第29話 ゴールデンサンダー、潜在能力、言えなかった言葉

 星屑が降って来そうな夜明け前、前日の雨で柔らかくなった黒土のコートに、七菜は一人、豆だらけの手で錆びついたローラーを引いた。何往復も引くと、古すぎるローラーの軋みが、彼女の体をも蝕んだ。手の豆が擦り剝け、血が混じった。唇を噛んでしまったのか、血の味もする。一時間を過ぎると、睡魔と目まいにふらついた。ふうっと息をついて立ち止まった時、ロッカーの方向に、エメラルドの瞳が闇に怪しく光るのを見た。

「誰?」

 ショートの黒髪が逆立ち、細い目が丸く見開かれた。

 闇は無言のままだ。

「もしかして・・幽霊?」

 手から滑り落ちたハンドルバーが、地面で跳ね、不気味な音を響かせた瞬間、瞳は虚空に消えた。

 七菜は深呼吸をして胸に手を当てた。

「落ち着くがよ。これは、夢よ。幽霊なんて、いないが。幽霊なんていない」

 しゃがんでローラーのハンドルを持とうとした時、またあの瞳が闇に浮かび上がるじゃない。照準を合わせるように七菜を見つめている。七菜は蛇に睨まれた蛙だ。動けず、ただ、ガタガタ体が震えるだけだ。

 来ないで・・

 と叫んだはずなのに、声も出ない。

 ふいに光る目が動いた。地面へと瞬間移動し、音もなく近づいて来た。

「ひっ」

 腰を抜かして絶叫しかけた時、

「ミャアミャア」

 瞳が呼びかけた。

「えっ? えっ?」

 柔らかな毛の塊が七菜の膝へ軽々飛んで、グールグール喉を鳴らした。

「ラッキー? ラッキーなが? うふふ」

 恐怖の涙が安堵の涙に変わり、七菜は三毛猫ラッキーを抱いて笑い転げた。

「ラッキー、あんたがいるなら、幽霊だって怖くないっちゃ」

 ローラー引きを再開すると、ラッキーは七菜の肩の上で喉を鳴らし、闇の狭間へ目を光らせた。四回通りローラーをかけ終えると、東の空に陽光が差した。ラッキーと一緒にパンと牛乳でお腹を満たすと、星たちはもうどこかへ帰っていた。

