第24話 これがほんとの稲妻留美だあ

 キャスターを辞めた坂東敦子は、朝早くから清掃のアルバイトに就いていた。午後二時までやって、昼食を取ると、近くの中華食品工場へと急ぎ、餃子を作る仕事をした。赤字になった生活意を稼ぐため、毎日、合わせて十四時間働いた。

 今日も帰宅したのは夜の九時過ぎだ。家に入ろうとした時、テニスコートの方から打球音が聞こえてきた。もしやと思って、歩いて行くと、まだ照明が付いていて、誰かが一人、居残りで壁打ちをしている。次女の留美だ。

 気付かれないように帰宅した敦子が、風呂から上がって着替えている時、留美は帰宅した。

「お帰り、留美、夕飯は食べたの?」

 母の呼びかけに、娘は低い声で応えた。

「ただいま、ママ、夕方、パン食べたよ」

「餃子、食べない?」

 工場からタダでもらえる餃子を敦子は焼き、留美と食卓に着いた。

「あのう・・」

 留美が焼餃子に手を付けずに母を見る。

「なあに?」

「あのね・・」

 上目づかいで母を見るばかりで口ごもる娘に、敦子は言う。

「ねえ、留美、また、テニス、始めたんでしょう?」

 留美の目が少し震え、日焼けした頬が赤らんでいく。

「どうして、分かったの?」

「だって、留美、ずっと死んだ目をしてたけど、今夜は、おどおどしてるけど、生きてる目だよ」

 留美の頬がさらに火照った。

「ごめんね、ママ。あたい、こんなことする資格、ないのは分かってるけど、今、やらないなら、死んでるのと同じな気がして・・世間があたいを罵倒することくらい分かっているけど・・以前、あいつが・・俊コーチが言ったんだ・・誰の言葉か忘れちまったけど・・たとえ明日地球が滅びるとしても、わたしは今日リンゴの木を植えよう・・って。それが生きることだって、あいつは言ったんだ。だからあたい、試合に出れるかどうかも分からないけど、誰があたいをどんなに非難しようと、一日一日、日本一目指してがんばっていたいんだ」

 唇を噛みしめる娘の指を、敦子は握らずにはいられなかった。

「ばか、どうしてあやまるの? わたしは留美が部活に行かないから、ずっと心配していたのよ」

「だって、あたいのせいで、ママが貯金を失くして、借金まで作って、毎日長時間きつい仕事してるのに、部活なんかに行くあたいは、人間失格だよ。分かっているんだ。分かっているけど・・」

「いいえ、いいえ、留美は、わたしの気持ち、ちっとも分っちゃいない・・」

 敦子の目が厳しくなり、語気も荒くなった。

「留美は、わたしの誇りであり、わたしの夢なのよ。わたしが昔、陸上で日本一になれたのは、わたしの親の支えがあったからなの。だから、今度はわたしの番なの。だから、今こそ、わたしに留美を支えさせてね。ねえ、陸上だけじゃなく、ソフトテニスでも日本一の娘を育てたってことになったら、わたし、カッコイイでしょ? すごい母親だって、世間で言われて、また、いい仕事に戻れるかもしれないでしょ? だからね、わたしが留美のためにがんばるのは、わたしのエゴなんだから、留美は気にしなくていいのよ。朝刊配達だって、すぐに辞めて、朝練に行っていいのよ」

 留美は目に涙を溜めて首を振った。

「嫌よ、朝刊配達だけは、やらせて。啓介伯父さんの店だから、安心でしょ? 毎朝、十キロ以上、新聞配って走っているから、あたい、足腰が鍛えられてると感じるの。これも、てっぺん取るための、大事なステップでしょ? それに、配達終わってからでも、朝練、余裕で間に合うし。あたいも、あたいのエゴで、新聞配達してるんだから、ママは気にしないでよ」

