第17話 人生逆転のファイナルゲーム

 テレビカメラに向かって人気女子アナの吉田アリスが顔を紅潮させて語りかける。

「ああ、何ということでしょう。小原・坂東ペアと伊藤・矢代ペアの戦いは、ファイナルゲームに突入しました。ファイナルはデュースにならなければ、七ポイント取った方が勝ちとなります。このゲームを取ったペアが、全国大会出場を決めるのです。坂東留美のお母さんの敦子さん、今の気持ちは、いかがですか?」

 敦子ママは目を潤ませてカメラを見た。

「きっと留美よりわたしの方が緊張しています。手に汗握る、の意味を、わたし、初めて知った気がします。ほら、この手の平の汗の中で、わたし、溺れそうです」

 震える指を開いて、敦子は握った汗をカメラに差し出した。

 オーバーアクションが売りのキャスター、三田喜久雄が、目を剥いて喜ぶ。

「うわあ、クジラも泳げそうなくらい、凄い汗の海だあ。さあ、この試合、どんな決着がつくのか? これからが本当の勝負だあ」


「これからが本当の勝負だよ・・」

 と、ベンチに戻った七菜と留美に、俊はこの試合最後の助言をした。

「力はほとんど変わらないんだ。これからは、七菜・留美と、相手との、選手として成長できた方が勝つんだ。今まで生きてきた人生の悲しみや屈辱を、ほら、今こそ、二人を応援してくれているこの仲間たちを愛することに昇華させるんだ。二人の夢は、おいらたちみんなの夢なんだ。この夢を実現させるために、おいらたち、心をつないで毎日戦い、成長してきた。そして今こそ、おいらたち、死に物狂いで成長するんだ。七菜、今までやって来たことをさらに進化させるんだ。【振り切って、フォロー】が後衛の基本姿勢だ。逃げずにミドルも含めたシュートとロブで攻めて、そこに相手前衛がいたらスペースにフォローに走る。それをやり通せ。留美は、今、読みが合ってきてるよ。常に相手後衛が留美はどう動くと思っているかを考え、一本一本、相手が打つ可能性が高い方に打たせるようにモーションを工夫して、あとは相手はいつも上げボーラーだと思って、練習通り動いて、ボレー・スマッシュをやり通すんだ」

 フェンスの後ろから、明美が掠れ声で叫ぶ。

「留美、七菜、うちらがついとるとやけんね、絶対負けんとばい」

 他の部員たちも次々留美と七菜の名を呼ぶ。遅れて試合開始していた山本真由・片山輝羅ペアは先に東青山学園の別のペアに敗れてしまい、今、紅玉高校の仲間たちがこのコートの応援に集結していた。

 留美と七菜は、応援する仲間たちを凛としたヒロイン顔で見つめ、コートへ戻った。


「ゲームカウント3-3,ファイナルゲーム」

 と正審が宣告した。

 風上からさくらがサービスの構えをした。

『ファーストが入ったら、みゆきは流れを変えようと、ポーチに出てくるかもしれんがよ。だけど逃げたら負けだ。ここはミドルへ振り切るっちゃ』

 そう七菜は心に決めた。

 さくらは七菜のボディーへ正確にファーストサービスを入れてきた。七菜は一瞬で四歩ステップを踏んでフォアに回り込んだ。みゆきがさっとクロスポーチに出るのが見え、七菜は狙ったミドルよりもサイド側にずらしてレシーブを打ち込んだ。負けられないさくらは、猛獣に追われるカモシカのように走って、バックで天高く打ち返す。留美が逃がすものかとクロスステップでどこまでも追いかける。予想打点の三歩後ろまで下がり、キラキラ光る風に流されて伸びて来る白球を睨みつける。空の中心で太陽もクライクライクライ、叫んでいる。最後まで足を小刻みに動かし、前へ踏み込んで白球に命を注ぎ込む。

「稲妻スマッシュ」

 世界を裂く雄叫びとともにスマッシュされたボールが、クロスへフォローに下がったみゆきのラケットの先を夢のように突き抜けた。

 留美と七菜は磁石のようにくっついて見つめ合い、握手を交わす。

「ナイスレシーブだよ」

「留美先輩のスマッシュこそ、凄すぎるがです」

「流れを渡さなよ。流れを変えたら負けなんだ。我慢してもう一本だけ取るよ」

「もう一本だけ、先行です」

 次は留美のレシーブだ。

「0-1」

 と正審がコールした。

『あたいのこのレシーブには、部員みんなの夢がかかっているんだ。ならばこの一本、あたい、みんなのために、絶対負けない』

 そう自分に言い聞かせた。

 追い詰められているさくらは、ここで勝負のミドルサービスでエースを狙おうと思った。もう一ポイントも与えるわけにはいかないと心が叫んでいた。トスを上げ、全身全霊でトップスピンサービスを放った。ワイドもミドルも想定していた留美だったが、わずかにスタートが遅れた。ファーストサービスがセンターラインをかすめ、留美から逃げるようにカーブした。さらに風に乗ってぐんと伸びた。それでも韋駄天留美はぎりぎり追いつき、さくらの前へ精いっぱいのロビングでリターンした。さくらはこのチャンスボールを決して逃がすまいと、高くラケットを上げ、胸を張り、「おりゃあ」と吼えながら振り切った。全体重をボールにぶつけるようにして、前へダッシュして来る留美を破壊するアタックを逆クロスへ叩き込んだ。留美はその時サービスラインまでしか行けてなかった。さくらのアタックボールは、ネットを越えるとスライダー回転でギュンと沈んだ。留美は歯を食いしばり、体をひねってバックボレーの面を突き出した。生き残るための呻き声がもれ、ズンと重い手応えが体の芯まで響いてきた。ボレーされた白球は、ネットの白帯で悲鳴をあげ、力尽きて手前に落ちた。

「よっしゃあ」

 さくらが左手を天に突き上げた。

 みゆきも左拳を胸の前で震わせ、細い目をいちもんじにして笑い叫ぶ。

「デカーい。この一本、天地をひっくり返すくらいデカいよ」

 東青山学園の応援も、天地を転覆させるような勢いで拍手喝采だ。

 だけど紅玉高校の応援も負けてはいない。

「留美、おしい。ナイスボレーだったよ」

 と夢香が叫ぶと、明美も鷲づかみしたフェンスの金網を震度七で揺らしてわめくのだ。

「留美も七菜も、最高の試合をしとるとよお。最後まで、最高の試合ばするとよお」

 チェンジサイドのために、留美と七菜は手を握り合って風上へ移動した。互いに言葉が出ず、指から伝わる熱い血潮の拍動が『生き残ろう。生き残ろう・・』と訴えていた。負けたら即、留美は引退だ。今までの必死の日々が報われずに終わってしまう。手を離しても、心臓は狂ったロックンローラーのドラムのように乱れ打ち続けた。

