第11話 織姫の大変身

 白鳥織江は長い黒髪が自慢の二十七歳、鼻ぺちゃで目と目が離れているまとまりのない丸顔だ。理科の教師で、生徒たちには「織姫」というあだ名で呼ばれているのだが、その可愛すぎるニックネームの発信源はどうも本人らしい。彼女の最大の関心事は婚活で、何がなんでも二十代でゴールインしたいと思っているが、彼氏もいず、お見合いしても条件のいい相手にはフラれてばかり。だけど自分のことを美人だと思っている織江は、イケメンで高収入の男性しかターゲットにしないのだ。女子ソフトテニス部の顧問をやらされてはいるが、運動音痴の彼女には興味がない。部員たちが練習するテニスコートにはめったに行かないし、土日の練習試合を組んだこともないし、大会でベンチに座っても、興味があるのは他校の独身教師くらいで、『早く負けてわたしを自由にして』と願うばかりで、選手へのアドバイスも上の空だ。

 そんな織江が、ある日、生徒たちのこんな会話を耳にしてしまった。

「ねえ、アン、あんたらの出ているテレビ見たよ。テニス部のコーチって、イケメンじゃん。何してる人なの?」

「さあ、知らないよ。あ、でも、この前、留美のママに言ってたよ・・えっと、確か、三橋商事って、言ってたよ。そうそう、夜まで営業しているって言ってた」

「わあ、一流企業じゃない。何歳なの?」

「それは知ってる。二十三歳よ」

 三橋商事という言葉に織江の胸は震えた・・雨に濡れたハリネズミが身震いして水を吹き飛ばすくらい、音を立てて震えた。その瞬間から、織江は部活思いの顧問に大変身したのだ。

 廊下を歩きながら織江は独り言を言った。

「そういえば、あの男、ちょっといい男だったわ・・美人のわたしにぴったしなくらい。歳も四つしか違わないし、これはきっと、わたしたち、運命の赤い糸で結ばれているんだわ。まあ、どうしましょう、うふふ」

 異様に笑う女を、すれ違う生徒が目を皿にして振り返った。

 その日の終礼が終ると、織江は念入りに化粧をし、赤い軽自動車でテニスコートへ行った。そして増田俊に香水の香りが届く範囲で部員たちを見守るふりをした。俊が上げボールする時には、籠のボールを俊に一個一個手渡した。その時、俊の指にしっかりタッチして、自分の存在をアピールしたのだ。

 休息中、ベンチの隣に座り、俊を喰らうように見つめ、かんじんなことをいきなり聞いた。

「増田コーチは、奥さんはいらっしゃいますの?」

 俊はきつい化粧の香に圧されながら見返した。

「へっ? まさか・・いないですよ」

『やっぱりわたしとこの人、赤い糸で結ばれている・・』

 と織江は確信した。

「コーチは、おモテになられるでしょう?」

 俊はまた首を振りながら、

「学生時代は、いくつかファンクラブがありましたけど、足をケガしてからは、さっぱりモテません」

「じゃあ、今、恋人とかは、います?」

「おいらの恋人? ほら、そこに?」

 と言って、俊は少し離れたベンチを指さした。

 そこでは二年生四人がおしゃべりしていたが、一番手前に座る留美は、三毛猫ラッキーを膝に乗せ、怪しげな織江と俊の会話に研ぎ澄まされた感度で聞き耳を立てていた。

 織江の白い頬が赤くなった。

「まあ、もしかして、うちの生徒と?」

 留美の頬も熱くなった。猫を撫ぜる手に汗がにじんだ。

「生徒? 猫も生徒になれるんですか?」

 なんて俊は聞くのだ。

「えっ? 猫?」

「ラッキー」

 と俊は呼んだ。

 すると痩せた三毛猫は、留美の膝から軽やかに飛んで、地面を十六ビートのファンキーロックのリズムで駆け、俊の膝へと舞い上がった。俊が撫ぜると、嬉しい嬉しいと喉を鳴らした。

「あら、まあ、このこがコーチの恋人なのね? うふふ」

 織江は死刑の求刑から無罪を判決された被告人のように笑う。

「おいら、ラッキーがいなかったら、死んでたよ、きっと」

 俊は両手の指を総動員して猫を撫ぜた。

 織江は目玉を飛び出させる勢いで俊を見た。

「えっ? えっ? どういう意味?」

 織江が両手で俊の手をぎゅっと握って聞くので、ついに留美が腰を上げた。留美はナチュラルウエーブの栗色の髪を逆立て、俊と織江のベンチへ突進した。そしてギリギリ歯軋りするように二人を睨んだ。その留美の目を見て、織江の胸に強敵出現の警報が鳴った。女の直感が『キケン、キケン』と鳴らせたのだ。

