第18話 再び地獄へ堕とされた殺し屋
次の試合が始まる前、留美は俊に手招きした。
俊が彼女の方へ行くと、留美は先に足早に歩いて行く。時折振り返り、深い水底へ呑み込むように俊を見つめ、また手招きして、歩いて行く。
俊がついて行くと、留美は奥の林の中へ入って行った。紅のウエアが木陰に消えた。
何か大きな渦に吞み込まれるように俊は大木の裏へ進んだ。留美はその樹木に背を着け、美しく燃える目で俊を見た。
「な、何だい?」
と問う俊の声が少しうわずった。
「あんた、何でついてきたのよ?」
留美の声もうわずっていた。
俊は真意を確かめようと、留美の大きく見開いた瞳を覗き込んだ。
「留美が、手招きしたから」
留美の目が風に震えた。
「あんた、何言いだすんだい?」
「どうして、ここに?」
壊れかけた目が、野獣のように俊を見た。
「あたしゃ、手招きなんかしちゃいねえよ。あんたが勝手についてきたんじゃねえか」
「そう、なのかい? だったら、おいら、もう行くよ」
俊が背を向けようとすると、留美はとっさに彼の腕をつかみ、怒った声で言う。
「何逃げようとしてんだよ。あたいのあとを、ストーカーみやいについてきた落とし前、きっちりつけてもらおうか」
「へっ?」
「だからさ、あんた、ほら、この木に、両手をつきな」
そう言って、留美は腕を引き、俊と場所を入れ替わった。
「な、何で?」
と声を震わせながらも、俊は言う通りにした。数百年生きてきた樹木の匂いが、手の平から染み入った。
「こうかい?」
と俊が尋ねた直後、背中に熱い生命が密着してくるのを感じた。日焼けした腕が震えながら彼の胸に回された。留美が俊に後ろから抱きついて、背に顔をくっつけたのだ。そして堰を切ったように泣きだした。留美は何も語らず、おさなごのように「うえーん、うえーん」泣きじゃくった。俊の背に留美の涙の湖が広がった。俊は振り向いて留美を抱きしめれたらどんなにいいだろうと思った。だけどただもらい泣きするのがやっとで、これからどんなことがあっても、この娘の味方でいようと心で叫ぶだけだった。
夕立が止むように、五分ほどで留美は泣きやんだ。
そして声を絞り出すように告げた。
「あんた、このこと、誰かに言ったら、殺す」
俊は振り返って、留美の赤く腫れた目を見た。
「留美、もう、泣かないで。ほら、笑って。留美の笑顔は、人を幸せにするんだ。留美が笑えば、お日様も笑うんだ。だから、ほら、笑って、みんなの所へ戻ろう」
「あんたは? あたいが笑えば、あんたも、幸せ?」
「留美が笑えば、おいらの心も笑うんだ、可愛い殺し屋さん」
留美はぶるっと震えると、木陰に俊を残し、逃げるように燃える太陽の元へ駆け戻った。
留美と七菜は、次の準々決勝、東青山学園の一年生ペアにゲームカウント4-0で勝ち、準決勝の東青山学園の団体メンバー、真鍋・香川ペアにも4-1で勝った
そして決勝は、高校全日本ランキング一位の山下真凛・高橋緑子ペアだ。
決勝前、紅玉高校の皆が集まる木陰へ、夕刊バラエティーの三田喜久雄と吉田アリスが、留美の母の敦子やカメラマンを引き連れてやって来た。
すると生徒たちから『古狸』と呼ばれている丸顔で小太りの三原崇校長も、どこからともなく出現したのだ。
校長はカメラが回っていることを確認すると、まずは織江先生に歩み寄って手を差し伸べるじゃない。
「いやあ、白鳥先生、実によくがんばられましたあ。わたし、紅玉高校校長三原、白鳥先生を誇りに思いますよ」
「あ、ありがとうございます」
と言って、織江は握手した。
三原校長は、次に俊にも握手を求めてきた。
「さすがは増田コーチ、わたしはあなたを信じていましたよ。わが紅玉高校ソフトテニス部初めての全国大会です。この勢いで、決勝もお願いしますよ」
白くて太い眉をヒクヒク上下させ、校長は百戦錬磨の笑顔で俊を見つめる。
「へっ?」
俊は胸の前に突き出された校長の太い指を是非もなく握った。
調子に乗った三原は、留美と七菜にも声をかけた。
「坂東留美さんと、小原七菜さん、お二人は我が紅玉高校の誇りであり、宝です。美しく咲いた大輪の花であり、燦燦と輝く大きな星です。わたし、校長三原、これからも誠心誠意応援しますよ。決勝も、がんばってください」
三原は彼女らにも握手を求めようと踏み出したが、世界を凍らせるような留美の視線に撥ね返され、差し出した手を引っ込めた。
三原校長のハイテンションに対抗するかのように、三田喜久雄が留美の前へしゃしゃり出た。