 次は風上からの七菜のサービスだ。

「1-1」

 と正審がコールする。

『負けるもんか。わたしもファーストサーブで攻めるしかないがよ』

 そう心で叫びながら、七菜はトスを上げた。

 ネットに着いた留美は、レシーバーのさくらを見つめながらこう考えていた。

『ここでさくらの得意のレインボーロブを風下から打たれたら、相手のペースになってしまう』

 七菜が大声を発し、ミドルを狙ってサービスを打ち込んだ。だけど風で伸びて、わずかにフォルトだ。

「チャンスです」

 とみゆきが歓声をあげた。

 セカンドレシーブとなると、サイドやミドルのアタックも、ショートクロスも、さくらは自在に操ってくる。もうロビングを狙う余裕などない。

『さっきあたいがアタックを返せなかったから、さくらは調子に乗ってまたあたいにぶつけてくるかもしれない。それを決められちゃ負けだし、逆にあたいがボレーで決めたら勝ちだ。ならば、さあ、アタックしてきやがれ』

 と留美は考え、わざと二歩下がって、ロビングを狙っているように見せた。

ここでダブルフォルトしたら終わりだと、七菜はゆっくりセカンドサービスを入れた。そして、ショートもミドルパスも高速ロビングも想定してスプリットステップを踏んだ。

 留美がネットに詰めてくるのが分かっていたように、さくらは「レインボー」と叫び、向かい風を利用して留美の届かない高さへドライブで振り切った。それと連動して、みゆきが飛び跳ねるように動き、ストレートのポジションにピタッと止まった。

 七菜は殺人鬼に追われるような形相で走った。バックで追いつくのがギリギリのボールだ。

『ここでロブでつないだら、みゆきのメガトンスマッシュの餌食だ』

 七菜はそう考え、走り終わりにジャンプしながら「神風シュート」と叫び、バックハンドで渾身のストレートシュートを振り切った。

 だけどそこへ恐ろしい刺客が飛び出してきたのだ。みゆきが勝負のストレートポーチに出てきたのだ。

「よっしゃあ」

 と歓喜の声を発しながら、みゆきはフォアボレーをミドルへ叩き込んで走り抜けた。

 留美が目を剥いてラケットを出すも届かず、体重が左へかかった七菜も動けず、一瞬で逃げて行く勝機を悲痛に見送るしかなかった。

 留美が七菜に駆け寄って声をかけた。

「すぐ挽回だよ。風上だから、死に物狂いで打ち勝つんだよ。大丈夫、みゆきは続けてポーチに出るタイプじゃない。パッシングを打つと見せかければ、しばらくは出てこないよ」

 その言葉で七菜の重苦しい恐怖心は少し和らいだ。

「わたし、死んでも打ち勝ってみせるがです」

 その二人の様子を、みゆきは虎視眈々と睨みながらレシーブの位置へ歩いた。

『あの様子じゃ、逃げたりはしないだろう。ならば・・』

 そう考えながら、ネットの白帯に視線を集中させた。

「1-2」

 と正審がコールした。

 七菜はファーストサービスをみゆきの正面へ入れた。それをみゆきはフォアのロビングで高々と七菜の前へ打ち上げ、ネットへ猛ダッシュした。深すぎるレシーブは一瞬バックアウトかと思われたが、風に押し戻されて余裕で入る。七菜は大きく下がってから、前へ踏み込んだ。逆クロスへアタックするぞと見せかけた時、みゆきがストレートへポーチに動くのが見えた。だけどタイミングが早すぎる。絶対クロスパスを誘っている・・そう七菜は確信した。そして案の定、みゆきが動きを止めたのが分かった。この深さからでは、リーチのあるみゆきに対して、ミドルアタックも危険だ。七菜は腰と肩を回転させ、「おりゃあ」と発しながらトップ打ちをストレートへ叩き込んだ。だけど一瞬止まったみゆきは逆クロスへターンせず、再びストレートポーチのステップを踏んだのだ。

「よっしゃあ」

 という歓喜がまたもみゆきからほとばしった。さっきのプレーの再生のようなフォアボレーがミドルへ突き抜けていく。だけど今度は、ボレーのインパクトより先に、七菜が右へと走りだしていた。何千回と練習してきた【振り切ってフォロー】の形が七菜の体に沁み込んでいるのだ。だけど七菜が打つ前に、留美がそのボールに飛び込んでいた。もうこれ以上離されるわけにはいかないのだ。一本一本が、生死を分けるように重いのだ。だから自然に体が動き、目を剥き、頭からダイビングしていた。なのに矢のように鋭いみゆきのボレーボールは、伸ばしたラケットのフレームにしか当たらず、コートサイドへと悲鳴をもらして弾けた。コートにうつ伏せに叩きつけられた留美は、唇を噛み、拳を人工芝に撃ちつけていた。

「留美先輩・・」

 七菜が駆け寄り、助け起こした。

 留美は立ち上がりながら言う。

「三本離されちまったら、おしまいだよ。次の一本、必ず取り返すんだ」

「先輩、血が出ています」

 留美の肘と膝が擦り剝けている。

「ばか野郎、こんなの、ただの汗だよ。今、あたいの心臓からほとばしる血の熱さが、汗に混じっただけさ」


「3-1」

 と正審がコールした。

 今度は長身のみゆきが得意のサービスを打つ番だ。

『ファイナルゲームは、三本離してリードと言える。ならば、ここが勝負の分かれ目だ。ここでわたしの一番いいサーブを入れて見せる』

 瞳から猛炎を噴きだしながら、みゆきはそう心に誓った。

 一方、レシーバーの七菜は、窮地に追い込まれていた。

『この一本を失うことは、わたしの人生を奪われることと同じだ。みゆきが後ろにいる間に、打ち勝つしかないがよ。大丈夫、わたしは神風セブンって呼ばれてるがよ。みゆきはファーストサーブでミドルを攻めてくるだろうから、わたしは風のように回り込んで、みゆきのバックへレシーブを叩き込んでやる』