 それから七菜は壁打ちを始めた。

 緑の壁には、真凛先輩と緑子先輩が浮んでいた。

 留美先輩を裏切り、留美先輩をかばった七菜をいじめた彼女たちへ、血塗れの手で白球を叩き込んだ。

「そんな甘いボールで、日本一のおれたちに勝てると思っているのか?」

 と問いかける緑子の胸へ、刃を食いしばってアタックした。

「裏切り者の七菜ちゃんには、どんなお仕置きがいいかしら?」

 と笑う真凛の顔へ、うなり声をあげ、叩いて叩いて叩き込む。

「何が日本一だあ?」

 七菜は叫ぶ。

「お仕置きだと言って、どれだけわたしをいじめたが?」

 一球一球、壁の影に叫びながら、叩き込む。

「わたしだって、夢を叶えるがよ」

「留美先輩と一緒に、あんたらに復讐するがよ」

 突然、留美の声が背を刺して、七菜はビクッと震えた。

「七菜、誰と話しているんだい?」

 振り返ると、留美のナチュラルウエーブの栗色の髪が朝風に揺れている。

「留美先輩・・」

「あの壁に、誰かいるのかい?」

 七菜は大きな瞳を見つめ返した。

「先輩、わたしたち、間違っていないがよね? わたしたちだって、夢を叶える権利があるがよね?」

 留美の目が、七菜の血に汚れたグリップに注がれた。

「あたいら、間違いだらけかもしれない」

 と言いながら、留美は七菜の血豆だらけの手をやさしく握った。

「えっ?」

「あたいの人生、間違いだらけだった。でもね、間違いだらけでも、あたいらがそれでいいなら、いいじゃないのかな? 誰かを傷つけようとしているわけじゃないのなら、夢のために、すべてを捧げてもいいじゃないのかな? これからも、たくさんの人が、あたいを非難するだろう。でも、たとえ誰もが非難しても、こんなことしても無駄だと誰もがあたいらをバカにしても、これがあたいの、そしてあたいらの人生なんだ。ほら吹き俊は、こう言いやがった・・マリリンと緑子に過去の恨みを晴らすために戦うんじゃなくて、お互いの成長のために戦って欲しいって。自分や仲間たちのためだけじゃなく、戦う相手のためにも、そして試合を観てくれるすべての人たちのためにも、死力を尽くして闘って欲しいって・・あたいは、マリリンや緑子たちのためにも戦うなんて、ぜってえ出来ねえって、言ったけど、今は、あいつの望むことも、少しは考えてみようって思っているんだ。七菜は、できるかい? マリリンや緑子のためにも、戦えるかい?」

 七菜の眉間に縦じわが深くなり、やがて震えるように首が振られた。

「絶対に・・絶対に、できないがよ。わたしがどんなひどいいじめを受けたか・・」

 泣きそうな声を、留美大きな目が包み込むように見つめる。

「あたいだって、マリリンのために退学になったんだ。でもね、今は、こう思えるようになった・・あいつがいなかったら、今、あたいは、こんなに強くなっていないって。七菜だって同じじゃないか? あいつらの存在が、あたいらをこんなに成長させたんだ。そうだろ? だったら、あたいら、あいつらより少しだけ、精神面でも大人になってやろうじゃないか。それが本当のリベンジってもんじゃないかい?」

 七菜はなおも首を振り、自分の胸を拳で叩いて言う。

「わたし、大人になんかならんでいい。ガキンチョでいい。間違いだらけでもいいって、先輩、今、言ったでしょ? たとえどんなに間違っていても、わたし、死んでもあいつらに復讐するがです」

 七菜の涙をじっと見つめ、留美はうなずいた。

「あたい、七菜のその気持ち、誰よりも分かるよ。あたいら、どうしようもない馬鹿者たちだね。ただ、あたいの今の気持ちを、七菜に知っていて欲しかっただけさ。さあ、あたいらには、時間がない。練習しようぜ」

 ロビングでのラリーを続けた後、サービスからの乱打を始めた。

 留美が前に出て、ローボレーやスマッシュで続けている時、シルバーの軽ワゴンがコート横に駐車し、俊と拓也がコートに入って来た。

 Aコートで拓也と七菜がラリーを続け、留美はBコートで俊の上げボールによるネットプレーをやった。

 前衛練習で、特に課題としたのが、留美得意のスマッシュだ。

「留美、相手のレベルが上がると、深く追ったスマッシュがフォローされちゃうよね。でも、スマッシュには、トップレベルの相手にもフォローされない、ゴールデンコースってえのがあるんだよ」