「我らがスーパーヒロイン、坂東留美ちゃーん、決勝を前にした、今の気持ちをひと言」
喜久雄が差し出したマイクを奪い取り、留美は瞳をめらめら燃やして言う。
「あたいが勝たなければいけない唯一の相手は、これから決勝で当たるマリリンと緑子なんだぜ。あいつらに勝つために、これまで死に物狂いで練習してきたんだから、ぜってえ負けねえ」
喜久雄が目を輝かせて食いつく。
「うわあ、さすが、もとオリンピア坂東敦子の娘だあ。これは決勝戦が楽しみだあ。増田コーチ、紅玉高校の小原・坂東ペアは、昨年日本一の東青山学園の山下・高橋ペアに勝てますか?」
留美から取り返したマイクを、喜久雄は俊に向ける。
「へっ?」
カメラが寄って来て、苦い草を食べてしまった猫のように俊は目をパチクリさせた。だけど留美の熱い目を見ると、頬をほてらせて答えた。
「お、おいらたち、てっぺんを取るために、これまで努力してきたんだ。だからおいら、勝つと信じてるよ」
喜久雄が両手で空を平泳ぎするくらい驚いてみせた時、決勝の相手の山下真凛と高橋緑子が近くを通りかかった。それを喜久雄が見逃すはずもなかった。好物のハツカネズミを見つけたフクロウのように、喜久雄の瞳がまあるく輝いた。
「おおっと、そこを歩く女子選手は、まさに、高校全日本ランキング一位の、絶対女王、山下・高橋ペアじゃあーりませんかあ?」
真凛と緑子の二人も、テレビカメラが自分たちに向けられているのに気付いた。駆け寄ってくる喜久雄に、真凛はモナリザのような大人びた微笑を向けた。
喜久雄はその微笑みに圧倒されながら真凛に呼びかけた。
「うわあ、山下選手は、何て魅惑的な美少女なんだあ。決勝を前に、ちょっとだけインタビューさせてもらっていいですかあ?」
マイクを向けられると、真凛は女優のようなカメラ目線で少しだけ物怖じしてみせた。
「えっ? あ、はい、わたくしでよければ」
「うわあ、ありがとう。じゃあ、率直に伺いますが、決勝の相手、坂東留美ちゃんは、あなたたちに勝つために、今日まで練習してきたと言っていますし、増田コーチは、紅玉高校のペアが勝つと信じてると言っていますが、どう思われますかあ?」
と喜久雄は意地悪な質問をぶつけた。
それを聞いた緑子が、こめかみの血管を浮き上がらせ、づかづか留美と俊へ近づきながら怒鳴った。
「ぬあーんだってえ?」
「うわあ、高橋選手は、モンスターと呼ばれていますが、本当に怪物みたいだあ」
と問題発言をしながら、喜久雄は真凛と一緒に追いかけた。
留美が緑子を迎え撃った。
「あたいはね、テレビカメラの向うの全国の視聴者に約束するよ・・決勝で怪物を退治してみせるって」
「何だと? 昨日簡単に負けたくせに。てめえらに勝つのは、赤子の手をひねるよりたやすかったぜ」
と凄む緑子を、真凛が後ろからたしなめた。
「緑子、おやめなさい。スポーツの世界、何事も結果で示せばいいだけですわ」
黒い針金のような緑子の髪を、真凛はやさしく撫ぜるように叩いた。
「それよりも、わたくし、気になることがありますの・・」
真凛は妖しげな瞳を俊に浴びせながら続けて言う。
「増田コーチ、覚えていますか? 紅玉高校が練習しているコートに、わたくしが訪れた時のことを。何と、わたくしたち、ちょっと昔、関わり合いがありましたのよね?」
「へっ? ああ、あの時ね・・」
俊は彼の人生を変えた三年近く前のカラオケ店での事件を思い出していた。
留美が「あー」と突然発狂したように叫んで、真凛の口を塞ごうとした。だけど合気道有段者の真凛は身をかわしながら一瞬で留美を投げ飛ばしていたのだ。
誰もが驚愕する中、真凛は平然と俊に問う。
「増田コーチはなぜ、自分の足を傷つけて選手生命を奪った張本人の留美に、テニスを教えていらっしゃるのかしら?」
留美を立ち上がらせていた俊は、首を傾げて振り返った。
「へっ?」
真凛は心を鷲摑みするような目で俊を見つめ、もう一度言う。
「増田コーチを傷つけた凶器を持ってきた仁科明美さんと一緒に、実際に刺した留美に、増田コーチはどうしてテニスを教えているのか、わたくしには疑問なのです」
「あれっ?」
二度言われても、俊にはうまく呑み込めない。
俊の手を借りて立ち上がった留美が何か言おうとしたが、真凛の衝撃の言葉に三田喜久雄が食いつかないはずがない。
「うわあ、何と凄いことを山下選手はおっしゃるのでしょうかあ。それは、事実ですかあ? なぜ、そんなことを知っているのですかあ?」