 七菜はそう自分に言い聞かせながら、ネットの白帯を睨み、フッフッと強く息を吐いた。

「メガトンサーブ」

 と叫んで、みゆきはクロスのワイドへスマッシュのようなサービスを打ち込んだ。それが会心の当たりとなった。逆を突かれた七菜は、わずかに一歩目が遅れた。ズドンと砲弾が撃ち込まれたような衝撃に身の毛がよだった。それでも、もうこれ以上離されるわけにはいかないのだ。サービスサイドラインに長いボール跡が刻印された瞬間、右足で人工芝を力の限り蹴って、七菜も頭からダイビングしていた。世界が九十度回転しても白球から目を離さず、命を爆裂させて腕を伸ばしていた。そのラケットの先に白球は当たった。眼力と絶叫で、何が何でも相手コートへ返そうとした。だけどみゆきのメガトンサービスは想像以上の破壊力で、七菜のダイビングリターンはサイドラインの右へ飛んでいく。絶望が胸に広がった時、右半身が人工芝に打ちつけられた。

「ジャストミート」

 というみゆきの雄叫びと、

「アウト」

 という正審のコールが、七菜の胸をグサリと刺した。

 今度は留美が駆け寄って、七菜を助け起こした。

「泣くんじゃないよ。まだ負けちゃいないんだ。やっ、七菜も擦り剥いちゃったねえ」

「大丈夫です。わたしの心臓も、あまりに熱い血を噴き出していて、汗が赤くなっているだけです」

「ほら、もう泣くなって。そんなに泣いちゃ、ボールが見えなくなるよ」

 留美が七菜の涙を拭くと、七菜はしゃくりあげながら、

「留美先輩だって、泣いてるじゃないですか」

「ばか野郎、これも汗だよ。こんな日には、目からも汗が出るんだよ。それより、もう一本も離されたら命取りだ。でもね、次の一本さえ取られなきゃ、あたいら、絶対負けないんだ。それがテニスのいいところなんだよ」

 そう七菜に言い聞かせて、留美はレシーブの位置へ歩いた。

「4-1」

 と正審がコールした。

 留美はさくらのを見つめながら考えた。

『さくらは次のポイントから風上になるから、風下のここでレインボーロブで攻めてくる確率が高い。だったらあたいはそれを狙って、稲妻スマッシュを決めてやろうじゃないか。だけどその前に、あたいのレシーブだ。みゆきに続けてサービスエースを取らせたら終わりだ。左右どっちにサーブが来ようが、一歩目が勝負だ』

「メガトンサーブ」

 とまたも叫び、エース狙いのミドルへ、みゆきがファーストサービスを叩き込んだ。コートを真っ二つに裂いてしまいそうな剛球だ。留美はスプリットステップから右へ動き、ブロックレシーブでみゆきへ返球し、ネットへ猛進した。みゆきはそのチャンスボールを留美の逆を突いて逆クロスロビングで攻め、前へダッシュした。俊足七菜が全力で走って、フォアに回り込んだ。この左ストレート、みゆきはこのゲーム二回続けてポーチに出ている。

『三回続けてこのコースでポーチなんてありえない。もう、絶対、ポーチはない』

 懸命に走りながら、七菜はそう心で叫んでた。だけどみゆきの悪夢のようなフォアボレーポーチが頭の中でフラッシュバックされる。恐怖で胸が痛くなる。それでも逃げたら負けなのだ。振り切ってフォロー・・今まで練習してきたことをやり通す以外ないのだ。

「おりゃあああ」

 悪夢を振り払うように大声を出し、ストレートへ打ち込んだ。そこへみゆきは出て来なかった。みゆきは逆クロスロビングの切り返しをスマッシュしようと狙っていたのだ。

 留美がストレートポジションに躍り出て、ピタリと止まった。

『さあ、前のゲームであたいがこのコース、ポーチを決めたことを覚えているだろう? だからあんたの一番得意なレインボーロブを打ちなよ』

 そう留美は心でさくらに呼びかけた。そしてさくらが打つ一瞬前にポーチのモーションを見せるやいなや、獲物へ飛び立つ鷹のようにクロスへ下がった。だけど勢いに乗るさくらはかん高い声をあげながら、センターマークを狙ってカウンターシュートを打ち込んだのだ。

 七菜が負けるものかと足を高速回転させながら考えた。

『ここでみゆきに動かれてストップボレーされたら、フォローできんがよ』

 七菜は右足でジャンプしながら、逆クロスへトップスピンのロビングを放った。だけどみゆきは上だけを狙っていたのだ。回り込みながらするする下がり、ラケットを振り上げるみゆきの目が狂気じみた輝きを発した。

「メガトーンスマッシュ」

 という叫びとともに、がら空きの逆クロスへスマッシュが放たれた。

 もう一ポイントも与えるわけにはいかないと、留美は下がってフォローしようとするが、絶望的に逆方向だ。七菜が執念で走り、遠く及ばないのに、またも頭から飛び込んだ。あきらめることは死ぬことと同じように思えてならなかった。黒い疾風が彼女たちを巻き込み、またも心の傷を広げて通り過ぎた。東青山学園の声援の嵐が追い打ちをかけた。それでも仲間たちの声を嗄らした応援も希望の手を差し伸べてくれる。そしてその手は決して離しちゃいけないのだ。

「ばか野郎、また出血がひどくなっているじゃねえか」

 と言いながら、留美は七菜を助け起こした。

「留美先輩、わたしたち、まだ、負けんがですよね?」

 壊れた瞳が留美を見つめた。

「あたりまえじゃねえか。あたいらが負けるわけないんだよ」

 手を取り合ってチェンジサイドする途中、留美は正審に七菜の膝の出血を見せて尋ねた。

「ねえ、タイムは取れるかい?」

 その血の量を見て、めまいで審判台から落ちそうになりながら、正審は「タイム」を宣告した。

 

