第9話 どうしておまえはおいらたちを温め続けるんだい?
翌日の朝、天宝川のテトラポットに一人座り、俊は水の流れを見ていた。いかにも寝不足の血走った目に、幾千万のさざ波の唄が映っていた。上流から吹いて来る風は忍び寄る冬の匂いを漂わせ、身も心も凍えさせた。
「おいら、生きていてもいいんだろうか?」
と彼は深く冷たい水流に問う。
「おめえが生きていたら、あの娘たちがテニスできなくなるんだぜ・・」
と川は悲しくつぶやいた。
「じゃあ、やっぱり、おいら、サヨナラするしかないんだね?」
「あのバカ者たちとも、理不尽な世の中とも、サヨナラできて、せいせいするだろう?」
と川は問い返した。
「おいら、どうせひとりぼっちだったんだもん。また、元に戻るだけさ。でも、どうしてこんなに胸が痛いんだろう?」
「どうせおめえはひとりぼっちさ・・」
川もひとりぼっちで、涙のように流れていた。
雲は南東へ追われ、晩秋の青空が広がり始めていた。だけどどんな美しい空も、俊の心には真っ黒に見えた。
「おいら、青空なんか嫌いだ」
虚しい声が遙かな空へ呑み込まれていった。
「おいら、青空なんか・・」
もう一度つぶやいた時、雲の隙間から、まぶしい朝陽が顔を出した。
太陽もひとりぼっちだった。なのに凍りつきそうな俊を、ばかみたいに温めた。
「おまえは、こんなおいらも、温めてくれるのかい?」
と俊は朝陽に問いかけた。
涙が虹色に滲んだ。
「そして今、おまえは、あの娘たちも温めているのかい?」
と彼は付け加えた。
朝陽は黙って彼を照らすばかりだ。
俊は朝陽に尋ねずにはいられなかった。
「ちぇっ、ちぇっ、どうしておまえは、ばかみたいにおいらやあの娘たちを照らし続けるんだい? そんなことしても、おまえには何にもいいことなんかないだろうに。おいらや、あの娘たちが、おまえに何かをしてくれることもないじゃないか。なのにどうして、おまえは、おいらやあの娘たちを、ばかみたいに温め続けるんだい?」
朝陽は何も答えず、やはり、壊れそうな俊をばかみたいに照らすばかりだった。幾千万のさざ波の乱反射が、しだいに青を濃くしていった。
もう一日だけ、いや、もう半日だけ生きてみよう・・
そう俊は決心した。
『留美の退学だけは、何としても阻止しなくちゃ。どうせいらないこの命、全部差し出しても、おいらにもう一度熱い気持ちを与えてくれた彼女に、テニスを続けさせなくっちゃ・・』
その日の夕方、重い足を引きずって、俊は市営コートへ歩いた。
選手たちは昨日より早くコートに来ていて、ロブの乱打を始めていた。三毛猫ラッキーもコートに来ていて、いつでも獲物に襲いかかる体勢でボールに目を光らせている。俊がコートに入ると、皆が彼の周りに集合し、ついでに三毛猫ラッキーも彼の肩へ駆け上った。
俊は選手たちの緊迫した目を一人一人覗きながら語った。
「おいらたち、昨日、人生最後の練習だと思って、一生懸命練習したよね? 今日だってそうさ。おいらたちにはまた、今日という人生が、今、ここに、あるんだ。おいらたち、今日も、人生最後の練習だと覚悟して、一球一球、これが人生最後の一球だと決意して、命燃やして練習しよう」
青い目のアンが首を傾げて言う。
「何言ってんのか意味不明だけど、臭い言葉を並べてるっていうのは分かるわ」
「臭いの?」
と由由が聞くので、アンは指で鼻をつまんで、
「鼻がもげそうなくらいよ」
「わあ、大変」
由由も両手で鼻を押さえた。
留美が笑顔をこわばらせて聞く。
「臭いのは分かったけど、今日も人生最後だと思って、力の限りボールを打てばいいんだね?」
陽が落ちる前に、後衛はサーブからの乱打をAコートで行った。Bコートでは、壊れているネットの中央を棒で支え、俊の上げボールで前衛のボレーやスマッシュ練習をやった。留美の目の色を変え大声を出してボールを打つ凄まじさに触発され、皆も声を張り上げて懸命に駆け回った。俊も一球一球声を出し、心を込めて球出しをした。
「人生最後の一球だあ」
と由由はボールを打つたびに叫んだ。
「ゆーゆは、人生がたくさんあって、幸せね」
と夢香が声をかけると、由由は皆の疲れも吹き飛ばす笑顔で、「うふっ」と笑い声をもらした。
それでもやっぱり、照明を点けて打ち込みを始めた頃、今日も黒の高級外車に続いて赤の軽自動車がやって来た。冥界から忍び寄る死神のように。大義名分を抱えて問答無用で落ちて来るミサイルのように。