「なぜって、わたくし、事件があったその時、その現場に居合わせたからですわ。わたくしだけではありません。緑子も、留美も、明美も、七菜も、それからそこにいる青い目のアンさんも、その場にいたんですのよ」
と真凛は説明する。
「それで、それって、どんな事件なんですか?」
と美人アナの吉田アリスが聞いた。
留美の心の傷の大きなかさぶたを、容赦なく剥がすように真凛は言う。
「だから、明美さんが持ってきたナイフで、留美が増田コーチの太ももを刺して、そのせいで増田コーチは選手生命が絶たれたってことですのよ。その事件があって、留美は東青山学園中等部を退学になったけれど、裏でもみ消して、警察沙汰にはならず、留美は刑事罰を受けていませんのよね? ねえ、留美、そうでしょう?」
テレビカメラが留美に向けられると、誰もが彼女に視線を注いだ。だけど留美は、叫ぶように見つめる俊を、潤んで震える目で見返すばかりだった。
留美だけでなく、誰もが言葉を失っていた。喜久雄さえも事の重大さに危機の目を見開いたまま絶句していた。
やがて留美が卒倒しかけた時、母の敦子が駆け寄って娘を抱きしめ、叫び声をあげた。
「わたしが悪いんです。留美のためと思い、いえ、それだけじゃなく、わたしの保身のためにも、学校の言いなりになって、事件を表沙汰にできなかった。すべては母親のわたしの責任なんです。留美は、東青山学園中等部を退学になって、死にたくなるほど苦しんできたんです。わたしが責任を取ります。本当はもっと早く、わたしが責任取らなきゃいけなかったのです」
敦子の胸の中で、留美もしゃくりあげながら叫んだ。
「ママは何も悪くないじゃない。ママは何一つ悪いことなんかしちゃいない。あたいのために、責任取ると言うのなら、あたいが死んで責任取るからね」
敦子は娘のくしゃくしゃの顔を覗き込んで、強い口調で言う。
「いいえ、わたしは、自分の地位を守るために、娘の事件を隠ぺいしてしまったの。留美の将来のためだとも思ったけど、それは正しい判断とは言えなかったのよ。それに、留美、死ぬ、なんて、簡単に言っちゃいけない。留美がここで勝ち抜けることができたのは、ここにいる仲間たちのおかげでしょ? この仲間たちのことを思えば、絶対に死ぬなんて言っちゃいけないの」
夕刊バラエティーの看板キャスターの坂東敦子の窮地からカメラを逸らせようと、吉田アリスが、どこかへ雲隠れしようとしている三原校長に質問した。
「校長先生、先生は、この事件のこと、ご存じでしたかあ?」
マイクを向けられると、三原は太い白眉をヒクヒク八の字に悩ませて応じた。
「えー、お母さまがおっしゃる通り、この件に関しましては、秘密にされていたみたいですし、わたくしどもは、いっさい知らされていませんでした。もし、わが校の生徒が傷害事件を犯して、その罪を償わずに隠していたとなると、これは重大な問題ですので、早急に職員会議を開いて、今後のことは、決めさせていただきます」
アリスの眉も三原に合わせて険しく曇った。
「と、おっしゃられますと、留美ちゃんの退学もあり得るってことですかあ?」
「このことがおおやけになっては、市教委も黙っちゃいないでしょうし、すべては、職員会議などで決定するってことです・・」
三原は「では、わたしは大切な用事がありますので、ここで失礼します」と告げ、そそくさ逃げて行った。
テレビカメラが敦子と留美の母子に向き戻ると、留美は敦子の抱擁を振りほどき、俊の前に進み出て、ひざまずいた。
俊は無言で留美を焼き尽くすように見つめた。
留美の唇が震え、吐き出された泣き声も震えていた。
「話そうと、思っていた。すべてが終ったら話そうと。全部話して、この命、差し出してもいいと、思ってた。でも、それまでは・・あんたに見放されるのが怖くて・・あんたが、去って行くのが怖くて、言えんかった」
誰もが息を呑む中で、緑子のつぶやきが響いた。
「つまり留美は、あのことを、被害者にずっと秘密にしたまま、コーチしてもらっていたのか」
そして事件は起こった。
マイクを持った吉田アリスが留美に近づくと、ふいに留美が立ち上がるやいなや駆け出したのだ。
明美と由由が運動公園の外の街中まで追いかけた。だけど留美の逃げ足は驚異的で、見つけることはできなかった。
かくして前代未聞の、選手失踪による決勝戦棄権となってしまったのだ。
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