 仲間たちと手洗い場へ行き、七菜も留美も燃える血を洗い、傷テープを張った。ついでに負ける恐怖と辛さで止まらない涙も洗い流した。

 コートへ戻る二人に、明美が声をかけた。

「留美、七菜、あんたらここまで最高ばい。だけん、最後まで、最高の戦いを見せるとばい」

「ネバー・ギブアップ。あきらめん者だけに奇跡は起こるよ」

 とアンも叫ぶ。

「留美姉御、愛してます」

 と輝羅がハスキーなラブコールを送れば、佐子は泣きながら訴える。

「留美先輩、昨日のわたしとゆーゆ先輩の仇を討ってくだされえ」

 由由も嗄れた声を張り上げる。

「留美、七菜、ゆーゆのかわりに世界一になるんだよお」

 夢香が日本人形のような顔をしわくちゃにして声援する。

「留美、七菜、わたしがついているからねえ。わたしは、あんたらにこの世の果てまでついて行って、応援するんだからねえ」


 今度は風下からの留美のサービスだ。

「1-5」

 と正審がコールした。

 手に握った白球を睨みつけ、留美は心で叫んだ。

『この一本、取られちまったら、もういよいよ勝ち目はないんだ。そして逆転するには、もう攻めて攻めて攻めまくるしかないんだ』

「さあ来い」

 と声を張り上げ、留美はトスを上げた。白球が太陽に負けないくらい青空に燃えた。

「おりゃあ」

 白球に魂を注ぎ込み、クロスのワイドへサービスを打ち込んだ。

 レシーバーのさくらは、追いつくのがやっとで、ストレートの七菜の方へスライスでぎりぎりリターンした。それを見て、留美は神鷲のごとく前進した。七菜が逆クロスへ高速ロビングで攻めると見せかけて、ミドルへ力の限り打ち込んだ。さくらがそれも懸命に走ってバックのロビングで七菜の前へつなぐ。逃がすものかと留美が羽ばたいた。フォアに回り込みながらクロスステップで下がった。風に乗って伸びる白球を、怒れる眼でとらえ、右足を思いっきり蹴って跳んだ。少しでも緩い球を打てば、みゆきにボレーされてしまうだろう。あきらめられない夢がそこに輝いていた。

「おりゃあああ」

 命を全部吐き出すようにスマッシュをフルスイングした。

 県予選で負けることが許されない東青山学園レギュラーのみゆきも、「おりゃあ」

 と大声でラケットを突き出した。全国制覇が目標の全日本強化メンバーにとって、全国大会に出場することは絶対の義務なのだ。ここで負ければすべてが奪われるのだ。一瞬の閃光へとみゆきは手足を伸ばしてラケットの面をぶつけていた。留美のスマッシュボールは、みゆきのラケットのフレームに当たって返り、ふらふらクロスへ飛んだ。それを死に物狂いで追いかけた七菜が「うおお、うおお」と歓喜の声を上げた。みゆきのフォローボレーは、追い風に流されてサイドアウトしたのだ。留美の気迫が、ほんの数センチ上回ったのだ。

 留美は天高く万歳して叫んでいた。

「よっしゃあ。テニスの神さま、ありがとうよお」

 ベンチの俊も応援の皆も、同じように万歳している。

 七菜が留美に駆け寄って、手を取り合った。

「留美先輩、ナイスサーブに、ナイススマッシュです」

「まだまだこれからだよ。もう一本も負けるわけにはいかねえんだ。もう一本だけ、挽回だよ」

 目と目で燃える思いを確認し合い、それぞれのポジションへ歩いた。

 紅玉高校の応援のみんなも「もう一本だけ」と魂の叫びを発している。

 留美が逆クロスでサービスの構えをすると、正審が「2-5」とコールする。一本一本が、人生を左右するほど重い。

『ここで散ってしまうのと、高校でも全国大会選手になるのとでは、あたいの人生、きっと違うものになるんだ。絶対負けるもんか』

 そう心を震撼させながら、留美はトスを上げた。

「おりゃあ」

 と叫び、逆クロスのワイドへ、スマッシュのようなファーストサービスを叩き込んだ。わずかに右にそれてフォルトした。

『我慢、我慢、どんなレシーブが来ても、走って攻め返してやる』

 と心に言い聞かせ、確実にセカンドサービスを入れた。

 みゆきのフォアレシーブのバックスイングの面が一瞬上を向いた。

『カットショートだ』

 と胸が騒ぎ、留美は前へ動き、さらにダッシュの体勢を取った。

 みゆきは、後衛の七菜を前へ出そうと、ストレートへプッシュのショートレシーブで攻めてきた。七菜もそれを想定していて、短距離アスリートのスタートダッシュのように、前傾姿勢で尻の筋力を噴き出し、かかとを着けずに突進した。できれば前衛アタックでポイントしたかった。だけどみゆきのドロップショットは絶妙で、人工芝すれすれでひろうことしかできず、七菜はクロスへロビングでつなぐしかなかった。下がる余裕はなく、七菜はセンターラインへ走ってボレーの構えをした。留美はベースラインの後ろで構えた。さくらが前へ踏み込み「よっしゃああ」と悦び勇みながら伝家の宝刀を抜いた。七色の虹を描くようなレインボーロブが、背の低い七菜のラケットの上をあっという間に突き抜けた。韋駄天留美でもあまりにも速く遠いボールだ。「うおおお」とうなりながら留美は走った。ジュニアで陸上をやっていた経験を活かし、前傾姿勢で点火されたロケットのように大地を蹴った。さくら会心のロビングはクロスのコーナーに突き刺さると、ドライブ回転と追風に乗ってさらに遠く逃げて行く。「届く」「がんばれ」と仲間たちの叫び声が聞こえる。「うおおお」と狂乱しながら留美はグリップをイースタンに持ち替え、白球を睨みつける。壊れて消えてしまいそうな夢を凝視する。死に物狂いで手足を伸ばし、飛びつきながら渾身のスライスでラケットを振る。その勢いで走り転げ、隣のコートの選手と激突して止まった。それでも返って行った白球を目で追い、またも「うおおお」と発狂しながら自分のコートへ駆け戻る。高く舞い上がった白球は風に押し戻され、みゆきの頭上でまだ生きている。七菜がセンターへ下がって、一人でフォローしようとしている。

「メガトーンスマッシュ」

 というみゆきの雄叫びとともに、目にもとまらぬ剛球が逆クロスへ鋭角へ弾けて消えた。

 留美は悪魔に魂を喰われたような顔で、ふらふら隣のコートへ戻り、倒れて苦しんでいる他校の選手に謝った。

「ぶつかってごめんよ。大丈夫かい?」

 腰を押さえて痛がっている選手のペアが、留美の胸を拳で突いて文句を言う。

「わたしらも、全国大会の切符がかかった大事な試合をしてるんだ。あんたのせいで負けちまったら、どうしてくれるの?」

「知ってるよ。あんたらの相手も、東青山なんだろ? あんたらも、負けられないんだろ? 本当にごめんよ」

 留美はひざまずき、頭を下げた。

 七菜も駆け寄って来て、同じようにうずくまり、泣き声をあげた。

「わたしが先輩を走らせてしまったから、わたしが悪いがです。先輩を責めんでください」

「おまえら、試合が終わったら、覚悟しとけよ」

 とペアの娘が啖呵を切るのを、腰を痛めた選手が立ち上がりながら制した。

「よしな。わざとぶつかったわけじゃないんだ。この娘たちも、必死で闘っているんだから・・」

 そう言うと、彼女は留美と七菜に手を差し伸べて続けた。

「だいたいあんたらこそ、そんな血だらけで、大丈夫なのかい? ケガだらけのあんたらに、そんなふうに謝られちゃ、こっちが悪者になりそうじゃないか。さあ、手を取りな。あの東青山学園のペアに、絶対、負けんなよ」