黒の外車からは校長と教頭が、赤の軽自動車からは女子ソフトテニス部顧問の白鳥織江が、魔王のような絶対的な威厳を身にまとい、コートに入って来た。
娘たちは練習を中断し、俊の後ろに集まった。震える手と手を自然と取り合い、ちっぽけな心と心を一つにして、決して折れない強い心で対峙しようとした。
最初に口を開いたのは熊のような大男の宝田教頭だ。俊と生徒たちを尊大に睨み、威圧的な口調で言う。
「分かっていると思うけど、職員会議で決定した処分を言い渡しに来た。まず、坂東留美、今回、暴走族騒ぎの発端を作ったこと、勝手に練習に不審者を招き入れたこと、そしてわれわれ教師に対して反抗的な態度を取り続けていること、これらは学校の秩序を乱すと考えられるので、退学の意見も出た。だけど、態度を改め、今後一切、このような不審者は排除するという条件で、一ヶ月の奉仕活動だけで済ませることにする」
宝田は、不審者と言うたびに俊を指さした。暗い汗をにじませて睨む生徒たちを前に、宝田は続けた。
「次に女子ソフトテニス部への処分を言い渡す。同様の理由で廃部の意見も出ているが、今回は、キャプテンの坂東が奉仕活動を全うしきちんと更生するまで、無期限の部活停止とする」
猛獣に追い詰められた子鼠のように、部員たちは身震いし、蒼ざめ、涙ぐんだ。
だけど留美は、相手と同じように腕組みをして、白髪の大男を睨み、怒りに声を震わせて言い返したのだ。
「それであたいらをうまく管理しようとしているのかい?」
顧問の織江先生が注意する。
「坂東さん、何てこと言うんです? 本当に退学になりますよ」
留美は目を大きくこじ開けるように大人たちを見た。
「退学にしたけりゃ、すればいいさ。どうせあたいは、中学の時、東青山学園中等部を退学になっているし、一回も二回も、変わりはないよ。その代わり、あんたたちも、クビを覚悟することだね。昨日、ママと話したんだ。いざというときゃ、裁判でも、何でも、してくれるって。あんたらみんな、訴えてやる」
「んまあ、んまあ、この娘ときたら、もう堪忍袋の緒が切れましたわ。校長先生、やっぱりきちんと退学と廃部にしてください」
そう織江がわめいた時、エンジンの音が聞こえて来て、コートの横に二台のミニバンが停まったのだ。
一台からはテレビカメラや照明などを抱えた男たちが降り、もう一台からは留美の母の坂東敦子と、留美の姉の坂東由紀、有名キャスターの三田喜久雄、アナウンサーの吉田アリス、白髪の小柄な男性、そして最後に紅玉高校ソフトテニス部女子マネージャーの仁科明美が降りて来るじゃない。やがて彼ら六人にライトが当てられ、「はい、本番生中継、ゴー」の号令でカメラが回されたのだ。
「こんばんは、夕刊バラエティ、今宵のスポーツ特集は、われらが陸上クイーン、坂東敦子の娘さん、陸上日本代表の坂東由紀さーん・・」
と三田喜久雄がマイク片手に言うと、由紀にライトが当てられた。だけど喜久雄はすぐにマイクを待たないほうの手を、由紀からコート内へと大げさに動かし、こう続けた。
「じゃなくて、その妹の、留美さんでーす」
するとスタッフ数名があっと言う間に入口から入り、コート内であっけにとられている者たちをライトで照らし、数台のテレビカメラを向けたのだ。タレントたちも揚々と入って来る。
「留美さんは、陸上ではなく、ソフトテニスで日々厳しい練習をされているんです」
と喜久雄がマイクにしゃべると、アナウンサーの吉田アリスも手持ちのマイクで引き継いだ。
「そして何と留美さんは、中学の時、団体で日本一になり、個人戦でも全国ベスト8,高校では、個人戦でも日本一を目指して頑張っているんです。今宵は、留美さんのお母さんの坂東敦子さんと、紅玉高校ソフトテニス部女子マネージャーの仁科明美さん、そしてこのテニスコートを管理されている中牟田市体育協会理事長の徳川正隆さんの協力で、ここ中牟田市の市営コートに来ています。坂東敦子さん、留美さんは、どんな娘さんですか?」
そう言って、アリスがマイクを敦子に向けた時には、もう一行は選手たちの横へ来ていた。
敦子は、片手で娘の由紀と留美を続けて指しながら、とびっきりのカメラ目線で語った。