 そう言うと、留美は立ち上がって、涙が溢れるのを見せないようにした。

「留美、どこへ行くの?」

「風呂入るわ」

「餃子食べてから、入りなよ」

「何だか、お腹いっぱいなの」

 留美が風呂に入っている間、敦子は餃子を食べ、留美の分はラップして冷蔵庫に入れた。

 

 夜中の二時半に目覚ましが鳴る。

 顔を洗って、留美は家を飛び出す。

 敦子の七つ年上の兄の啓介が経営する販売店まで、走って十五分だ。     

 トラックから新聞やチラシを荷下ろしして、それらを折り込む作業をする。悪天候が予想されるので、新聞はビニールに包まれ、配達員は合羽を身にまとう。誰もがバイクでの配達だが、留美だけはランニングだ。

「留美ちゃん、よくこんな重いもの物持って、走れるね。合羽着たら、汗だくになるだろうに」

 と頭の禿げかけた伯父が心配する。

「重いほど、いいトレーニングになっていいんです。配るほど軽くなりますし」

 そう言って留美は走り出す。

 

 五十分ほど配った時、星空を黒い雲が隠し、大粒の雨が降りだした。まだ三分の二も残っているし、雨宿りの暇などない。靴がびしょびしょで重くなるのはへっちゃらだ。だけど鳴りだしたカミナリに、思わず悲鳴をあげる。近くに落雷すると腰が抜けそうになる。不良とのケンカも、猛犬に吠えられるのも、暗がりに潜む幽霊たちも、留美は怖くないが、カミナリだけは「ごめんなさい」だ。稲妻留美と呼ばれているのに、雷鳴が轟くと、この世の果てまで逃げたくなる。なのに、いっそ雷に撃たれてあの世まで飛ばされた方がいいかも、と思う自分も彼女の中にいる。それが罰当たりな留美の命運なのだ、と観念して、巨大な閃光と爆音目がけて走り続ける。

「うおおおお、これがほんとの稲妻留美だあ、うおおおお」

 稲光をステージライトに、雷鳴を伴奏に、【カミナリ好きのロックンロール】を絶叫しながら、地獄道を走り続ける。


 積乱雲は九十分ほどで去り、町に朝の香が色づき始めた。

 留美が帰宅した時、敦子が家を出るところだった。

「お帰り、留美。カミナリ凄かったけど、大丈夫だった?」

「いってらっしゃい、ママ。あたいは、稲妻留美だよ。カミナリとは、友達なんだ」

 と言う留美の顔は、七つの地獄をくぐり抜けて来たかのように憔悴していた。

 敦子は娘の濡れた髪をやさしく撫ぜ、手を振って別れた。

 留美が家に入ると、弁当が作ってあった。シャワーを浴びて、着替え、餃子とご飯を食べた。

 誰より早くテニスコートへ行くと、いくつもの水溜りがあった。水量の少ないAコート西側のストレートだけ、スポンジで水取りした。一二年生が来ると、ウオーミングアップをやらせ、留美は水取りを続けた。

 準備を終えると、一年生の槇原璃子マネージャーに上げボールをしてもらい、水溜りのないアウトコート後方をダッシュして、二面ランニングストローク練習を繰り返した。バックハンドから初めて、回り込みのフォアもやった。それから前後の連続ランニングストロークをやった後、前衛も後衛も前後のスマッシュ練習をした。


「いいかい、みんな、今日の授業、しっかり受けるんだよ」

 と朝練後に集合して留美は告げた。

「留美姉御、眠たい授業は、どうしたらいいんです?」

 と輝羅が聞くので、留美は彼女の両肩を掴んで諭した。

「うちの部員が授業中寝てたら、朝練できなくなっちゃうだろ? 眠たくなったら、教師の言葉にツッコミを入れるんだよ。授業をエンターテイメントと考えるのさ」


 そんなこと後輩に言ったものの、自らをエンターテイナーと考えることのない教師もいるし、こんなこと自分の人生にどう役立つのだろうという授業内容もあって、留美は土砂崩れのような睡魔に埋没してしまいそうだった。幸い留美の後ろの席が明美だったので、休み時間はイバラに囲まれた眠り姫のように眠り、チャイムとともに起こしてもらった。