 と言って、俊は短めの逆クロスサイドライン付近に空のボール籠を置いた。

「ゴールデンコース?」

 と問う留美に、俊は告げる。

「この籠に、連続十本スマッシュを当てれるようになったら、留美のスマッシュは、マリリンや緑子をも撃ち砕けるのさ」

 留美の目が朝陽にキラリと光った。

「じゃあ、あたいがそれをやってみせたら、何をくれるかい?」

「いいよ、パフェ食い放題、おごってやらあ」

 留美はそのコースのスマッシュに「ゴールデンサンダー」と名付け、夢中でジャンピングスマッシュを打ちまくった。

 七時を過ぎると、他の部員たちもやって来てウオーミングアップを始め、その後、練習に加わった。


 一週間後、留美と七菜は、ついに拓也から一ゲームを奪取し、抱き合って喜んだ。

 なのに拓也は鼻で笑うのだ。

「たった一ゲーム取ったくらいで、そんなに喜んでちゃ、四十億年たってもぼくには勝てないよ」


 二週間後、七菜の球威とコントロール、留美のスマッシュの破壊力とコース狙いが、目を見張るほど向上し、拓也から二ゲーム取ることに成功した。


 その後も挑戦し続けたが、勝てず、留美は七菜に言った。

「七菜、あたいの頬を思いっきり叩け。あたいがまだまだ追いきれないから、負けちまうんだ」

 七菜は四角い顔をしかめながら口答えする。

「いいえ、留美先輩こそ、わたしの頬を腫れるまで叩いてください。わたしのフットワークがまだまだ足りないから負けたがです」


 夏休みに入って一週間がたち、もともと速かった動きのスピードが、二人とも劇的に伸びると、拓也と互角に競り合うようになり、ついに勝利をつかんだのだ。

「二人とも、見違えるくらい強くなった・・」

 と拓也は嬉し涙を見せる留美と七菜に、最後のアドバイスを贈った。

「留美ちゃんは、山下・高橋組に勝てる力を得たと思う。だけど、七菜ちゃんは、あの二人に勝つには、まだパワーが足りない。でもね、七菜ちゃんがその力を持っていないわけではないんだ。人は誰も、本来持っている最大限の力の、三十パーセントくらいしか出せないと言われている。だから、七菜ちゃんがあの二人と最後に戦う時、人格が変わるくらい、隠れている潜在能力を引き出せれば、奇跡は起こるよ」

「潜在能力?」

 七菜の細い目が、拓也をまっすぐ見た。

「そう、人が隠し持っている、本人も知らない、野獣の力。たとえ筋肉がちぎれ骨が砕けようと、どうしてもそれを出さなきゃいけない理由がある者だけが出せる、火事場の馬鹿力、究極のパワーさ」

 拓也の言葉に、七菜の眼光が鋭くなった。

「どうしてもそれを出さなきゃいけない理由がある者だけが、それを出せるがやね?」


 旅立ちの前夜、留美は敦子ママの眠る横に、そっと身を横たえた。

 何としても、感謝の言葉を伝えたかった。

 闇の中で、恐る恐る、母の細い指を握った。荒れた肌触りに、顔をしかめた。

「留美? どうした? 早よ寝なさいよ」

 目を覚ましたのか、眠っていなかったのか、敦子が言う。

 留美はあわてて言い訳した。

「今日は、久しぶりにゆっくり寝れるんだ。新聞配達も、三日間休みをもらったし。だから、ちょっとだけ、ここで寝ていいだろ?」

「どうしたのよ?」

 と問いながら敦子は娘の握り返し、

「あらあ、留美の指って、おいしそうね」

「それって、ヤマンバのセリフだよ。何でだよ?」

「だって、マメやタコだらけ」

 留美は少し考えてから言葉を返した。

「何だ、母親のくせに、親父ギャグかよ・・だったら、ママの手は、カサカサしているから、雨模様だね」

「座布団一枚、には、まだまだね」

 と笑う母の胸に、留美は顔を寄せた。

 敦子は波打った髪を撫ぜながら、

「明後日は、試合を観に行けなくて、ごめんね。でも、決勝の日には休みが取れたから、応援に行くからね」

「ごめんね、ママ。もしかしたら、初日で負けちゃうかもしれないよ。あたい、本当は、怖いんだ・・全国には、どんな凄い相手がいるかも分からないし・・テレビで顔を知られたあたいを、誰もが後ろ指さすかもしれないし・・」

 敦子は留美を胸に抱いて、耳元へ口を寄せた。

「留美は、日本一努力してきたんじゃなかったの? だったら、何も恐れることなんてない。留美には日本一になる資格があるの。過去の事件で、日本中の人が留美を非難したとしても、誰よりも努力してきた留美には、その資格があるのよ」

 できればこのまま朝まで眠りたい・・母の鼓動に包まれて、留美はそう思った。だけどこらえきれない涙を母に見せれず、闇の中、黙ってその温もりから離れた。

 部屋を出る時、振り返ることもできなかった。それでも、どうしても伝えたいひと言があったのだ。なのに泣き声になりそうで、言えなかった。





















 












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