第26話 あいつらのためにも戦うなんて死んだ方がましだよ

 拓也の軽ワゴンの中で、留美は唇を噛み、虚空を睨みつけていた。

 大学病院に着き、拓也が逃げるように去ると、留美は教えられた新館へと走った。

 523号室の名札を見ると、六人の中に、増田俊の名が確かにあった。なのにどのベッドにも彼の姿はない。

 廊下を捜しても見当たらない。ナースステーションで尋ねようと思った時、向かいの待合室で二人の女性看護士と談笑する青年の後ろ姿を見つけた。栗色のくせっ毛、肩幅はガッチリしてるけど痩せた背中、松葉杖をついて立っている。

「なっちゃん、退院したら、焼き鳥食べに行く約束だよね?」

 とデレデレ声で話している。

 白い肌で美人のナースも甘えた声で答える。

「おごってくれるんですよね?」

「大好きななっちゃんとのデートだもん、何だっておごるよ」

「わあ」

 もう一人のナースも男心をくすぐる声で言う。

「わたしは? わたしにもご馳走してくれる約束でしょ?」

「かんなちゃんは、また今度ね」

 その言葉を聞いた瞬間、留美の口から怒声が噴かれた。

「このナンパ野郎があ」

 近くにあったウエットティッシュボックスをむんずと掴み、彼の背中へ投げつけていた。

 驚愕の顔で振向いた青年は、増田俊ではなかった。留美の鬼の形相が一瞬で狼狽し、涙ぐんだ。

「ご、ごめん、なさい」

 逃げるように523号室へ駆け戻った。

 やはり俊はいない。男女の病院スタッフが入って来て、一つのベッド周りの清掃を始めた。

 荷物を手にした若いナースに留美は尋ねた。

「退院ですか?」

 ナースの眉間に縦じわが寄った。彼女の目には悲しみが滲んでいた。唇を留美の耳に寄せ、

「お亡くなりになりました」

 と囁くと、慌ただしく出て行った。

 留美はその言葉を反芻しながら壁に背をもたれた。やがて崩れるようにしゃがみ込むと、ポロポロ大粒の涙が頬を流れた。隣に誰かが来ても、電池切れの人形のように無反応だった。傍らに膝をついた誰かが声をかけた時も、彼女の聴覚は遮断されているようだった。だけど、数秒もせぬうちに彼女の体がビクンと震えたのだ。

「留美・・」

 とその声は呼びかけていた。

 何かが留美の濡れた頬に触れた。

「えっ?」

 それは誰かの指だった。

 その指の主を見つめても、涙で曇って見えない。だけど留美には分かったのだ。

「俊?」

 その指が涙を温かく拭いた。

「何で、泣いてる?」

 無精髭が見えた。

 留美は青年の手を払いのけ、自分で涙を拭いた。

「ちぇ、誰が泣いてるだってえ? あんた、ほんとに俊かい? 幽霊じゃねえよな?」

 留美は青年の髪に指を伸ばし、頬にも触った。そうやって俊を確かめると、ふいに声をあげて笑いだした。笑うと、また涙が溢れ出た。

「ほら、やっぱり泣いてる」

 と俊が言うと、留美は唇を尖らせ、彼の来ているシャツを引っ張ってそれで涙を拭いた。

「だから、泣いてなんかいねえよ。泣きべそかいてるのは、あんたの方だろ?」

「おいらがここにいるって、横江拓也に聞いたのかい? だいたい、何でここに来たんだ?」

 見つめる瞳から留美は目をそらした。

「ちぇ、来たくなかったけどよ・・あんた、覚えてるだろ・・馬幌城でのあの決闘を? そこであんたとあたい、男と女の約束を交わしただろ? あたいが日本一になるまで、あんた、あたいにテニスを教えなきゃいけないんだ。じゃなきゃ、あんた、キイロスズメバチの巣に頭を突っ込んで死ななきゃいけないんだ。それがかわいそうだから、来てやったんだよ。男と女の約束は、何があっても、絶対なんだから・・」

 そっぽを向いていた目が大きく見開かれて俊を捕らえた。

「それなのに・・全国大会まで、そんなに日がないっていうのに、ほら吹きコーチ、いつまでこんなとこにいるんだよ?」

「見ての通り、おいら、事故で頭打って、そんな約束、覚えちゃいないんだよ」

 なんて俊は言う。

「つまり、記憶喪失ってわけかい?」

 俊は人差指を突き立てた。

「そう、それ」

 留美は唇の両端を吊り上げて笑った。

「それはよかった。じゃあ、あたいがあんたをだましてコーチを受けていたことも、知らないんだね?」

「それは・・覚えているかも」

 留美は怖いくらい俊を見つめていた。

「じゃあ、やっぱり、あんたは、あたいを、許さないんだね?」

 俊も熱く見つめ返して、うなずいた。

「ああ、ああ、許さない。許すもんか。留美がおいらの代わりに日本一になるまで、絶対許すもんか」

 二人は視線を一ミリもずらさなかった。

「えっ? 何だい、それ?]

 と問う留美の頬が熱を帯び、

「おお、おお、許さないでくれ。死んでもあたいを許しちゃだめだ。あたい、今度こそ、本当に誓うから・・あんたの代わりに日本一になるって。だから、もう一度、あたいに、テニスを教えろよ」

 俊の頬も色づいていった。

「だったら、一つだけ、約束してくれないか?」

「約束?」

 俊の手が伸びて留美の指を握った。

「山下・高橋組に借りを返すために・・恨みを復讐するために、留美は日本一になりたいのかい?」

 留美は手を引こうとしたが、俊の指が絡んでそれを許さなかった。

「あんた、何するんだよ?」

「でもね、最後は、あの二人を恨むのじゃなく、留美の闘争心に火を点けたあの二人に感謝して、戦って欲しいんだ。留美自身や、紅玉の仲間たちのためだけじゃなく、あの二人のためにも戦って欲しいんだ。互いが成長するために、戦って欲しいんだ。自分たちのためだけじゃなく、相手のためにも、そして試合を観てくれるすべての人のためにも、命を燃やして闘って欲しいんだ。互いのために戦うことの素晴らしさを、その一瞬一瞬にすべてをかけて生きる輝きの美しさを、留美の試合を観るみんなの心に響くように戦って欲しいんだ。約束してくれるかい?」

 息もせず俊を見つめていた留美は、顔を真っ赤にして首を振った。

「あんた、マジで言ってるのかい? この手を離しなよ。あたい、ぜってえできねえよ。あいつらのためにも戦うなんて、死んだ方がましだよ。やい、離しやがれ」

 もつれた指を断ち切って、留美は病室を飛び出した。そして非常階段を一階まで駆け下りていた。それからどこへ行くでもなく、亡霊のようにさまよった。外へ出ると、太陽が膨れ上がって彼女を照らした。

「あたいに、そんなこと、できるわけないだろ・・あのバカ野郎が・・」

 と自分の影につぶやいた。

 影も陽炎のように揺れてつぶやいた。

「そうさ、あんたは、いつも強がってばかりだけど、ほんとはちっとも強くない・・ヒビだらけの、ツギハギだらけの、すぐに割れちゃうガラスなのさ」

 震える指をじっと見つめた。俊に握りしめられ、俊を振り切った、熱い指を。














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