第27話 「チャンスは大ピンチ」と言い聞かせて闘え
翌日の日曜日、紅玉高校女子ソフトテニス部が練習を始めると、今日もまたシルバーの軽ワゴンが市営コートにやって来た。
「お、鉄のパンツが来たぞ」
と佐子が叫び、部員たちがコートの横に停車した車に注目した。
「鉄のパンツめ、ここで会ったが百年目、昨日の恨み、今日晴らして見せようぞ」
と輝羅が言いながら、ポキポキ指を鳴らした。
運転席の横江拓也に続いて、助手席から他の男も降りた。
「キャア」
と七菜が火傷しそうな声を上げた。
増田俊だ。杖を突いて、拓也の後からゆっくりコートに入って来る。
選手たちがバタバタ駆けて、二人の男を取り囲んだ。
輝羅がハスキーボイスで口火を切った。
「やい、ほら吹きコーチ、あんたがよこしたこの鉄のパンツ男のせいで、あたしは大事な足を痛めちまった。この責任、きっちり取ってもらうからね」
「へっ? 鉄のパンツ?」
目を丸くする俊に、佐子が大きな目で睨みつけて説明する。
「この男はねえ、鉄のパンツをはいているんだ。あたいの胸に咲いた、この桜吹雪が見ていたんだぜえ」
と言って、スリムな体のシャツをめくろうとする佐子を、キャプテン留美が長い腕を伸ばして制した。
「ほら吹き俊、あんた、退院したのかい? もう、体は、大丈夫なのかい?」
潤んだ瞳が俊を呑み込もうとした時、遅れてやって来た白鳥織江が俊に気づいて駆け寄った。
「まあ、まあ、増田コーチじゃないですか。交通事故で、絶対安静じゃないのですかあ?」
俊は振り返って、手を振ってみせた。
「ああ、織江先生、おいら、もう、元気です、ほら、この通り」
と言ったのに、ふらついて、倒れまいと、織江にしがみついてしまった。
「あら、増田コーチ、いくらわたしが恋しかったといえ、生徒の前で、いけませんわあ」
そう言いながらも、織江は俊を百年の戦争から帰還した恋人のように抱きとめていた。
留美がナチュラルウエーブの栗色の髪を逆立てて叫んだ。
「はあ? てめえら、純真無垢なあたいらの前で、何オフザケしてんだい?」
俊は織江から離れ、杖を突いて歩き、ベンチに腰を下ろした。
織江先生は長い黒髪を乱して首を振り、
「坂東さん、ごめんなさいね。ああ、わたしが魅力的すぎるのが罪なのね」
と言って、少し離れすぎた目で妖しく留美を見た。
留美はコートを揺らして俊の前へ歩み、口より先に手が出ていた。だけど無精ひげまじりの頬を叩く寸前、危険を知らせる警報が留美の胸に響いたのだ。ぎりぎり手を止めたはずなのに、俊はベンチに崩れて動かなくなった。
織江がキャアキャア駆け寄って俊の肩をさすった。
「坂東さん、病人に何てことするの? ああ、増田コーチ、大丈夫? わたしの声が聞こえますか?」
俊は死んだように動かない。
留美は「え? え?」ともらしながら蒼ざめた。
娘たちが馳せ寄って、声をかけながら揺すったが、男は息すらしてないようだ。
留美は自分で自分の頬を叩きだした。
「救急車を呼ばなくっちゃ」
と織江が言った時、俊がすくっと立ち上がった。
あまりに急だったので、七菜がゾンビに直面したかのように尻もちをついて叫んだ。
「きゃあああ、ほら吹きコーチ、だましたがかあ?」
「死んだフリなんて、何てほら吹きだ」
と輝羅が俊の肩をポカリと責める。
「おいら、ビンタなんて嫌いだ」
と俊は目を白黒させて言う。
「叩いてないだろ」
と留美が言うと、俊は最上級の変顔で応えた。
「留美のビンタの風圧で、こんな顔になっちゃったあ」
織江と数人の娘たちが、腰を抜かして笑い転げた。
留美は今度こそ俊を叩きたくなったが、背を向けて離れ、こっそり涙を拭いた。
「やっぱり俊コーチは、札付きのほら吹きっちゃ」
と七菜が声を裏返しながら非難すると、
「キラ殿、これはもう、手打ちにするしかないですぞ」
と佐子が裁く。
