手と歓声が沸き起こり、緑子と真凛が天に拳を突き上げて応えている。
だけど留美と七菜の胸には、遠い仲間たちの絶叫だけが響いているのだ。
「負けるな」
「負けるな」
と、ボールを拾う二人の心を揺さぶっている。
「すぐ挽回だよ」
熱い息を吐きながら、留美は七菜の手を握る。
「次の一本だけ、絶対取り返します」
七菜の目は、追いつめられても決して壊れまいと光っている。それでも、左サイドのサービスの位置へ歩む彼女の足は震え、心臓も爆打っている。
『このまま負けちまったら、あの二人に対して、わたしは一生負け犬のままっちゃ』
中学の時、「裏切り者」と罵られ、アリ入りの弁当を食べさせられた記憶が七菜の胸に甦った。それが真凛や緑子から受けたイジメの始まりだった。
『そんなの、死んでも嫌だ。この命、この魂を、魔王に売り渡しても負けんがよ』
「0-1」
と正審がコールした。
レシーバーの緑子が七菜を睨みつけている。狙いを定めた肉食竜だ。
呑まれてなるものかと睨み返した時、七菜の奥底から熱いものが沸騰した。トスを上げると、白球が涙の虹で輝いて見えた。
「おりゃあ」
恐怖を吹き飛ばすように大声を吐き、七菜は逆クロスワイドへファーストサービスを打った。副審がフォルトの手を上げるのとほぼ同時に、緑子のバックハンドミドルアタックが炸裂する。それを留美が左手でキャッチすると、留美と緑子の睨み合いが火花を散らした。
ダブルフォルトは命取りだ。七菜は丁寧にセカンドサービスを入れ、一歩下がってスプリットステップを踏んだ。
ドーンと、砲弾のようなフォアレシーブが逆クロスコーナーへ火を噴いた。
七菜は腰を沈め、目をこじ開けるようにボールを睨んだ。歯を食いしばり、呻き声を上げながらバックハンドのライジングで振り切った。魂の一打が、真凛のバック側のミドルへ伸びていく。
留美は上を狙って下がったが、ギアをマックスに上げた真凛は、神がかりの足さばきで追いつき、バックハンドのドライブシュートで七菜のバック側へ弾き返すのだ。
七菜は右足を鋭角に踏み込み、ハリケーンのように曲がり伸びる白球を睨む。視界の隅に、青い服のモンスターがストレートへ躍り出るのが感じられた。その瞬間、七菜の胸の沸騰から、何ものかが出現した。
「うおー」
と吼えながら、その何ものかが、バックハンドを振り切っていた。
その研ぎ澄まされた目には、どんな魔球もインパクトの瞬間止まって見えたし、そのパワーは観る者たちの想像を超えた。
緑子はストレートへポーチに出るモーションを一歩見せただけで、逆クロスの甘いボールを狙っていた。そこへ、バーンという打撃音とともに、目にも留まらぬアタックが襲ってきた。
「ひゃっ」
ともらしながら、バックボレーの面を突き出そうとした。だけどそのボールは、頭を下げた留美の帽子をかすめ、緑子のラケットも吹き飛ばしたのだ。ラケットと帽子が人工芝に落ち、観客がどよめいた。
「ボディータッチ」
と審判がコールした。
東青山学園の応援団は、もう勝ったかのようにお祭り騒ぎだ。
七菜の逆転をかけた渾身の一打も、不運に弾かれたのだ。
赤黒い顔でぶるぶる震えている七菜に、留美が駆け寄って声をかけた。
「ごめんよ。でも、凄いボールだった。一本だけ、挽回しよう」
差し出した手を握る七菜の顔も、カッと見開いた目も、「もう、負けない」と返す重低音の声も、怒れる金剛力士のように恐かった。
留美はサービスの位置へ歩きながら考えた。
『マリリンは振り切っている。ここは、あたいは、横の動きで勝負しなくちゃ。それにしても、七菜のあの目、見たことのない、本物の戦士の目だった。あたいも、負けられんぞ・・』
「0-2」
と正審がコールした。
『あと二ポイント失ったら、この世の終わりだ。みんなと命を懸けて闘ってきた、すべてが終っちまう。ならば、たとえそうだとしても、誰もが感動してくれる、この一打を打とう。今、あたいにできることは、あたいが打てる、最高の一球一球を打つだけだ』