 手を取った留美と七菜を引き上げて立たせる黒い瞳が笑った。

 留美は涙目で見返し、

「ああ、ああ、ぜってえ負けない。あんたらも、東青山学園にぜってえ負けないでくれ」

「レッツプレイ」

 という正審のコールに、留美と七菜は自分たちのコートへ戻った。

 次はさくらのサービスで、レシーバーは七菜だ。

 恐怖で留美と七菜は震えながら互いを見た。瞳の奥の熱い炎を捜しても、涙に曇っている。

「この一本だけ。この一本だけ挽回」

 と仲間の叫び声が聞こえる。

「ネバー、ネバー、ネバーギブアップ」

 とアンの声が聞こえる。

「これが人生最後の一球、と心に念じて、一球一球、ボールを打つことを、思い出してえ」

 と叫ぶ由由の声が胸に響く。

「うちら、どんな困難も乗り越えてきたとばい。だから絶対大丈夫とばい」

 と明美も叫んでいる。

「最後の最後まで、一生後悔しない一球一球を打つんだよ」

 と夢香のかすれた絶叫が胸に突き刺さる。

 審判の声が死刑宣告のように響いた。

「6-2」

『あと一本取られたら、本当に終わりだ。何もかも・・』

 と留美の心が悲鳴をあげる。その恐怖を振り払うように留美は吼えた。

「ちくしょう、負けるもんかあ」

「負けるもんかあ」

 と七菜も涙を拭いて絶叫しながら、サーバーのさくらと、ネットに立ちはだかるみゆきを、交互に睨んだ。

『ファイナルゲームの一本目、伊藤さんはファーストサーブをわたしの正面に入れたがよ。でも、ここはマッチポイントだから、クロスへエースを狙ってくる確率も高い。逆にミドルへ入れて、みゆきを動かすかもしれない・・」

 と心臓の鼓動が乱打する緊張の中、七菜は考えた。大女のみゆきが巨大な壁に見える。

『問題は、みゆきがこの余裕のあるマッチポイントでどう動いてくるがかよ。このゲームの一本目は・・そうだ、わたしが回り込んでレシーブしたら、ポーチに出たんだった。その時わたしがミドルに打ち込んだから、こっちのポイントになったんだ。だとしたら、もうポーチに出てこない確率も高いけど、四本マッチだから、それも分からない。分かることは、もうおそらく、ミドルアタックは通用しないってこと。かといって、ここでロブで逃げたら、もう逆転できない気がするっちゃ・・逆転の可能性があるとしたら・・ああ、神さま・・』

 さくらが放ったファーストサービスは、クロスのワイドに入って風に乗った。

 七菜の足は自然に動いていた。バックスイングした時、みゆきが一歩ポーチに出る動きが見えた。サイドパスを誘っているのかもしれないと、七菜は一瞬感じたが、それでもサイドに振り切って前へフォローに行くことしか考えていなかった。伸びて来る白球だけを見つめた。

「おりゃあ」

 と声を噴き出しながら、七菜はストレートアタックして前へ動いた。

 そこにみゆきはいなかった。みゆきは三段モーションを使いながらミドルとクロスのどちらのレシーブもボレーしようとしていたのだ。

 夢のような爽快なサイドパッシングが抜けていき、七菜と留美は飛び跳ねながら抱き合った。

「ナイスボールだよ、七菜」

「もう一本だけ挽回です」

 嬉し涙をにじませながら言葉を交わす二人を、さくらが鼻で笑った。

「ふん、まだ三本もこっちがマッチポイントを握っているのに、おバカなやつらだわあ。みゆき、次もファーストが入ったら、ポーチに出ていいから、この二人に現実を見せてやりなさい」

「はい、次こそ、ポーチを決めてやります」

 さくらとみゆきは、留美と七菜にわざと聞こえるようにそう言い合ってそれぞれのポジションに着いたのだ。

「面白いじゃねえか。だったらあたいは、レシーブでサイドパスを打ってやるぜ」

 留美もそう相手を挑発しながらレシーブの位置に着く。そして相手を睨みながら考えた。

『ぜってえみゆきはあたいのレシーブ、ストレートロブを狙っている。得意のメガトンスマッシュで試合を終わらせるつもりだ。あたい、もうあんたらにだけは、ぜってえだまされないんだ。だったら、さくらの前へ逆クロスのシュートかロブでレシーブするまでだ。いや、だけど、それじゃ、勝てねえ気がする。どうしてだ? 何だかやっぱり、だまされているような? だったら、どうすりゃいい? もうあと一本取られたら、何もかも終わりだと言うのに。絶対有利のみゆきが狙わないボールで、逆転を可能にする勝負球は何だ? ああ、ちくしょう、神よ・・』

「6-3」

 と正審のコールが響いた。

 みゆきが目をギラギラさせてバックボレーの素振りを見せ、逆クロスポーチの脅しをかけている。明らかに、サイドに打たせようと誘っているのだ。

『みゆき、何でわざとそんなことをする? やっぱりあんた・・」

 さくらがトスを上げ、ファーストサービスを丁寧に留美の正面に入れてきた。留美がフォアに回り込んだ時、みゆきはゆっくりサイド側へ動いていた。一転してポーチに出る気などさらさらない様子だ。留美は逆クロスへ体を向け、風で伸びてくる白球を睨んだ。

「おりゃあああ」

 魂の叫びとともに、留美は逆クロスへ打つ構えからストレートへアタックレシーブを打ち込み、前へフォローに走った。そこにみゆきはいなかった。みゆきはさっとポーチに飛び出していたのだ。