「そうですねえ。由紀が天才型なら、留美は努力型です。根性なら、驚くくらいありますが、高校に入ってからは、なかなか結果が出せず、ずっと落ち込んでいました。だけど本当はとっても明るい娘なんです。最近、やっとその明るさを取り戻しそうなんです。表情に何か光のようなものが感じられるようになったんです。と言うのは、やっと理想のコーチに巡り合えたからなんですよ。ほら、この方が、その増田俊コーチです」
敦子は俊も手で指した。
「留美さん、コーチが見つかってよかったですね。増田コーチって、どんなコーチです?」
と聞いて、アリスはマイクを留美の口元へ差し出した。
留美は目をキョロキョロさせ、いつもより高い声で、
「えっ? これって、今、あたい、テレビに映ってるの?」
「いきなりで、ごめんなさいね。敦子ママとマネージャーの仁科さんに、サプライズで留美さんを紹介したいと言われて、今、これまさに、生放送で映っているんですよ」
とアリスは説明する。
すると留美は両手で奪うようにマイクを取って、正面のカメラへ涙を湛えた目を何かに憑かれたように見開き、訴えかけた。
「増田コーチが、学生で全国トップクラスの選手だった時、あたい、何度も、彼のプレーを見て、憧れていました。コーチは、す、すごい人なんです。あたいらが、暴走族に絡まれた時にも、い、命をかけて、やっつけてくれた。コーチは、あたいらを、日本一にすると言ったから、あたい、どんなきつい練習もやり抜いて、絶対、絶対、日本一になる」
喜久雄が感動の声を上げた。
「うわあ、さすが、坂東敦子さんの娘だ。これからも、われわれ夕刊バラエティは、留美さんの成長を追っかけていいですか?」
「うん、いい」
留美は少しだけ笑みを震わせた。
「な、何を勝手な・・」
と怒りかけた宝田教頭の足を、校長が蹴り、小声で注意した。
「宝田くん、生放送中だよ」
「ぎょ、御意」
と宝田も声を潜めた。
アリスが、留美からマイクを取り戻し、
「増田コーチ、留美さんは、日本一になれますか?」
と聞いて、俊へそれを向けた。
「へっ?」
俊はまごつきながらも、留美の燃える眼差しを受けて、心を熱くした。そして留美を見返しながらうなずいた。
「る、留美は、おいら以上の才能を持っている。お、おいら、留美を必ず日本一にする」
留美の瞳が決壊するのを見て、俊の胸は炎上した。
「うわあ、すごい決意だ」
と言って、喜久雄が拍手をすると、スタッフ一同がすぐに呼応し、それにつられて皆も拍手をした。
アリスが今度は白髪の小柄な男性にインタビューをする。
「中牟田市体育協会理事長の徳川正隆さん、紅玉高校が練習するこの市営コートは、Bコートのネット支柱が壊れて、ネットが張れないと聞きましたが、何かお考えはありますか?」
徳川理事長は、待ってましたと笑顔で答えた。
「もちろん、このようなすばらしい心構えの高校生は、わたくし徳川が支援しますとも。今日、このような連絡をいただき、もうすでに、新しい支柱とネットを注文いたしましたから、今週中には届くでしょう。それから、ラインテープも今週中にキレイに張り替えさせていただきます。さらに、Aコートの後ろに、壁打ち用の壁を、わたくし徳川が設置させていただきます」
そしてアリスはカメラに語った。
「今宵は、中牟田市の市営コートに、紅玉高校の先生方も応援で見えられているようです。それでは、伺ってみましょう・・テニス部の顧問の先生ですか?」
アリスがマイクを向けたのは、白鳥織江だった。
「えっ、あ、はい・・」
織江は、今、まさに自分がテレビに映っていることを思い、頬を熱くしながら、懸命に笑顔を作った。
「お話を伺ってもいいですか?」
とアリスは聞く。
婚活が最大の関心事の織江は、カメラへお茶目にウインクしながら、
「わたし、白鳥織江、二十七歳、独身、得意は料理です」
なんて、甘えた声で言う。
明美がすかさずフォローした。
「こんなかわいい織江先生は、ただいま彼氏募集中でーす」
「やだ、かわいいだなんて・・」
と照れながらも、織江は自慢の長い黒髪を指でさらりとかき上げ、カメラへ流し目を送った。
校長が咳払いしたので、アリスはターゲットを彼に変更した。
「あなたも顧問の先生ですか?」
「わたしは、紅玉高校の校長の三原です」
と校長は白い眉をひくひく上下させながら言った。
吉田アリスは悩殺率99.9パーセントのとっておきの笑顔を彼に向けた。
