第8話 これが人生最後の練習
「あんたのせいでこうなったとよ」
と明美が恨めしそうに俊を見て言った。
「うん」
木枯らし舞うコートでうなだれ涙ぐむ娘たちを見ながら俊はうなずいた。
「あんたは疫病神ばい。もう、うちらに関わらんとって。今すぐ出て行ってくれん?」
俊は首を振って言った。
「さあ、みんな、練習の途中だぞ。続きをやろう。昔々、ルターは言った・・明日、世界が終るとしても、今日、わたしはリンゴの木を植えよう、って。おいらたちだって、たとえ明日死ぬと分かっていたとしても、今、てっぺん目指して進み続けよう。それがきっと、生きるということだから」
青い目のアンが泣き声で言う。
「ユー、サック。留美が退学になったらどうするの?」
「そうよ、テニス部だって、廃部になるわ、きっと」
と夢香が蒼ざめて言う。
「ああ、もう何もかも終わりだよ」
と嘆いて、由由がしゃがみ込んで号泣しだした。
むせび泣いている留美の左肩に輝羅が抱きついて、声をかける。
「留美姉御が退学になったら、あたしも学校辞めます」
七菜も留美の右肩にすがりつく。
「留美先輩がいなくなったら、わたし、どうして生きたらいいがか?」
そして娘たちはみんな、留美を囲んで泣き続けるのだ。
「だったらどうする?」
そう俊は皆に呼びかけた。そして自分も泣きたいのをこらえながら懸命に語りかけた。
「今は、泣く時じゃないよ、きっと。泣いていてもどうにもならないよ。今、おいらたち、どうすることができるのか、真剣に考えなくっちゃ。紅玉高校は市立だから、中牟田市役所の前で、おいら、ハンストしてもいいよ。教育委員会に訴えてもいいし、おいらの財産はたいて弁護士に相談してもいい。法廷闘争しても、留美を退学になんかさせないよ。ねえ、おいらたち一人一人、今、何ができるか、考え、実行しなくちゃ。泣くのは、その後だよ。いや、おいらたち、てっぺんを目指す者は、泣くのは勝利した時に取っておこう。勝利というのは、試合に勝つことだけじゃないよ。おいらたち、自分に勝って成長することも勝利だし、手を取り合って戦い抜くことも勝利なんだよ、きっと。前にも言ったけど、青春は本当に短いんだから、くよくよしている暇なんて、おいらたちにはないんだ。そりゃあ、おいらたち、まだまだ未熟だから、何かをすれば、失敗することも多いだろう。でも、失敗してもいい。いや、何も挑戦しないくらいなら、失敗した方がいいのさ。その失敗がまた、おいらたちを成長させてくれるんだから」
明美マネージャーが振り返って、涙をぬぐい、赤い目で俊を睨んだ。
「あんた、何言っとるとか、よう分からんばってん、今、留美が退学にならんように、うちにできることば考えて、実行すればよかち言っとるとやろ?」
「うん、そうだよ」
俊はうなずいた。
「だったら、今、うちにできることは、これだよ」
ふいに明美は俊の胸に頭から体当たりをするじゃない。そして「へっ? へっ?」と首をかしげる男を、相撲のようにがっちりつかんでコート外へと押し出していくのだ。
「あんたが消えなきゃ、留美が退学になっちゃうとよ。今すぐ消えな。永遠に消えな」
「やめな」
留美の叫びが明美の動きを止めた。
留美は自分に抱きついて泣きじゃくる者たちを振り払い、明美へ駆け寄って俊を奪い返した。
「今日が、あたいの高校最後の練習になるかもしれないんだ。だったら、泣いてる暇なんてないんだよね? たとへこれが人生最後の練習だとしても、あたいは後悔しないような練習をするよ。俊コーチ、それが今、あたいにできることなんだよね? それがきっと、生きるってことなんだよね? 何だよ、コーチ、コーチのくせに、何泣いているんだよ?」
「おいら、泣いてなんかいない。留美こそ、涙なんて似合わないよ。さっさと練習しな」
