第30話 スズメバチの軍勢が襲来したら?
人生で一番暑い夏、毎朝の新聞配達のランニングやローラー引きで、留美と七菜の筋肉はピクピク活力がみなぎっていた。
俊と織江先生と紅玉高校女子ソフトテニス部の皆と一緒に、全国大会へ旅立った留美は、新幹線に揺られながら、立ち上がってあいさつした。
「みんな、ありがとうよ。みんなのおかげで、あたい、全国の大舞台に立てるんだ。この恩は、一生忘れない・・いいや、死んで八つの地獄を渡り歩いても忘れないよ」
八重歯が白く光った。夏用の制服から長く伸びた手足は、日焼けで黒く光っている。
よく似た八重歯の明美が言う。
「だったら、明日からの試合、がんばらんと、許さんけんね」
日本人形にも負けない色白になった夢香が、切れ長の目で留美を睨む。
「どんな言葉よりも、試合内容で、わたしたちを感動させて」
「そうだね。ぜってえそうするよ。でもね、今は言葉でも礼を言わせてくれないか・・ゆめか、ゆうゆ、あんたら、あたいの代わりにレストランで働くなんて、日本一の大バカ者だけど・・でもね、あたいにとっちゃ、釈迦やキリスト以上の、世界一の救世主だよ」
世界一と言われ、夢香の隣の由由が、幸せそうに「わあい」と笑った。
留美は明美とその横のアンにも、大きく見開いた目を向けた。
「明美、アン、最後までサポートしてくれて、ありがとう。あんたらも、入試の勉強で大変なのに。ほんとにあたいの周りは、バカばっかりだよ。あたい、あんたらがいてくれて、本当に幸せだよ」
「留美以上のバカは、いないばってん」
と明美が返すと、アンは青い目を輝かせ、
「アンは、勉強しなくても、イングリッシュペラペラだし、このブルーアイズだけで大学の英語科通るから、ノープロブレムだよ。それより、留美と七菜の日本一への挑戦を応援できるなんて、アンの方こそラッキーガール、ワクワクしてるよ」
留美は下級生たちにも礼を述べた。
「それから、一二年生のみんな、あたいみたいなバカなキャプテンについて来てくれてありがとうよ。みんなのおかげで、あたい、幸せだったよ。あたい、みんなのために、最後に、最高の試合をやってみせるから、みんな、秋の新人戦では、団体戦でも東青山学園に勝てるように、これからも頑張っておくれ。みんなには、その力があるんだからね。いいかい、あたいらが目指すのは、日本で一番高い山の、てっぺんだ。時には、命がけで絶壁を這い上がらなくちゃいけない時もあるけど、それを乗り越えれば、その思い出は、あたいらの人生に燦然と輝くものになるんだよ。それからね・・輝羅、今から・・たった今から、あんたが紅玉の新しいキャプテンだよ。あたいら三年生の思いを受け継いで、紅玉ソフトテンス部の新しい歴史を創って行ってくれないかい?」
留美に似た丸顔の綺羅が、青天の霹靂を食らったかのように丸く目を見開いて、震えながら立ち上がった。みんなの拍手を浴びても、しばらく言葉に詰まっていたが、やがて泣きそうな声を絞り出した。
「あ、あたしは、留美姉御の、足元にも及ばないけど、み、みんな、どうか、あたしを、た、助けて」
どもりながらのキャプテン就任あいさつを、皆が笑って拍手した。
明美が立ち上がって言う。
「それから、うちの【裏ボス】を引き継ぐのは、もちろん、璃子ばい。一年生だけど、マネージャーの言うことは、『絶対』やけんね」
再び起こる拍手の中、璃子はいつも通りタンポポのように光る笑顔で立ってあいさつした。
「おっぽん、紅玉高校ソフトテニス部の裏ボスに任命された、槇原璃子です。ダンスの振り付けなら、自信があります。さっそく今夜は、明日の応援ダンスの特訓をやりますから・・みんな、日本一派手な応援ダンスが出来るようになるまで、今夜は眠れませんからね」
明美が両手を顔の横に上げて言う。
「うわあ、こんなにニコニコしてるとに、怖かねえ」
その時だった。同じ車両の奥の方から、唾を吐くような声が発せられた。
「もしかして、犯罪者だったことがテレビで暴露された、紅玉高校の坂東留美が、インターハイに参加するのかいな?」
「そんなこと、許されへんちゃう? お母さんの坂東敦子だって、責任取って、キャスター辞めたのやさかい」
と隣の女子も皆に聞こえるように非難を浴びせる。こちらは、鼻にかかった甘え声だ。
車両内の体感温度が一気に下がった。
「でも、あの顔、テレビで見たやろ? ほら、スマホでも見れるよ。あの意地悪そうな顔、ほんまに坂東留美や」
と嫌悪の声が聞こえると、我慢できずに綺羅がいきりたった。
「やいやい、留美姉御の悪口ほざいてるのは、どこのどいつだい?」
声のした方へ、大きな目を吊り上げて歩いて行く。
すると奥の数列の十数人の女子が、次々立ち上がった。
「うちだけど、何か?」
と綺羅にも負けぬ大きな目をぎょろりと見開いて応えたのは、レスラーのように首も腕も太ももも太い、短い黒髪の丸顔だった。
「留美姉御の悪口ほざくやつは、この片山輝羅が許さねえんだ。てめえ、誰だ?」
輝羅はその娘の胸を右手で突いたが、壁のように微動だにしなかった。
「うちは、光瀬学園三年、風間真紀。誰が名付けたか、マッキー爆弾とは、うちのことだよ。まったく、犯罪女のチームメイトは、礼儀を知らへんのやなあ。なあ、リンダ、どない思う?」
真紀に問いかけられた隣の娘は、アイドルのように細く魅惑的なスタイルで、ハーフなのか、名前の通り濃い西洋顔だ.