「これは大変失礼しました。紅玉高校は、とってもいい学校なんですね。校長先生自ら、学外のコートにも足を運ばれて応援なさっているのですね?」
再び咳払いする三原校長に誰もが注目した。小太りで短白髪で丸顔の三原は、カメラを見つめる目を突如細めて、漫画の狸のような可愛い笑顔を作った。そしてユーモラスな身振り手振りで本領発揮、今こそ紅玉高校の宣伝と自らの校長任期延長のために熱弁したのだ。
「おっほん、ソフトテニス部の部員たちが、日本一を目指して日々鍛錬修練切磋琢磨していることは、わが紅玉高校の誇りでもあります。この娘たちの頑張りはまさに最高の人生修行、わたし三原は、海より深い愛情と、山より高い志を持って、わが愛する生徒たちを見守り、支援し続ける所存であります。そして今回、元有名選手の増田殿がコーチに就任されて、わたし三原、感謝の念に堪えません。わたし三原、身を粉にしても誠心誠意、増田コーチとこの選手たちを支援させていただく所存です」
「うわあ、うわあ、紅玉高校の校長先生は、何て情熱的で生徒思いのお人なんでしょう」
と三田喜久雄が感動的に言って拍手をすると、やっぱりすかさずスタッフたちも手を叩く。
昔話の狸のような校長の変貌に、女生徒たちはキョトンとしていたが、自分たちが起死回生を得たことを感じ取ると、キャーキャー飛び跳ねながら拍手した。
「それではCMの後に、留美さんたちの練習を見せてもらいましょう」
と喜久雄はカメラに告げた。
次にカメラが回った時、マネージャーの明美と七人の選手たちはコートの四か所を使って、手あげの打ち込み練習をした。大きなガニ股で股関節を鍛えながら高速で足踏みをし、大声を出してラケットを振り切る。十本連続して打つまでは足を動かし続ける。。十本打ちこんだら、上げボールを交替する。コースも交替しながら、バックハンドストローク、フォアの左右、フォアの前後、さらに十メートル走りながらのフォア・バック、フォア・フォアなどを繰り返した。足腰を鍛える厳しい練習だが、地獄から生還した女子戦士のように誰もが顔を輝かせ、ボールが打てる歓びを一球一球に炸裂させた。信じられないことに、また今日も、明日も、栄光目指して走れるのだ。てっぺん目指してボールを打てるのだ。それがどんなに貴重なことか、それがどんなに幸せなことか、娘たちは今、全身で思い知っていた。
歓喜の呻り上げて白球を打つ留美をカメラが追った。
「うわあ、さすがは陸上クイーン坂東敦子さんの娘、留美さん、こんなすごい足さばき、見たことないぞ」
と喜久雄が褒めると、
アリスも驚きの目を留美に向けて感想を語る。
「足の速さだけではなく、打球も怖いくらい速いです。彼女は(稲妻留美)って呼ばれているそうですが、まさに稲妻のような打球です」
留美が七菜に交替すると、その目にも留まらぬ足さばきに、アリスはさらに目を丸くした。
「あらあ、この娘はちっちゃいのに何と足が速いことでしょう」
とアリスが言うと、横から明美がしゃしゃり出て、マイクに語った。
「この娘は小原七菜、留美とダブルスのペアなんだ。名前が七菜で、風のように速く走るけん、(神風セブン)ってあだ名がついとるとよ」
七菜の打球は正確にベースライン際にバウンドしてフェンスまで伸びていった。
だけどその隣には、、ノーバウンドでフェンスに直撃するボールを連発する者がいた。永松由由だ。「これが人生最後の一球だあ」とか「世界一になるぞー」だとか大声で叫びながら打ち込む由由の白球は、フェンス近くで目を光らせてボールを追い駆け回る三毛猫ラッキーの尻尾をボワッと逆立てるくらい、錆びた金網をグシャングシャン揺るがし続けた。
由由の豪快なショットにカメラが向けられると、喜久雄が早速食いついた。
「な、何だあ、このダイナマイトな打球はあ。まるで大リーガーの弾丸ライナーだあ。当たったら、体に穴が開いてしまうほどのスピードで、しかもコートには全然入らなーい」
またまた明美がカメラの前に顔を出して、由由を紹介する。
「えー、彼女は永松由由、人呼んで(ルンルンゆーゆ)と言うとよ。うちらの中で、とびっきりのおバカさんでーす」
自分の名が呼ばれるのを聞いて、由由は皆の疲れを吹き飛ばす笑顔で「うふっ」と笑った。
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