第31話 防護服を着て開会式へ
明日の個人戦に参加する東青山学園の七ペアと、紅玉高校の一ペア・・計八ペアが、Fコートで、九十分の前日練習を割り当てられていた。
太陽が肌を刺すように真夏を叫び、人工芝のコートにカゲロウが踊っていた。
留美と七菜がFコートへ行くと、待機していた山下真凛と高橋緑子が寄って来た。
真凛が薄笑いを浮かべ、声をかける。
「あーら、留美、よく来れましたわねえ。いさぎよく棄権なされるかと思っていましたのに、往生際の悪い人ねえ」
「なーんだってえ?」
と言い返そうとする留美の胸に、俊の言葉が思い起こされた。
『マリリンや緑子のためにも戦って欲しい』と言った俊の、熱いまなざしも胸に甦った。それで言葉に詰まってしまった。
だけど七菜が耳まで赤くして咬みついたのだ。
「わたしは、先輩たちに借りを返すためにここへ来たっちゃ。留美先輩を陥れた仇、わたしをいじめ抜いた恨み、百万倍にしてかえすがやから、覚悟しとくがよ」
真凛の隣の緑子が、自分より三十センチも背が低い七菜の頭のくせっ毛を、手の平でぐりぐり撫ぜて言う。
「七菜ちゃん、また可愛がって欲しいのかい? だいたい、留美がナイフで刺したのは事実だろうが。そんな犯罪者が、神聖な全国大会に出るなんて、許されないんだよ」
緑子の長い指を振り払い、七菜は涙目で叫ぶ。
「そのナイフを留美先輩に渡して逃げた卑怯者は、真凛先輩と緑子先輩じゃないがか? あんたたちは、絞め殺されそうだったわたしを見捨てて、逃げたがよ」
「てめえ、クツワムシみたいにガチャガチャうるさいんだよ。また痛い目に合わされたくなかったら、今すぐ消えな」
緑子の筋肉りゅうりゅうの腕が七菜の胸を突いた。
七菜は胸を突き出して撥ね返した。
「わたしたち、ここで練習するがよ」
真凛が七菜の数倍ある胸を突き出して告げた。
「あら、明日の個人戦、わたくしたち東青山学園が、七ペアも出るんですのよ。わたくしたち、犯罪者と一緒に練習して、変な噂が立ったら、困りますわ。カビが生えたミカンは、すぐに捨てなきゃ、周りのミカンも腐っちゃうでしょう?」
留美の堪忍袋の緒が切れた。
目から鼻から怒りの蒸気を沸騰させた。
「ぬあーんだってえ? マリリン、あたいらに、カビが生えてると言うのかい?」
「留美も七菜も、鼻につく匂いがプンプンしてますわ」
あざ笑う真凛の胸ぐらを、留美はつかみ上げていた。
「この野郎、あたいのことならいいけど、七菜を悪く言うやつは許せねえ」
一瞬、真凛が魔性の笑みで留美を見つめた。が、突然、ひざまずきながら悲鳴をあげたのだ。
「キャアアア、助けて、殺されるう」
周りのコートの他校の選手たちが、いっせいに注目した。
東青山学園と紅玉高校の女子たちがどっと押し寄せた。
「マリリン、てめえ」
怒りに震えながら留美は顔を上げた。
見回すと、携帯を手に取って動画を撮りだす者たちもいる。
真凛は座り込んで、泣き声をあげた。
「紅玉の坂東留美さんが、わたくしに暴力を振るわれますのよ」
非難の声が周りからフツフツ湧き出た。
「恐ろしい人」
「ナイフで刺すような人だもの」
「人じゃなくて、野獣だよ」
「テニスで勝てないから、どんなことでもするんだわ」
留美の震える手が、真凛から離れた。
唇を噛む留美の前に、小さな七菜が盾となった。
「真凛先輩は、合気道有段者ながよ。こんなにたやすくやられて、泣くわけないじゃない。わたしらを陥れようとして、こんな泣きマネしてるがよ」
それを聞いた真凛の演技に拍車がかかった。
「七菜ちゃんまで、わたしをワルモノにしようとしてるのね。信じられませんわ」
としゃくりあげながら言って、女優顔負けの泣きを見せるのだ。
周囲のコートから集まって来た各県の代表選手たちも取り囲み、罵詈雑言を浴びせた。
七菜は必死で声を荒げた。
「みなさん、聞いてください・・真凛先輩と緑子先輩は・・」
だけどその声は、押し寄せる非難の声の津波に呑み込まれてしまう。
留美が七菜の手を取って言う。
「七菜、もう、いいよ。行こう」
「だって、だって・・」
明美が紅玉高校の皆に留美と七菜を囲むように指示し、叫び続けようとする七菜に言い聞かせた。
「スズメバチの大群ばい。これ以上刺されても、何もいいことないけん、早よ逃げるよ」
彼女たちがテニスコートから退避しても、野次馬たちがついて来るので、運動公園からも抜け出した。
規定の練習時間が来ても、戻ることはままならなかった。一キロほど向こうに見える土手まで走った。土手を越え、広い河原へ降りて行った。
いつまでも泣く七菜を、留美が叱った。