 留美が低い声で言う。

「ちょっと、あんたら・・」

 留美の大きな瞳のレーザービームを、織江も百戦錬磨の眼光で撥ね返し、バチバチ散った火花が俊に熱く降りかかった。

 織江は汗をかいたような少し高い声で聞いた。

「何かしら?」

 火花はなおも勢いを増し、押されたり押し返したり、その火の粉に危険を察したラッキーが尻尾を巻いて逃げ出した。

 留美は怖いくらい低い声で言った。

「休憩が長いんだよ。俊コーチ、早く次の練習メニューを言いな」


 婚活こそが今の人生最大のテーマである織江は、それから毎日部活に来るようになった。朝練も夕練も、土日祝日もだ。驚くことに、コートに机と椅子も持って来て、採点などの教師の業務もコートでこなした。料理が得意な織江は、土日には必ず二人分の弁当を作って来た。もちろん、俊と二人で昼休みに食べるためだ。中牟田市運動公園のベンチや、織江の車の中へ俊を誘い、手製のランチで俊のハートをつかもうとがんばったのだ。だけど、練習後に食事や映画などに誘っても、俊は決して応じようとしなかった。「仕事があるから」といつも断られた。実際、俊は叔父のカラオケ店の夜のパートを任されていたのだが、織江は『三橋商事は、夜の接待とかで大変忙しいんだろう』と思っていた。

 冬のある日曜日、昼休みに入った時、織江がトイレに言った隙に、留美が俊の腕を取った。

「話があるんだ。ちょっと来な」

「へっ?」

「ぐずぐずしないで、早く来なよ」

 俊の腕を引いて、留美はコートの外へぐいぐい連れて行く。

 なぜ留美の顔は怒った相なのか、分からないまま俊はついて行った。

 自宅まで歩き、留美は鍵を開けた。すると三毛猫ラッキーが「ミャアミャア」出迎えた。日曜でも、ラッキー以外誰もいないらしい。俊を入れると、留美はロックした。そしてダイニングキッチンへ招き入れると、俊を椅子に座らせ、玉葱や人参、ピーマンをまな板に載せ、恐ろしく不器用に切るのだ。

「話って、何だい?」

 と俊が尋ねると、玉葱が目に沁みたのか、涙をぬぐいながら留美は聞き返す。

「俊コーチ、あんた、織姫と、結婚、する気なのかい?」

「へっ? まさか」

「結婚する気、ほんの少しもないんだね?」

「微塵もないよ」

 俊は膝に乗ってきたラッキーを撫ぜながら首を振った。

 留美はフライパンを火にかけた。

「だったらさあ、もう、織姫の弁当、食べるの、よしなよ」

「せっかく、作って来てくれているのに、食べなきゃ、申し訳ないよ」

 留美はフライパンに油も引かずに豚肉のこま切れと野菜をぶち込み、近くにあった砂糖を塩と間違えて入れた。

「ばかだね、織姫の一番の関心事は、婚活、なんだよ。練習に顔を見せなかった織姫が、何で毎日来るようになったのか、分かんねえのかい? あんたと、結婚するためだよ。だから、あいつの弁当を食べるってことは、あいつとの結婚を認めるってことなんだ」

「へっ? そうなの?」

「ちぇっ、だいたいあんた、女心に、ニブすぎるんだよ」

「猫の気持ちなら、分かるんだけどね」

 ラッキーは俊に額や耳を撫ぜられ、グールグール喉を鳴らし始めた。

 肉も野菜も砂糖も焦げてしまった後、留美は酢と味噌と醤油とソースを入れ、さらに強火で焦がした。皿に盛り、ご飯と即席味噌汁と一緒にテーブルに出した。

「だからさあ、これから、土日は、あたいがあんたに料理を作るからさ、織姫の弁当は、もう、食べちゃいけないよ」

「これは、何という料理?」

 食べる前に俊は、向かいに座った留美に聞いてみた。

「酢豚だよ。あんた、中華料理が好きだって、いつか織姫に話していただろ? さあ、食べなよ」

 留美の『食べなきゃ殺す』というような目に圧され、俊は黒い物体を口に入れてみた。予想を超絶した苦みと甘さと酸っぱささの不調和が舌に炸裂した。反射的に吐き出そうとしたが、眼前の大きな目がそれを許さない。急いでご飯を口に入れ、味噌汁と一緒に飲み込んだ。

「どう? おいしい?」

 と留美は無邪気に聞く。

「涙が出るくらい」

 と俊は涙を拭きながら答えた。

「ほんとに? いっぱい食べてね」

 留美は嬉しそうに笑った。だけど蒼ざめて首を振る俊を見ると、首を傾げ、自分も酢豚を食べてみた。ひと噛みした瞬間、舌を破壊しそうな焦げ酢豚を俊の顔へ吐き出していた。


 余りの肉と野菜を俊が炒めて、二人で食べ、コートに戻った。

 果たして、織江先生の大目玉が彼らを待っていた。

「相談を受けてもらってたんだ」

 と留美が不穏な目つきで言い訳すると、織江は引っ叩きそうな勢いでまくしたてた。

「んまあ、んまあ、小娘のくせに、わたしをごまかせるとでも思っているの? 坂東さん、あなたが増田コーチに色目を使っていることは、このわたし、ざっくりお見通しですからね。だけど、コーチを誘惑したりしたら、このわたしが許しませんからね。選手とコーチの交際はご法度ですのよ。つまり、あなたがコーチを好きになることは絶対禁止なの。分かった?」