 みゆきの動きを見て前へフォローに走っていた七菜が、両手を上げて飛び上がった。

「ナイスレシーブ」

「よっしゃああ」

 留美も万歳し、またも二人抱き合って喜んだ。手を取ってチェンジサイドする時、留美がみゆきに声をかけた。

「みゆきちゃん、ポーチに出ることを教えてくれて、ありがとうよ。あたいも、約束通り、レシーブでサイドパスを打たせてもらって、おかげで大逆転できそうだぜ」

 蒼ざめるみゆきの代わりにさくらが応じた。

「まだまだこっちのマッチポイントなのよ。みゆき、次取られてもまだリードなんだから、もう一本ポーチに出て、今度こそ、トドメを刺しなさい」

「本当にもう一本出てもいいんですね?」

 と確認するみゆきの頬が赤く燃えた。

「もちろんです。追い込まれているあいつらに、三本続けてサイドパスを打つ勇気なんて、ないに決まってますでしょ?」

 さくらは、またも留美と七菜に聞こえるように、そう言ってのけた。

 留美もそう言われちゃ黙っていられない。

「七菜、伝説の大逆転劇を、あたいらでつくるんだよ。次は風上だ。攻めなきゃ負けちゃうよ。ああ言ってくれてるんだから、ありがたく七菜の勇気を見せつけるんだよ」

 四人が位置に着き、正審が「4-6」とコールした。

 サーバーの七菜が、声を上ずらせて留美に確認した。

「ほんとにわたしの勇気を見せていいがですね?」

「それ以外に勝つ術はないんだからね。たとえみゆきにボレーされても、あたいがフォローするから、魂込めて攻めるんだよ」

 と留美は、レシーバーのさくらを見つめたまま、背中の七菜に言った。

 それで七菜は心を決めた。普段なら、サイドパスを決めた次の同じコースは、サイドへのロビングで攻める七菜だった。俊コーチに、そう指示されているからだ。だけど留美が「フォローするから攻めろ」と言う時は、『前衛を牽制して後衛を攻めろ』と意味する二人の隠語なのだ。

『この一本だけ取られなきゃ、わたしらは負けないんだ』

 そう心に訴えてトスを上げた。レシーブで攻撃されないように、ミドルへファーストサービスを入れた。

 留美は、さくらがフォアに回り込むとすぐ、スマッシュ狙いで後方へステップした。

『今のあたいにできることは、まず、さくらにレインボーロブを打たせないことだ』

 と留美は考えていた。

 最後の風下レシーブで必殺のレインボーロブで攻めようと思っていたさくらだが、留美が下がってそれを狙っていることを知り、慌てて七菜の前へリターンした。七菜はみゆきへ向けた左足を前へ踏み込んだ。みゆきは一歩サイドへ動き、それから宣言通りクロスポーチに出るモーションを見せた。

「おりゃあああ」

 と叫び、七菜はかまわずクロスへ振り切った。

 そこへみゆきは飛び出してこなかった。みゆきはサイドパスを誘っていたのだ。七菜の打ったボールが追い風に乗ってコーナーへ突き刺さっていく。ミドルへ一歩動いてしまったさくらは、懸命にターンして、カットのロビングで返球するのがやっとだ。留美の頭上に舞った白球が、風に押されて絶好球となった。

「稲妻スマッシュ」

 苦しみから解き放たれるような叫び声をあげ、留美はスマッシュをミドルへ決めた。

「キャー、留美先輩、カッコイイ」

 と叫びながら、七菜が留美に飛びついてきた。

 二人、手を握り合い、焦がれる目で見つめ合い、声をかけ合った。

「まだまだだよ。あと一本、あと一本だけ、挽回だよ。ぜってえ負けねえよ」

「絶対、絶対、負けんがです」

 紅玉高校のみんなも、「もう一本だけ、もう一本だけ挽回」と、狂乱して叫んでいる。

「ここまでです・・」

 とサクラが叫んだ。

「七菜さんは、やっぱりサイドパスを続ける勇気はなかったのですよね? だからもう、これ以上あなたたちにポイントは取れませんわ。ここで終わらせてあげます」

 留美が、七菜の指を握ったまま言い返した。

「何言ってやがる? ポーチに出ると言って、二本抜かれたらもう出れなかったチキン野郎は、みゆきじゃねえかい? あたいらは、勇気を見せる、と言ったんだ。またサイドパスを打つなんて、ひと言も言っちゃいねえぜ」

「レッツプレイ」

 と正審が注意し、七菜がサービスの位置に着いた。

「5-6」

 と正審がコールした。

 七菜のファーストサービスが入れば、留美はここでポーチに出て追いつきたかった。そうすれば、逆転勝利できると感じていた。だけどみゆきの様子が変だ。まだマッチポイントを握っているのに、蒼ざめてうつむいている。

『あいつ、勝負が続けて裏目に出て、落ち込んでやがるのか?』

 と、そんな彼女を見つめながら留美は考えた。

『まさか、みゆきだって、高校全日本の強化選手だ。そんなやわな根性じゃねえ。だとしたら、答えは一つだ・・弱気と見せかけて、あたいに勝負させようとしてやがるんだ。そうだ、うつむいているのが演技だとしたら? あいつ、あせっていやがる。だから、あたいを、チラリとも見ねえ。最後に、自分で決めようとしてやがるんだ』

 七菜はサービスの前に心に誓っていた。

『これがわたしの人生最後のサーブになると思って打つがよ。そして、もう一本だけ、さくら先輩に打ち勝つがよ』

 トスを上げると、白球も青い光に浮きたって「負けない、負けない」と叫んでいた。大声を張り上げ、手首を利かせて逆クロスへファーストサービスをねじ込んだ。

 さっとフォアに回り込んだみゆきの顔が、夜叉の形相に変貌した。

「ぐおおお」

 と、うなり声を発しながら、渾身の力で、みゆきはレシーブをストレートアタックした。

 留美は細かな三段モーションのステップでそれを待っていた。だけど留美の動きが目に入ったみゆきの腕に力が入り、白球は留美の出したラケットの上を通過した。

『アウトだ』

 と留美の心が叫んだ。

 だけど白球は向かい風で失速し、ベースライン付近に落ちた。

「ラッキー」

 と四人全員が手を上げて自分たちのポイントだとアピールした。

「アウト」

 と正審がコールした。

 さくらとみゆきがすぐさま審判台へ駆け寄った。

「入っているでしょう? ボール跡を確認してもらえませんか?」

 とさくらが正審に尋ねた。

 きわどいボールだったので、正審の女子選手が台を降り、ボール跡を確認しに行った。

 留美も七菜も俊も紅玉の仲間たちも織江先生も、両手を合わせて神に祈った。

 下された最終判定は「アウト」だった。

「よっしゃあ」

 と叫ぶ感涙の洪水が紅玉高校の応援から溢れ出た。

「よっしゃあ、わたしら、まだ、生きてるがよ」

 と叫び涙する七菜の手を留美がかたく握った。

「いいかい、七菜、まだまだなんだよ。ここで安心したら、あたいら、また、地獄に堕ちるんだ。流れは、こっちだ。だからこそ、この流れを渡しちまったら、あっという間に勝利の女神はあっちへ行っちまう。だから、次の一本取らなければ、負けちまうんだよ。でも、次の一本さえ、この一本さえ、取られなきゃ、あたいら負けないんだ」