留美は大空へトスを上げ、膝を使って強く跳んだ。空の青に焼き付いた白球を、大声とともにミドルへ叩き込んだ。
会心の一撃なのに、真凛はバックハンドで簡単に留美の前へレシーブしてくる。
留美はフォアに回り、アタックするぞと緑子を制して、ストレートロビングで攻め、ネットダッシュした。
真凛が駿馬のごとく走り、フォアに回り込む。
チャンスを逃がすものかと、留美は逆クロスへバックボレーポーチに飛び出した。
だけど天才真凛は、逆を突いてストレートへ高速ロビングで攻め返すのだ。
それでも七菜が留美のカバーに走っていて、ストレートへトップ打ちを振り下ろそうとした。緑子の大きな影が、勝負のポーチに出てくるのが見えたが、何かに憑かれたような七菜は、それより速いライジングで前へ踏み込んだ。
「うおー」
という叫びがまたも発せられた。
それは七菜の声とは思えない、新たな怪物の咆哮だ。
呻る剛球が、緑子のバックボレーの先を突き抜けた。それはネットすれすれなのにコーナーいっぱいまでギューンと伸びて、バウンドしても真凛から遠ざかるようにさらに伸びた。真凛にはそのボールが炎に包まれたように見えた。負けるものかとバックハンドでフルスイングした。だけど予想を超えたスピードに押され、サイドアウトしてしまった。
「うおおお」
両拳を突き上げて七菜が鬼のような雄叫びをあげた。
「ナイスボールだよ、七菜」
と駆け寄る留美を燃やすように七菜は見つめた。
「まだまだ。次取られたら、絶体絶命ぞ」
七菜とは違う話し方に、留美は身震いし、負けない眼光で見つめ返した。
「そうだね。次の一本にすべてを賭けるよ」
逆クロスのサービスの位置へ歩きながら、留美は考える。
『今、真凛は、ロビングに変えて、打ち負けている。ならば、今度こそ、打ち負けないよう、シュートで攻めてくるだろう。パッシングもあり得るけど、今、あたいがポーチに出たのを見ているから、頭のいい真凛は、次はあたいがサイドに誘うと考えてるかな?』
「1-2」
と正審がコールした。
留美はトスを上げ、
「負けるもんか」
と叫びながら、緑子のバックへファーストサーブを叩き込んだ。
緑子はバックハンドレシーブを振り切って留美のバックを攻める。
前へ出てくる緑子のぎりぎりを通すように、留美もバックを振り切ってミドルを攻め返した。そしてネットへ猛進した。
そのボールを待っていたかのように真凛は一瞬で追いつき、負けじとバックのフルスイングで七菜のバックへと強打を放った。壮絶なバックの打ち合いだ。
バックのステップを踏んだ七菜の細い目が、グワッと剥かれた。ドーンと伸びてくる白球が、またもその目には止まって見えた。
「うおおお」
魔獣の咆哮が、コートに渦巻く熱風を再度揺るがした。
腰を高速マシンのように回転させて叩かれた白球は、左へ動いた真凛の逆を突き、クロスのコーナーへ光の矢のように突き刺さった。
観客席が騒然となった。
小原七菜という小柄な選手が放っている、恐ろしい魔球は、偶発的なものではないのだ。三球続けてまぐれが続くことなどあり得ない。とんでもない怪物の誕生を、観衆たちは今、目にしているのだ。
紅玉の仲間たちの応援も、炎上する花火工場のように盛り上がった。
「見たか? 見たか? スゲエもの見たか?」
と明美が叫ぶと、皆も踊りながら絶叫した。
「見たぞ。見たぞ。スゲエもの見たぞ」
「誰だ? 誰だ? あのこは誰だ?」
「神風セブン。神風セブン。そうだあのこは、神風セブン」
駆け寄って握手を交わす留美と七菜の目には、鬼の狂気が満ちていた。
「まだまだぞ」
と七菜が低い声で言うと、留美がそれに応えた。
「分かってるよ。次取られたら、絶体絶命なんだよね?」