「こんなヤクザな人たちが、夢の舞台のインターハイに出るなんて、キモすぎるう」
とリンダは鼻にかかった舌足らずな声で言う。
「犯罪女とか、ヤクザとか、キモすぎるとか、聞き捨てならねえ」
輝羅は長身の自分より背の高い二人と、バチバチ火花を散らして睨み合った。
織江先生が慌てて駆けて行き、俊も足を引きずった。それを見て、留美たちもついて来る。
織江が背中から綺羅の腕を引いた。
「片山さん、席へ戻りなさい」
「だってよお、織姫、こいつら、留美姉御のこと、犯罪者呼ばわりしやがるんだよ」
と言って、輝羅は抵抗する。
「アホやなあ。人をナイフで刺した悪人を、犯罪者って言って、何が悪いんよ?」
と真紀がなおも火花を振りかける。
俊が後ろから声をかけた。
「不良に殺されそうなおいらを救おうとして、留美は仕方なく、命がけでナイフを使ったんだ。留美は逆においらの命の恩人なんだ。刺されたおいらが言うのだから、間違いないだろ?」
リンダが俊を指さして、刺々しい言葉を浴びせた。
「あー、この男、テレビで見たし、週刊誌に載ってた・・坂東留美に足を刺され、テニスを引退したのに、留美のコーチをしてる変な男。ネットでも話題になった・・坂東留美とこの男、絶対訳アリだって。いったいどっちが誘惑したのかしら?」
その言葉が、当事者の留美の逆鱗に触れた。
「ぬあーんだってえ? 黙って聞いてりゃ、好きかって言いやがってえ」
と吼えながら、留美は猛牛のごとく突進し、俊と織江と綺羅を吹き散らし、リンダの胸ぐらを掴み上げた。
「俊コーチの悪口をほざくのは、この口かあ?」
怒りの指が、リンダの唇を引っ張った。
隣の真紀が、
「何するんじゃあ?」
と叫び、留美の胸をレスラーのような力で張り飛ばした。
床に倒れた留美に、織江が厳しい口調で言う。
「やめなさい、坂東さん。今、暴力沙汰を犯したら、それこそ出場停止になりますよ」
顔が真っ赤になるくらい頭に血が昇った留美の耳には、その言葉が入らない。
「さては、身に覚えがあるから、こんなに怒るんやな?」
と挑発する真紀の顔目がけ、
「ふざけんなあ」
とわめきながら、留美は怒涛の回し蹴りを放ったのだ。
だけどその足が直撃したのは、懸命に割って入った俊の頭だった。
俊は留美以上に顔を真っ赤にし、怖い目で叫ぶのだ。
「今すぐ、席へ戻らないと、許さないぞ」
「えっ? えっ?」
留美は涙目になって俊を見つめた。
「何してる? 今すぐ戻れって、言ってるだろうが」
血を吐くような俊の気迫に押され、留美は輝羅と織江に腕を引かれ、席へ戻った。
俊も一歩一歩、足を引きずり席へ戻った。座り込んだ時、赤い顔はすでに蒼白くなっていた。ハンカチを出して、鼻血とよだれを拭いていると、世界が黄色くなり、赤黒くなり、斜めに回った・・
いつしか、不穏な羽音が彼の耳の内に響いていた。驚いて見上げると、大きなスズメバチがカチカチ大顎を鳴らしている。恐怖に両手で頭を守ると、頭髪も頭蓋骨もなく、恐ろしい数のハチが、脳みそを巣にして動き回っている。絶望が彼を呑み込んだ時、世界が揺れ、娘の声が聞こえた・・
「俊コーチ、もうすぐ着くばい。いつまで寝てると? やい、ほら吹き俊、早よ起きらんね」
「うわあ」
と叫びながら、頭のスズメバチを振り払った時、俊は夢から覚めた。
目の前に明美マネージャーがいて、目を丸くしている。
「な、何? 何叫んどると?」
「へっ?」
「すごい汗かいて・・顔も蒼かあ。どうしたと?」
「スズメバチは?」
「スズメバチ? ええっ? スズメバチがおると?」
明美は警戒の目で周りを見回した。
「ホワット、ハップンド?」
アンが寄って来て尋ねる。
「スズメバチがおるとよ」
「オーマイゴッ」
アンは慌ててその場を離れ、皆に呼びかけた。
「スズメバチがいるんだって。エブリワン、エスケープ。みんな、逃げて、逃げて」
車両内がハチの巣を突いたような騒ぎになった。
新幹線が目的地の駅に着くと、紅玉高校と光瀬学園のソフトテニス部の者たちが、いっせいにホームへ脱出した。