それを受けて、綺羅が進み出た。
「姉御をだますなんて、言語道断、手打ちにしてやらあ」
俊に向けて利き腕を振り上げた。
だけどその手首を、誰かが稲妻のようにつかんだのだ。
「誰だよ、邪魔するやつは?」
輝羅が振り返ると、目を吊り上げた留美がそこにいて、低い声で問う。
「俊コーチを叩こうとしているのは、この手かい?」
硬い指が綺羅の手首に食い込んでいく。
「る、留美姉御・・」
「今すぐこの手をへし折って欲しいのかい?」
輝羅は涙ぐみ、ひざまずいて懇願した。
「姉御、ごめんなさい。自分でへし折りますから、許してください」
留美は我に返り、手を離しながら言い繕った。
「冗談だよ、キララ。あたいも俊コーチを真似て、ほらを吹いて見たくなったんだ。ほら、ここは、笑うとこだよ」
留美が怖すぎて誰も笑わいので、俊が皆に言った。
「それより、今日は、おいらの後輩を紹介するよ。もう知ってるよね? 横江拓也、明光大学四年、もう就職も決まっているし、今は結構ヒマらしいから、コーチを頼んだんだ。ソフトテニスのシングルスで、県の一般男子トップになっているオールランドプレーヤーだよ。全国でも学生ベスト十六になっている。この男こそ、留美と七菜を日本一にするための秘密兵器さ。これから留美と七菜は、拓也と対戦して強くなっていくんだ。拓也にはすでに、最大のライバルの山下・高橋ペアの試合を、パソコンで観てもらっている。彼なら、東青山学園のプレーを、グレードアップしてコピーできるはず。だから留美と七菜は、拓也に勝てるようになれば、ライバルにもきっと勝てるんだ。他のみんなも、拓也のプレーを見て、一つでも多くを学んで欲しい」
俊に紹介され、拓也は上機嫌で挨拶した。
「やあ、みんな、ぼくは今度こそ、みんなの仲間になれるみたいだね。もう、鉄のパンツははいてこないから、ぼくの大事なとこ、蹴らないでね」
留美が舌打ちしてつぶやいた。
「ちぇ、鉄のパンツ、蹴り破りたかったのに・・」
「いやん」
ともらして、拓也は両手で股間を押さえていた。
七菜・留美ペア対拓也・輝羅ペアで、早速対戦することになった。
輝羅のミスでゲームは競ったが、学生男子のパワーに圧倒され、一ゲームも取れずに七菜・留美ペアは敗れた。
「鉄のパンツに勝てないと、マリリンたちにも勝てないのかい?」
と留美は俊に聞いた。
俊はうなずき、
「拓也に勝てるようになれば、さっき言ったように、マリリンたちにも負けないよ」
留美の頬に火がついた。
「だったら、勝つまでやるよ。七菜、あいつをギャフンと言わせてやるぜ」
七菜の瞳にも炎が揺れた。
「一緒に鉄のパンツを蹴り破りましょう」
二人は次は拓也・佐子ペアと対戦することとなった。
俊が拓也に聞いた。
「拓也、まさか女子校生に負けるようなことはないよね?」
「先輩、このぼくが、このちっちゃいのに、負けるはずないじゃないですか?」
と拓也は七菜を指さして笑う。
七菜の顔がさらに紅潮した。
「ちっちゃい言うな。だったら、てめえ、負けたら、みんなに焼肉おごるがか?」
「何だっておごってあげるよ。きみがぼくに勝つのは、一億年早いけどね」
と拓也があざけると、彼のペアの佐子が目を光らせ、シャツをめくって言った。
「今の言葉、この桜吹雪が確かに聞いたぜえ。今日のランチは焼肉だあ」
「焼肉だあ」
と貝のように無口なはずの真由も叫んだ。
拓也は動じず、佐子に告げた。
「ふっふっふ、いいだろう。ただし、佐子ちゃんが、すべてのサービスとレシーブをきちんと返したら、という条件付きだ。それで負けたら、みんなにデザート付きの焼肉おごるさ」
女生徒たちが七菜・留美ペアを大合唱で応援する中、七菜のサービスで試合が始まった。