 留美は頬から湯気を出しながら言い返した。

「あたいが、こんなやつ、好きになるわけないだろ?」

 織江は眉をひそめ、

「本当に、好きじゃないの?」

「ああ、ほら吹き俊なんか、好きじゃないよ」

「絶対に?」

 織江は留美の魂を喰らうような怖さで見つめる。

 留美は目をそらさぬまま、話をそらした。

「あたいはね、何を隠そう、織姫のことを相談していたんだ」

「ん? どういうこと?」

 織江の剥き出しの目が細くなった。

 留美は女教師を呑み込むように目を見開いた。

「俊コーチに、聞いたんだ・・織姫と、結婚する気はあるかって」

「まあ、何でそんなこと、あんたが聞くの?」

「だって、織姫、婚活のためにここに来てるんだろ? でもよ、俊は、織姫と結婚する気なんて、ミジンコもないんだってさ」

「それを言うなら、微塵もないだよ」

 と俊がツッコミを入れると、留美は彼を指さして続けた。

「そう、それだよ。だから、あたい、こいつに、それならもう、織姫の弁当は、食べちゃダメって、言ってやったんだ。だって、結婚する気もないのに、婚活目的の弁当を食べ続けるなんて、織姫が傷つくじゃないか。それって、結婚詐欺みたいなものじゃないか。だから・・」

「きゃあああ、きゃあああ」

 突然、織江が両手を肩の横で震わせ、鼓膜を刺すような奇声をあげた。そしてその声に言葉を奪われた留美を指さし、金切り声で言った。

「あなた、生徒のくせに、先生に何言ってんのよ。余計なお世話よ。男心は秋の空のように変わるものだから、俊コーチだって、いつかきっと、わたしと結婚したくなるに決まってるのよ。それなのに、わたしの愛情弁当を食べるな、ですってえ? これはもう、威力業務妨害、犯罪ですのよ。でもね、愛というものは、障害が大きいほど強くなっていくものなんですよ。だから、わたしたちの愛は、誰の妨害にも決して壊されないんですからね」

 留美は俊を見て、瞳で何かを訴えた。なのに俊は何も言わないのだった。


 雪が解け、ヒバリが天高く鳴き出す頃には、日々の熱い練習の中、織江も俊や部員たちと一緒に日本一を夢見るようになっていた。そしてそれが一日一日共に努力して成長する推進力となり、【生きる】原動力になっていた。

 春休みが始まった日、練習が終わり、織江はアン西田に誘われた。

「織姫、アンたち、これから、カラオケに行くんだ。織姫もツゲザーしようよ」

「あら、わたしを誘ってくれるのね。でも、わたし、歌には興味ないのよ」

 と織江は断った。

「俊コーチもいるのになあ」

 と残念そうに言って背を向けたアンの前へ、織江は獲物を見つけたツバメのようにあっという間に飛び込み、香水弾ける笑顔で言う。

「でも、わたし、『下町の歌姫』って呼ばれていましたのよ。どこのカラオケ店に行くの?」

 一時間後、お見合い用のドレスに着替え、完全無欠に化粧をして、織江はカラオケ店【蘭蘭】へ行った。そして受付の青年と目が合った時、びっくりしてバッグを床に落としたのだ。

「ど、ど、どうして、ここに?」

 織江の目の前にいる店員は、増田俊に違いなかった。

「へっ? ここは、おいらの伯父さんの店だから、おいら、毎晩、ここを手伝っているんです」

 織江は亡霊を見るような顔だった。

「毎晩って、三橋商事のお仕事で、忙しいんじゃないですの?」

「へっ? 三橋商事なんて、もう辞めていますよ」 

 織江はカチカチに固まった後、ひび割れ、粉々に崩れ落ちそうだった。

「だったら、増田コーチは、三橋商事の商社マンじゃなくて、ただの、こんなちっぽけなお店の、店員、ですの?」

「おいら、しがないカラオケ店員さ。へっ? 白鳥先生、どうしたんです?」

 真っ青になって倒れてしまった織江を見て、俊はカウンターを出て介抱した。

 やがて織江は意識を戻すと、俊の腕を振り払って立ち上がり、

「この結婚詐欺師が・・訴えてやる」

 とひと言吐き捨て、背を向けたのだ。怒りで鳴らしたハイヒールのかかとが折れ、脱いだ靴を俊に投げつけて店を出て行った。












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