第22話 大河に輝く幻の道

 定期テストが終わって、一週間が過ぎた。


 ファミレスの控室で着替えようとした時、留美は店長に呼ばれた。

「悪いけど、今日から、別のアルバイトが来ることになったから、きみには辞めてもらうことになったよ」

 銀縁メガネの奥の細い目が留美を睨みつける。

 留美は目を見開いて見返した。

「いきなり、どうしてです?」

「分かるでしょう? わたしはあなたをよく知らずに採用してしまったけど、あなたはテレビやネットで問題になっているじゃないですか。それにあなた、この店で、三田喜久雄さんに暴行したらしいですね。うちは接客商売ですから、困るんですよ」

「それじゃ、皿洗いでも何でもやりますので、客に見えない、厨房で働かせてもらえませんか?」

 留美が必死に頭を下げるも、店長は頑なに拒絶した。


 裏口から去ろうとした時、永松由由と玉本夢香の二人にバッタリ出くわした。

 夢香が細い目で留美を見つめて問いかけた。

「留美、どうして部活に来ないのよ?」

 由由も小さい目で見つめて訴える。

「ペアの七菜がかわいそうじゃない」

 留美は目をそらして聞いた。

「何だい? あんたら、何でここにいる?」

 夢香が一歩進み出て手を握ろうとしたが、留美の指は臆病な猫のように逃げた。夢香は真っ直ぐに留美を見つめて言う。

「留美はね、わたしたちソフトテニス部員の夢なのよ。わたしとゆーゆが、留美の代わりにここでバイトして、留美の生活費稼ぐことに決めたから、留美は練習に行かなくちゃ」

 留美の頬がみるみる赤くなった。

「なーんだってえ? あんたら、あたいをばかにしてんだね。あんたらの施しを受けるほど落ちぶれるくらいなら、死んだ方がましだよ」

 夢香はもう一度留美の手を握ろうと試みた。

「ばかになんかしてないよ。あっ、留美・・」

 留美は夢香の差し出す手を払いながら駆けだしていた。通りの歩道を走り、紅の夕空へ向かった。夢香と由由も後を追った。だけど、毎朝十キロ以上のランニングで朝刊を配達している留美に追いつくのは至難の業だ。しだいに離されても、二人はあきらめない。

「あいつらに迷惑かけるくらいなら、死んだ方がいいんだ」

 そう自分に叫びながら留美は走った。

 一里ほど走り、天宝川の堤を越え、河原へ下った。前方の大河を見ると、川面に夕陽の道が煌めいていた。さざ波がキラキラ彼女をいざなっていた。その道の行先を彼女は知らなかった。ただ足を止めると倒れてしまいそうで、靴も脱がずにジャブジャブ進んで行った。何かがふくらはぎから膝、そして太ももへと染み入って来た。足場が急に落ち込んで、心臓まで波に揉まれた時、留美の名を叫ぶ声が背を突いた。振り返ろうとすると、足が泥に滑って、頭の中まで水中に落ちた。目を閉じず、この世の最期を見ようとした。暗い水の底無しの圧力の上に、キラキラ輝く光が満ちていた。ああ、何て綺麗なんだと、恍惚と胸が痺れた。やがて息ができない絶望が胸をしめつけ、ああ、もう何もかも終わりだと感じた時、ザバザバ水が騒ぎ出した。いつの間にか何かが腰に絡んで彼女を引っ張っていた。意識がぼおーとして抵抗できなかったが、顔が水上に出ると、反射的に呼吸していた。

「留美、死なないでえ」

 と叫ぶ由由の声が、耳の裏にはり付いた。

 留美は口中の水を吐き出し、由由を睨んだ。

「やい、ゆーゆ、離せよ。殴るぞ、こら」

「殴っていいから、いくらでも殴っていいから、死なないでえ」

 由由は馬鹿力で留美を抱きしめ、河原へと引いて行く。

「ちくしょう、ちくしょう」

 由由に自分のことをあきらめてもらおうと、留美は左拳で彼女の右頬を殴った。それでも由由は引き上げて行く。右拳で左頬も撃った。人生で最悪のことをしていることは分かっていたが、留美は最低の人間になって、由由に離れて行って欲しかった。今の自分が彼女たちにできることは、これぐらいしかないのだと思った。

 揺れる深みの反対から、夢香の金切り声が聞こえてきた。

「きゃあああ、留美、きゃあああ、留美・・」

 叫び声が堤を駆け下り、川に飛び込んで来た。

 二人がかりで生の世界へ引き上げられ、留美は観念した。そして河原の草にまみれて身悶え、嗚咽した。

 頬を腫らした由由も、隣でわんわん幼子のように泣いた。

「留美、死んだら許さんからね・・」

 夢香が留美の肩を叩きながら、声を張り上げた。

「わたし、留美と七菜が日本一になるまで、日本一のサポーターになると決めてんだ。そのためには、何でもするって、決めてんだよ。だから、留美が生活費を稼ぐために部活に来れないんだったら、留美が日本一になるその日まで、留美が何と言おうと、わたしが代わりにバイトするんだからね」

「ばかやろう。あたいは、そんなことされる価値なんて、ないんだよ」

 しゃくりあげる留美の手を、夢香は両手で握りしめた。

「わたしにとっちゃ、留美はわたしらの、スーパーヒロインなんだよ。テニスの才能はわたしの百倍あるでしょう? ねえ、のろまなわたしが、なぜ、半年間も、ほら吹き俊のトレーニングを乗り越えれたか分かる? 留美がいたからよ。留美が、もしかしたら、本当に日本一になれるかもしれないって、思ったから、そんなすごい選手と仲間になれて、わたしは何て幸せなんだろうと思っていたの。そして今、こんな悲しい時こそ、ほら、こうして、手を取り合って、明日の希望を夢見て、今日を生きるんだよ」

 由由も二人の指に両手の指を絡ませた。

「ゆーゆも、仲間だよ。だからこの手は、絶対離しちゃいけないんだよ」

 だけど留美は身をよじって二人の手を振りほどき、立ち上がったのだ。涙で二人の顔が見えず、背を向けて言った。

「ゆーゆ、あたいは、あんたを殴ったんだよ。あたいはね、どうしようもない暴力女なんだよ。もう、試合だって、出れないだろう?」

「ゆーゆが、殴っていいって、言ったもん。留美が死なないなら、いくらでも殴っていいって言ったもん。だから、留美は、試合にも出れるもん」

 友のばかな言葉が背中から胸に突き抜ける。

「ちぇっ、ちぇっ、死なないよ。死なないから、もうあたいとは、関わらないでくれ」

 そう吐き捨てると、留美は再び二人から逃げた。宵闇匂う河原を、逆風を裂き走った。夢香の叫びも風を裂いた。

「ばかあ、留美のばかあ。もう、あんたなんか、死んじまえ―」

 由由の泣き叫ぶ声も留美の背を追撃した。

「留美、死なないでえ。ゆーゆたちのとこへ、戻って来てえ」

 大河の無数の煌めきが、しだいに闇に呑まれていった。








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