「ねえ、明美、授業中さ、三分おきに、あたいの背中のツボを、何かで突いてくれよ」

 と留美が頼むと、明美は気持ちを察して、

「オーケー、留美の睡魔、うちが退治してやるけん」

 シャープペンの先で、明美は三分ごとに留美の肩甲骨のツボをグリグリ押した。それが明美のサディズムを目覚めさせ、しだいに過激になっていった。

 三分ごとに意味不明の声をあげ、大きな目を見開いて教師を睨む留美に、教師たちは冷や汗をかきながら授業をした。


 放課後、留美は脱兎のごとく家へ帰り、スーパーマンのように一瞬で着替え、パンをかじりながら市営コートへ行った。皆が来る前に、一人でローラーをかけた。錆びたローラーは、ギィーギィー音をたてながらも随分回るようになっていた。四分の一ほど引いた時、部員たちが次々走って来て、ロッカー裏で着替え、ローラーかけを交替しながらウオーミングアップをやった。

 そして皆でボールを打ちだした時、今日もシルバーの軽ワゴンがコートの横に駐まり、あの青年がやって来たのだ。命知らずのスパイのようにさりげなく入口を開け、確信犯のストーカーのように笑顔で留美に手を振った。

「あー、横江拓也だあ」

 と佐子が彼を指した。

「こんばんわ」

 と拓也が太陽に呼びかけるヒバリのように昂然と挨拶するので、一二年生たちは「こんばんは」と素直に返していた。

「ちょおっと待ったあ」

 角も牙も剥きだすように留美がドカドカ彼に近づいた。七菜と輝羅と佐子が留美について行く。

 留美が金棒のようにラケットを振り上げるので、拓也は一歩怯みながらもラブコールを送った。

「留美ちゃん、ぼくは昨日、実際にきみを見て、ますます好きになったんだ。ぼくにきみのコーチをやらせておくれよ」

「やはり、あんた、あたいのストーカーだね? キララ、そうだろ?」

 拓也を睨みながら、留美は輝羅に聞いた。

「間違いないです、姉御」

 と輝羅は答える。

 留美は佐子にも問う。

「ストーカーは犯罪だね? サッコ、どうするよ?」

「成敗するしかないです」

 と佐子は言う。

「じゃあ、みんなで、こいつを成敗するよ」

 留美の合図で、二年生三人は拓也の前後でラケットを振り上げた。

 拓也の額を、冷や汗がスルスル流れた。

「きみたち、ラケットはそういうふうに使うものじゃないよ」

 と注意しながらも、ラケットバッグで防御しようと身構えた。

「成敗」

 と叫びながら、佐子が先陣を切った。

 拓也はとっさにバッグで頭を守ったが、ラケットは振り下ろされず、佐子の右足が拓也の股間を蹴り上げるじゃない。昨日の恐ろしい痛みが拓也の下腹部に甦り、脳が「キンッ」っと悲鳴をあげた。

「そ、それだけはやめて」

 と拓也が吐いたのもむなしく、後方から「成敗」と口々に発しながら、荒ぶる七菜と輝羅の股間蹴りが連爆した。

「成敗」

 と留美も叫び、前方からの必殺飛び蹴りが男の急所に炸裂すると、拓也の目は白くなり、「くううう」と呻く口から泡を吹き、足の力を失った大きな体は黒土へ崩落した。

 四人の一年生も寄って来て、男性の末路を目を丸くして見つめた。

「真由、ミーコ、リンリン、璃子、あんたらも、ストーカーの成敗の仕方を知っとかなくちゃね。実践するのは、今しかないよ」

 と留美が言う。

 四人が悪魔のように目を光らせてにじり寄ると、拓也は今日も「いやーん」ともらし、地中へ逃げようとするモグラのように這って逃げた。

 

 










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