「はい、わたし、次のこの一本に、この命、捧げるがです」

 ついに追いつかれたさくらが、背中に火がついたように叫び出した。

「もう、一本もやりませんからあ。みゆき、あなたのバズーカ並みのサーブで、流れを一気に粉砕しなさい」

 みゆきも遠吠えに応えるように大声を出した。

「わたしのメガトンサーブ、逃げないとケガするからねえ」

 そう言われちゃ、やっぱり留美が黙っちゃいない。

「面白いじゃねえか。だったらあたいにぶつけてみな」

 留美はネットに詰め、センターラインぎりぎりに立って、標的になってみせた。

「デュース」

 と正審が息を呑みながらコールする。

『チャンスだ・・』

 とみゆきはサービスの構えをしながら考えた。

『留美先輩にぶち当てりゃ、こっちの勝ちだけど、どうせ先輩は避けるだろう。でも、七菜は、わたしが先輩狙いのミドルにファーストを叩き込むと思っているはず。だったら、クロスにノータッチエースが狙える』

 みゆきがトスを上げると、留美はゆっくりと左へ避けながら「クロスへ来るよ」と七菜に言った。

『えっ?』

 と思いながらも、みゆきはクロスへサービスを入れた。

 七菜はいち早く右へ動いて、クロスへレシーブした。みゆきのメガトンサーブは風で失速しても重く、七菜のリターンは、やや詰まり気味だった。

「甘いです」

 と七菜に伝えられ、留美はサイドによってボレーの壁を作った。

 みゆきがストレートへロビングを打って、前へ出てくる。七菜はそれを予想していて、飛ぶように走りながら、考えた。

『みゆきはさっき、ポーチに出ずに後衛が打ち負けたことを、少しは気にしているはず』

 七菜はフォアに回り込みながら、ネットに着いて足を止めそうなみゆきを確認した。そして前衛は見ずに、『どうか引っかかってくれ』と念じながら、左足を逆クロスへ踏み込んだ。

「おりゃあ」

 と叫び、七菜は思いっきり体を回転させてストレートに打ち込み、斜め前へフォローに走っていた。

 みゆきは七菜の体が逆クロスを向いたのを確認すると、わずかな隙を見逃すまいと、逆クロスへポーチに飛び出していた。そして取り返しのつかない過ちをしてしまった少女のように悲壮な目で通り過ぎる白球を追った。それをさくらが驚異のダッシュで追ったが、風に押されて逃げて行く白球に一歩及ばなかった。

「やったあ」

 七菜は両手を上げて飛び跳ね、留美と抱き合った。

「まだまだだよ・・」

 留美は七菜を焼き尽くすように見つめて言った。

「昔、誰かが言ってただろ・・百里の半ばは九十九里だって。次、取れなきゃ、またデュースになって、その次取っても勝てねえんだ。いいかい、この世界で勝ち残るのは、チャンスに強い者だけなんだ。でも、相手も死に物狂いだよ。あたいら、それ以上の気持ちで攻めて攻めて攻めまくるしかないんだ。ここは根性なんかじゃ勝てない。それ以上のスーパーウルトラど根性を見せなきゃ勝てねえんだよ。いいかい、ここで安心したら負けだから、あたいら、逆に一本負けていて、この一本取ったら追いつくって思い込んでやろう。もう一本だけ、もう一本だけ挽回、と思ってやろう」

 七菜は純真な目でうなずいた。

「はい。もう一本だけ、もう一本だけ、挽回です、留美先輩、死んでも負けません」

 互いのポジションへと歩く二人に、明美が呼びかけた。

「流れを変えないよ」

 夢香も絶叫した。

「みんなついてるから、絶対負けないよ」

「ここで留美と七菜の最高のプレーをしてえ」

 と由由も叫べば、アンも泣き声を張り上げる。

「セイズ・ザ・ドリーム」

 佐子は両手で金網を揺らしながら、訴える。

「留美先輩、今です。今こそ、わたしの仇を討ってくだされえ」

 輝羅も金網に額を打ちつけながら、

「留美姉御、七菜、この一本だけ、この一本だけ、奪い取ってえ」

 普段は貝のように無口な真由も、他の一年生たちと一緒に「キャアアア、キャアアア」と失神寸前で絶叫している。

 涙が止まらない織江先生は、汗だくの両手を合わせて祈っている。

「ああ、神さま、このこたちは、誰よりも努力してきました。わたしが命にかけて保証します。だから、この一本だけ、この一本だけ、どうかお願いします。このこたちの夢を、どうか叶えて下さい。ああ、ああ・・」