拓也がミドルへ深いロビングでレシーブすると、七菜がフォアに回り込んで逆クロスへ速いロビングで攻めた。拓也は余裕で追いつき、留美がスマッシュを狙っているのを見極めると、バックで逆クロスへシュートを打ち込んだ。だけどペアの佐子が振り向いてそれを狙っていたのだ。「おりゃあ」と叫んで、会心のボレーを自らのコートに決めるじゃない。
「ナイスボレー」
と応援の皆が万歳した。
佐子はネット越しに留美とハイタッチして喜んでいる。
「う、裏切りものお」
と拓也は非難する。
佐子はラケットを拓也へ向けて笑った。
「ふっふっふ、あんたが出した条件は、わたしがサーブとレシーブをきちんと相手コートに入れる、というだけじゃないか。一万年昔の太古から、人は焼肉のためなら、どんな罠でも仕掛けてきたんだ。つまりわたしは今このゲームで、あんたのボールをボレーするために生まれてきたんだよ」
応援の女生徒たちが、歓声をあげ、手拍子しながら『焼肉の唄』を合唱しだした。
「な、何で・・」
拓也はたじろぎかけたが、すぐに頬を震わせて笑った。
「ふっふっふー、そうかい? そうでなくっちゃ、こっちも面白くないぜ。だったらぼくは、きみら全員、本気の力でねじ伏せてみせようじゃないか」
それから拓也は、ペアの佐子にも触らせないコースに剛球とロビングを打ち分け、佐子のボレーやスマッシュのミスで競ったゲームもあったが、結局ゲームカウント4-0でその試合を制した。
負けず嫌いの留美と七菜は、日没まで拓也に挑戦し続けたが、やはり一ゲームも取れなかった。
「ゲームポイントまで取れるのに、あと一ポイントが取れないから、負けるんだ」
と拓也は言う。
「どうして取れないんだい?」
と留美は問う。
留美の食い入りそうな大きな目にたじろぎながらも、拓也はアドバイスした。
「大事なポイントで、得意技を打ち切れないからさ。テニスも人生も同じで、チャンスを逃したら負けるんだ。チャンスは、いつも、負けと隣り合わせなんだ。だからゲームポイントを取った時、チャンスと思ったら負けるんだ。チャンスは、ピンチなんだよ。そこを取らなきゃ負けるんだから、ゲームポイントでは『大ピンチ』と自分に言い聞かせて闘わなくちゃ。人は大ピンチの時、火事場の馬鹿力発揮できるんだからね。チャンスボールが目の前に上がって来た時も同じさ。それをミスったら、強い相手には負けてしまうだろう。だからチャンスボールを決めに行く時も、『大ピンチ』と思って、二倍も三倍も集中しなくちゃいけないんだ」
「じゃあ、本当にピンチの時は、どう思えばいいがか?」
と七菜が問う。
拓也は人差指を立てて七菜を見下ろした。
「それも人生と同じさ。ピンチは逆にチャンスでもあるんだ。人生でピンチを乗り越えた者が成功するように、テニスでもピンチを撥ね返すことが勝ちにつながるんだ」
留美が拓也の後ろの俊を見て言った。
「ほら吹き俊、そういや、あんたも似たようなことを言ってたね・・ピンチに強い者、そしてチャンスにもっと強い者が勝つんだって」
七菜も俊に言った。
「ゲームポイントだとか、ポイントやゲームで2-0とリードした時、そこで最高のプレーをして、その一本をもぎ取る者が強い選手だといったがよね? そして試合に勝つのは、うまい選手ではなくて、強い選手ながよね?」
俊は肯定の言葉の代わりに笑みを見せた。
拓也がここぞとばかりに言う。
「これから、そんなチャンスの時は。『チャンスは大ピンチ』と自分に言い聞かせて闘うんだ。そしたら、一億年後と言わず、百年後にはぼくに勝てるようになるかもしれないよ」
「ぬあーんだってえ?」
留美は耳まで赤くして吼えた。
「明日勝って、あんたの鉄のパンツ、蹴り割ってみせるから、覚悟しときな」
拓也は条件反射で股間を手で守り、またも「いやーん」ともらしていた。
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