心も体も武者震いしながら、留美はネットへ進んだ。このレベルの戦いで、ここまで来たら、すべての一本が絶対絶命だ。たった一本のミスが、命取りとなる。
『次こそ、マリリンにとっての勝負のレシーブ・・どこを攻めてくる? 今、七菜が恐ろしいほど好調だから、あたいのサイドを狙う確率も高い。このゲーム、あたいは緑子のレシーブでしかポーチを見せていないし、マリリンの一本目のレシーブをクロスに打たれてあたいが後悔していると考えてるかもしれない。だったら、ここであたいがポーチに出るそぶりを見せなかったら、逆に出てくると思うだろう。何としても、サイドに打たせて押さえてやる』
「2-2」
と正審がコールした。
七菜は白球を焼く尽くすように見つめ、
「必ず入れる」
と声に出す。
トスを上げ、高くジャンプしてファーストサービスを真凛の正面へねじ込んだ。
真凛が素早くフォアに回り込む。
留美はサイドへ少し体重をかけて見せるも、ポーチのタイミングで膝を少し沈めた。
勝負の一打だと、極限まで集中した真凛は、それを見逃さなかった。
「おりゃあ」
と叫びながら、渾身のサイドパッシングを打ち込んだ。
留美はそれを狙っていた。
『相手は上げボーラー。あたいは練習通りの走り抜けるボレーをやるだけだ』
人工芝を強く蹴って、三歩で白球にぶつかって行った。一秒以内の真剣勝負だ。真凛の振り切った勝負球は、獰猛な獣のようにうねりながら襲いかかってくる。
「おりゃあああ」
相手に負けない叫びを発し、白球を睨みつけ、サイドラインいっぱいにストップボレーを叩きつけた。そして両手を天へ突き上げながら、隣のコートまで駆け抜けた。
紅玉応援団が高く跳ねながら踊り狂った。
「見たか? 見たか? スゲエもの見たか?」
と明美が音頭を取り、皆で大合唱だ。
「見たぞ。見たぞ。スゲエもの見たぞ」
「誰だ? 誰だ? あのこは誰だ?
「稲妻留美。稲妻留美。そうだあのこは、稲妻留美」
戻って来た留美の目を、なおも狂った鬼の目で見つめ、七菜は言う。
「まだまだ絶体絶命なんだ。ここで一本取って、やっとファイナルに追いつけるんだ」
「そうだね。今こそ、流れを変えたら、すべてが終わりだ。あと一本、挽回するよ」
そう告げて、留美はネットのポジションへ歩いた。
そして緑子を睨み、考えを巡らせた。
『このレシーブ、緑子は、どうするよ? 今、ペアのマリリンがサイドを押さえられたから、次はあたいがポーチに出てくると思うだろうか? 七菜の勢いが本物だから、後衛前へのロブも得策じゃないと思うだろうな。じゃあ、あたいは、ストレートへの攻めのロブを狙うべき? フォアレシーブなら、その確率も高いだろう。バックなら、得意のサイドパスの確率が高い・・』
「3-2」
と正審がコールした。
緑子のバックへ、七菜はファーストサービスを入れた。
留美は後衛前へのロビング狙いで、スマッシュのステップを踏んだ。
緑子はその一瞬を見逃さなかった。得意のバックハンドストレートレシーブを振り切った。これまで数々の奇跡を起こしてきた、モンスターショットだ。
留美は右斜め前へとターンしていた。
『相手は上げボーラー。あたいは練習通り、いや、練習以上に集中してボレーを走り抜けるんだ』
再度自分にそう言い聞かせながら、留美はフォアボレーのステップを踏んだ。モンスターの一撃は、驚異の速さと重さを併せ持っている。少しでも気を緩めれば、ボレーはアウトしてしまうだろう。留美は獲物をしとめる鷹のような眼力で白球を睨み、大声の瞬発力でそれを叩いた。稲妻のようなボレーが真凛と緑子の間を斬り裂くのを見ながらサイドラインを駆け抜けると、「きゃあああ」と甲高く叫びながら万歳をした。
「ゲーム、チェンジサービス」
正審のコールもうわずっていた。
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