「七菜、何くよくよしてるんだい? ほら吹き俊が、いつか言ってただろ・・くよくよするヒマがあるほど、あたいらの青春は長くないって・・明日から、大事な試合なんだ。負けたら終わりの、大切な試合さ。あたいらの心が折れなかったら、練習なんて、山の奥でも、ビルの階段でも、どこでもできるさ。今から、ここで、軽く走って、試合をイメージした素振りをして、それから、ボレーとスマッシュの練習をやるんだよ」
七菜は、走りだした留美について行きながら、涙を拭いた。
「留美先輩、わたし、今日の恨みも、百倍、いいえ、百万倍にして、あいつらに返してやるっちゃ」
紅玉高校の娘たちの傍らで、名も知らぬ異郷の大河が陽光に燃え、数知れぬ輝きを謳っていた。
一方その頃、運動公園の総合体育館内の一室で行われていた監督連絡会では、とある県の監督が挙手をし、こう訴えた。
「ふた月ほど前のテレビで、ある県の二位の選手が、昔ナイフで人を刺したのに、刑事罰も受けずに事件をもみ消したと報じられ、その母親の有名キャスターが責任を取って引退しました。にもかかわらず、当の選手がこの大会に出場していると聞きます。刑事事件を起こしたのに、罪も償っていない選手は、出場を辞退するべきではないでしょうか?」
すると近くに座っている体格のいい監督が、申し合わせたように手を上げ、意見を述べるのだ。
「その問題の選手は、紅玉高校の坂東選手だと思いますが、彼女と一回戦で当たるわが校としては、そんな怖い選手とは、試合できないと考えます。健全な青少年育成を目的とするべき大会に、教育上ふさわしくない選手は、出場を辞退していただくよう、大会本部から勧告して頂きたいと願います」
織江が震えながら手を上げ、立ち上がった。丸い頬が熱を帯びた。ふうっと息をつき、涙ぐみながら言った。
「わたしは、その紅玉高校の顧問の、白鳥、と申します。誤解があるので申し上げます・・坂東さんの過去の事件につきましては、わが校の職員会議でも、不問、になりました・・というのは、そもそも坂東さんは、刑事罰を受けるような罪は犯していないのです。なぜなら、その事件の現場には、彼女たちの通報によって、警官が駆けつけて、取り調べを行っており、不良グループに殺されそうになっていたこの増田コーチを救うために起きた事故だと、警察によって結論付けられているからです」
俊も立ち上がって、声を震わせた。
「おいらが、その時足を刺された増田です。坂東留美は、おいらを刺した犯罪者じゃなくて、それどころか、殺されかけていたおいらの命の恩人なんです。彼女は、仲間たちも逃げ出す中、命がけでおいらを救ってくれた。おいらが生きて今ここにいるのは、彼女のおかげなんだから、だから、この通りだ・・」
そう言いながら、俊は床にひざまずいて、頭を下げた。
「どうか彼女に試合をさせてください。留美は今日まで、死に物狂いで練習してきたんだから・・誰よりも努力してきた者にチャンスを与える・・それが本当の教育ってもんじゃないですか?」
それを見て、織江も俊と同じ行動をした。
二人のあぶら汗が床を濡らした。
午後四時からの開会式のため、各県の選手団がコート四面のドーム内へと集まっていた。
「みんな、防護服を身に着けるとよ」
と裏ボスを引退した明美が皆に告げた。
「明美先輩、そんな服、持っていません」
と新キャプテンの綺羅が言う。
明美は緊張した顔で説明した。
「ばかだね、心の防護服を身にまとうとよ。だって、あたしらが会場へ入ったら、またスズメバチたちがブンブンカチカチうるさいだろ。毒針に刺されて病気にならんよう、心の防護服を着るとよ。そしたら、何を言われても、笑顔で撥ね返せるけん」
紅玉高校の一同がドーム内へ入ると、わざと聞こえる非難が彼女たちをチクチク刺そうとする。明美の言う通り、見えない防護服で身を包み、観客席の片隅に陣を取った。そこへ織江先生と俊も合流した。これから女子選手たちがコートに整列して、開会式が行われるのだ。
留美を中傷する言葉の悪臭をあちこちから感じ、織江が眉をひそめて尋ねた。
「坂東さん、練習は、大丈夫だった?」
留美は笑顔を見せた。
「ああ、たっぷりやって来たから、明日はぜってえ勝てるよ。織姫たちは、会議、どうだったんだい? あたいの事件の話題とか、出なかったかい?」
織江も笑い返した。
「おバカさんね。そんなの、出るわけないじゃない。明日からの試合、がんばろうね」
出場選手はコートへ並ぶようにアナウンスされ、留美と七菜は、笑顔で仲間たちに手を振り、コートへ降りて行った。
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