「みんな、大丈夫? 刺されていない?」
と織江先生が生徒たちに聞いた。
誰もが平気だと言うと、留美が尋ねた。
「いったい誰がスズメバチを見たんだい?」
「明美が」
とアンが言うと、
「俊コーチが」
と明美が言う。
「へっ?」
俊は青白い顔のまま、目をそらした。
「やい、ほら吹き俊、本当かい?」
と留美が問いかけ、皆が気まずそうな俊を見つめた。
「へっ? あ、ああ・・」
今さら、夢だったなんて、言えぬ雰囲気だ。
俊は駅の階段を昇って行く光瀬学園の選手たちを見やりながら、何とか言い逃れる術を探した。
「ス、スズメバチってえのは・・ほら、あの娘たちのことさ」
と俊は光瀬学園の女子たちの背を指して言う。
夢香が首を傾げ、
「はあ? 意味不明」
光瀬一団が視界から消えると、俊は皆の不審の目を見返した。そして『ほら吹き』の本領を発揮するように熱弁した。
「留美は有名人になっちまったみたいだから、留美を非難してくる者は、あの娘たちだけじゃないよ、きっと。誰かを非難することで、自分の自尊心を満足させる・・そんなちっちぇえやつらが、この国には腐るほどいるんだ。だけど、そんなちっちぇえやつらだって、毒を持ってる。刺されると、心が痛いし、腫れるかもしれない。何度も刺されて、心が耐え切れず、自ら死んでしまう者だっている。ねえ、みんな、スズメバチの軍勢が目の前に現れて、カチカチ顎を鳴らして威嚇してきたら、どうする? ちっぽけな自尊心のために、うるさいって、怒って、殴りかかって行く者もいるかも知れないれないけど、もしそんなことをしたら、相手は余計に騒ぎ立てるし、向かって行った大バカ者は、無数の毒針で刺されるのは、目に見えてるよね。だからみんな、これからもさっきみたいな非難を、もっと浴びせられるだろうけど、そんな時は、相手をスズメバチだと思って、絶対相手にしちゃだめだよ。相手をスズメバチだと思って、ゆっくり、静かに、逃げるんだよ。だって、おいらたち、ここに、ソフトテニスの試合に来たんだろう? そのために、誰にも負けない努力を重ねて来たんだろう? スズメバチと戦うためなんかじゃないよね? だから、誰が何と言おうと、おいらたちの『答』は、テニスの真剣勝負の、一球一球で返すしかないんだ」
「はあ、やっぱり、意味不明」
と夢香がもう一度言うと、由由も難しい顔をして問う。
「あの人たちの正体が、スズメバチってことかな?」
留美が腕組みをして聞いた。
「ほら吹き俊、何言ってんのか分かんねえけど、また、あたいにイチャモンつけるやつらが現れたら、スズメバチだと思って相手にするな、ってことかい?」
俊は右手の親指を立てて肯定した。
「相手にしても、災いが身に降りかかるだけ、ってことさ」
明美が、プラットホームを歩いて来る制服女子の一団を指さして言う。
「じゃあ、こいつらも、スズメバチの集団ってわけね?」
皆が横を見やると、彼女たちの一人もこちらを指さしている。
聞えよがしな声声が刺してくる。
「ほら、あの娘、やっぱり坂東留美よ」
「まさか、大会に参加するのかしら?」
「やだ、わたし、犯罪者となんか、試合したくないわ」
「うわあ、こっち見てるよ。怖い、怖い。気をつけないと、ナイフで刺されるわよ」
明美も太い声で俊に聞く。
「スキャンダラスな蜜の匂いに、スズメバチたちが寄って来て、カチカチ顎を鳴らしとるとよね?」
俊は黙ってうなずいた。
一発触発を漂わせ、見知らぬ女子選手たちが通り過ぎて行った。
織江が笑顔を装って言った。
「さあ、みんな、この後の予定を言いますよ・・大会会場までは、タクシーに分乗して行きます。公式練習は、午後二時からです。わたしと増田コーチは、その時間、別会場で監督連絡会がありますから、練習は、選手だけで行ってください。でも、まだまだ時間がありますから、その前に、駅前のお店で、お食事しましょう」
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