「アドバンテージ・レシーバー」

 とコールする正審の声も震えている。

「わたしら、東青山学園のレギュラーで、全日本の強化選手が、こんなところで負けるわけにはいかないのよ。みゆき、分かっているわね?」

 と叫ぶさくらの声も震えている。

 みゆきはもう言葉も出ず、体を震わせている。トスを上げ、一発逆転のサービスエースをミドルへ狙った。副審の手が上がり、正審が「フォルト」とコールした。

「レシーブだけです」

 と七菜が叫ぶ。

「一本だけ挽回」

 と留美が吼える。

 みゆきが恐る恐るセカンドサービスを入れた。留美は大声を発しながら逆クロスへフォアレシーブを打ち込み、ネットへダッシュした。矢のようなレシーブにみゆきは顔をゆがめ、「ううっ」と呻きながらバックで何とか打ち返す。ガチガチにサイドを守りながら前進して来るみゆきを牽制し、七菜はチャンスを逃がすものかとミドルへ打ち込んだ。さくらもそれを読んでいて、軽やかなフットワークで追いつき、バックのロビングで七菜の前へ高く返球した。留美がそれを追った。スマッシュに下がるスピードだけは世界ナンバーワンを目指してスマッシュダッシュを繰り返してきた留美だった。青空に輝く白球が、ここまで届けと呼びかけていた。それは遠い遠い遥かな夢だ。留美にはどうしてもそこへたどり着かなきゃいけない理由があった。どこまでも逃げて行くそれを、歯を食いしばって睨み、猛然と追いかけた。そして天空へ大きく飛び上がった。ありったけの声と目力でそれを捕らえ、全身全霊でスマッシュした。サービスラインまで下がったみゆきが、細い目を地獄を見るようにグワッと見開き、たぎる熱湯を浴びせられたような悲鳴とともに、その白球をバックボレーで逆クロスへブロックした。七菜がすぐさまフォローに走った。逃げて行く白球は、七菜の生命そのものだった。夢を追いかける人生が、今の七菜の姿だ。追いかけて、追いかけて、足を止めた時、白球も止まった。「おりゃあ」と叫びながら、七菜がバックハンドでストレートへ打ち込むと、さくらもストレートへ打ち返してくる。重いボールだが、風上の七菜は打ち負ける気がしなかった。みゆきはガチガチに守りに入ってもうポーチに出れないだろう、と七菜は感じていた。素早くフォアに回り込み、逆クロスへアタックするぞと、左足で牽制して、ミドルへ打ち込んだ。一球一球、「おりゃあ」と魂の叫びを発して七菜は打ち込んだ。留美はさくら得意のロビングを狙ってたが、さくらにもそれが分かっていた。だから我慢してストレートで打ち合い、チャンスボールが来た時、留美の逆を突いて、ミドルシュートで攻めた。留美は手足をいっぱいに伸ばして、バックボレーで何とかつないだ。それをさくらはまたストレートへ打ち込む。七菜はフォアでもバックでも、相手前衛を牽制しながら、ひたすらストレートへ打ち込み続けた。ボールを打つ時、何かが憑依したように体が前へ前へ動いていた。七菜の打ったボールが次に甘くなった時、ついにさくらが「レインボー」と吼えながら、クロスへ高速ロビングを放った。高性能ミサイルが発射されるように。ミドルシュートを打たれている留美は、精いっぱいジャンプするだけで、下がって追うことができなかった。だけどそれも七菜は超人的なスタートを切り、アタックできる態勢で追いついて、クロスへフルスイングで打ち返したのだ。

『それなら続けて走らせてやる』

 と、さくらはストレートへレインボーロブを打とうとした。だけど留美が早めに下がってスマッシュを狙っているのを目にすると、クロスへのロビングでつなぐしか術はなかった。七菜はいったん後ろへ下がり、それから前へ踏み込んで、やはりアタックするぞと脅しをかけ、クロスへトップシュートを打ち込んだ。留美はここぞとばかり、後衛前へのロビングを狙って下がりかけたが、さくらは強気のクロスシュートで撥ね返してくる。

「おりゃあ」

「おりゃあ」

 と、死に物狂いの絶叫が、息を呑んで見つめる観戦者たちの胸に響く。

「おりゃあ」

「おりゃあ」

 と、ほとばしる絶叫のしぶきが、祈る者たちの胸を揺さぶって焦がす。

 もう何本続いたのか分からない。それでも疲れを感じるほど四人とも尋常ではない。そしてついに留美がクロスポーチに飛び出した時、運命の針が大きく動いた。そろそろレインボーロブで仕留めたいと考えていたさくらには、留美のその動きがはっきりと分かったのだ。だからロビングではなく、とっさにサイドパスに切り替えた。

「よっしゃあ」

 と喜びの声を吐き出しながら、さくらはがら空きのストレートへ打ち込んだ。

「取るうー」

 と叫びながら、血走った目で遠い白球を睨み、七菜は走った。

 この一本、この一本を走って返すために、今まで数千回もの十二メートルダッシュを繰り返してきたのだ。今、ここで、走らなければ、七菜たちに明日などないのだ。届かないと感じ、グリップを長めのイースタンに持ち替えた。風に押させて少し失速した白球へ、バックのスライスをぶつけながら、七菜は捨て身で飛び込んで回転した。「うおお」と叫びながら左肩から人工芝に落ち、滑りながらくるりと一回転するや、すぐに肩を怒らせ立ち上がり、右へ動いた。奇跡的に返球された白球は、追風に乗って大空へ舞い上がっていた。

 さくらのサイドパッシングが決まったと思ってガッツポーズしていたみゆきが、慌てて後ろへ下がった。

『さくら先輩が必死で作ってくれたこのチャンスボール、決めんかったら死んだ方がましだ』

 そう心を震わせ、みゆきはサービスラインとベースラインの間まで下がって、ラケットを振り上げた。

「メガトーンスマッシュ」

 と叫び、みゆきは空いたクロスへ火の出るようなスマッシュを打ち込んだ。

 その時、留美はサービスラインの少し後ろまでフォローに下がっていた。そしてみゆきのスマッシュの一瞬前に、クロスのスペースへさっと動いていた。

『七菜がスーパーフォローでつないでくれた、この一球。今度は、あたいの番だ・・』

 と留美は心で吼えていた。

『今こそ、稲妻留美の、稲妻フォローを見せてやる』

 みゆきの爆発的なスマッシュの一瞬の煌めきと同時に、留美は「サンダーフラッシュ」と絶叫し、右へ走りながら、フォアのノーバウンドストロークを振りだしていた。留美の太陽のように見開いた狂気の瞳が、普段は見えないはずの剛球を一閃で捉えた。振り切るラケットのストリングに白球が食い込む重すぎる感触を、留美の心臓が破裂しそうなくらい熱く受け止めていた。剛と剛が激突するカウンターが、恐ろしいほど爽快な音をたてると、留美のフォローが相手コートのコーナーへ刺さり、稲妻のように突き抜けた。さくらもみゆきも、一歩も動けなかった。その残酷なまでの壮絶さに、二人とも斬首された戦士のように膝から崩れ落ちた。留美はコートの外まで走り抜けて止まった。そしてベンチに銅像のように固まっている俊を見た。俊の後ろのフェンスの向うで、仲間たちが「キャアキャア」狂ったように叫びながら飛び跳ねている。留美は、自分が試合に勝ち、全国大会の切符を手にしたことに、まだ気づいていなかった。ただ自分の渾身のベストプレーを、俊や仲間たちに褒めて欲しかったし、喜んでもらいたかった。だから皆が狂喜乱舞している姿が嬉しくて、両手を上げて万歳した。そこへ七菜が号泣しながら飛びつくように抱きついてきた。

「七菜、どうした? 何でそんなに泣いているんだい? 何が起こったんだい?」

 と聞きながら抱き返す留美の胸の中で、七菜は泣き崩れたまま意識を失っていた。












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