と俊は言って、自分の涙は拭かず、留美の頬をぬぐって笑った。
留美の瞳に強い光が復活した。向かい風を裂くように留美は吼えた。
「さあ、みんな、練習再開だ。あたいら、困難が大きいほど、強くなろうじゃないか。あたいが一人で、ローラーの残りを引いてみせるから、みんなは、高速で足を動かしながらの打ち込みを続けるんだ。大声でボールを打つんだよ。みんなもあたいと同じように、これが人生最後の練習だと思って、吐くまでやらなきゃ、あたいが承知しないからね」
留美が錆びたローラーをうーうー泣き叫びながら引き出すと、他の選手たちも同じような声をあげ、全身全霊で打ち込みを続けた。俊も「もっと高速で足を動かせ」とか「もっと強くボールを叩け」とか声を張り上げた。
「ちぇ、それが今、あんたらにできることなんだね」
そうつぶやいて、明美は一人コートを出た。
帰り道、留美の家を通り過ぎた後、明美は引き返してチャイムを押した。
玄関を開けたのは、陸上の日本代表、留美の姉の由紀だった。
「留美のお母さんにお話が」
と明美は告げた。
「あら、知ってるでしょ? ママなら、今、生放送で『夕刊バラエティ』に出ているのよ。帰るのは、夜遅いのよ」
と由紀は言う。
「あ、そうだった。うち、気が動転して、忘れてた。すみません」
頭を下げて、明美は家路についた。
だけど五分も歩くと、すぐに駆け戻って、もう一度チャイムを鳴らしたのだ。
『今、うちにできることを、うちもやらなくちゃ・・』
そう胸が叫んでいた。
由紀が戸を開けるとすぐ、明美は尋ねた。
「あの、留美のお母さんがいる、その放送局って、どこにあるとですか?」
特急列車で二駅行くと、駅のすぐ近くにそのビルはあった。
明美にはその建物が巨大すぎて、立ち向かう資格さえないような気がした。入り口近くまで進むと、ビルは無慈悲な怪物に見え、足が震え、思わず引き返していた。交差点の赤信号が涙で見えず、危うくクラクションを鳴らす車に撥ねられそうになって、路上にへたり込んだ。
「うちは、どうしたらよかと?」
信号が変わり、人波に流されて駅へと引き返していた。胸の中に、この一年半の部活の思い出が次々湧きあがっていた。坂東留美は一年の初めからおうちゃくだった。いいかげんな練習を繰り返す先輩たちとぶつかり合っていた。そして何度も挫折し、しだいに暗い目をした陰険な性格になっていった。だけど肩の脱臼癖のために大好きなソフトテニスの選手をあきらめてマネージャーになった明美とは、いつも親しくしてくれた。そんな留美が、ラッキーという名の三毛猫を拾って来てから、ここ数日、人が変わったように目を輝かせてテニスをしている。なのに廃部だとか、退学だとか、あまりにむごい仕打ちだ。
『それでも今、あいつら、これが人生最後の練習だと思って、精いっぱいボールを打っとるとやろな。これが人生最後の練習だと思って・・』
「うちも・・」
と、行き交う人々がびっくりするくらいの声を明美は発していた。
「うちも、今日が人生最後だと思って闘わなきゃ」
踵を返して全力で走りだした。少しでも躊躇したら怖くて進めない自分のちっぽけさは分かっている。巨大な龍に槍一本で突撃する女兵士のように、明美はビルへ駆け込んで行った。
すぐに背の高い男に呼び止められた。
明美は涙が止まらなかった。それでも息を切らしながら必死で告げた。
「あ、あの、『夕刊バラエティ』に、出ている、ば、坂東敦子さん、に、敦子さんの娘の留美さんのことで、至急、お会いしたかとです。うちは、留美の友だちの、仁科明美、といいます」
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