第7話 織姫と柔道の達人と古狸の粛清

 もう一日だけ生きてみよう。せめて今日だけ、生きてみよう・・そう俊は思った。

 月曜日の紅玉高校女子ソフトテニス部の練習は、どんよりとした曇り空の下、天宝川の向うから吹いて来る冷たい風の中、午後四時半から始まった。俊に絶縁宣言したマネージャーの仁科明美も市営コートに来た。だけど俊が声をかけても、目も合わせず、近くの部員に「キモい」とつぶやくだけだった。

 照明はあるが、それほど明るくないということなので、ローラーかけやランニングなどのトレーニングは日暮れ後にすることにした。中ロブ練習をアップ代わりにして、サービスからの乱打の後、ノーバウンドストローク、スマッシュ、ボレー練習をやっていった。男子にも負けぬ脚力や腕力を持っている留美は、俊の目にも自分以上の能力を秘めている素材に映った。「サンダーフラッシュ」と叫びながら留美が撃ち込むフォアのノーバウンドストロークは、誰もが目を丸くするほど激烈だった。その留美を「姉御」と慕い、テニスのプレーも留美を真似ている一年生の片山輝羅も、運動能力が高く、非凡な前衛の才能が匂っていた。日本一も夢ではないなと俊は思った。後衛だって、永松由由の脚力とスイングスピードは目を見張るものがあったし、一年生の小原七菜は小柄ながら何をやらせても天才の匂いをぷんぷん漂わせていた。後衛にも前後に動きながらのスマッシュをやらせるのだが、七菜は「神風スマッシュ」と叫びながら、前衛にも劣らぬ前進スマッシュをビュンビュン打ち込んだ。


 だけど今日もまた、新しい事件がやって来たのだ。


 陽が落ちて、壊れかけた照明を点け、錆びて回りにくいローラーかけを交替でやりながら、二人一組で高速で足を動かす手あげの打ち込みを始めた頃、赤と黒の二台の車に乗り、いかめしい紳士づらをして彼らはやって来た。脱獄囚に忍び寄る追手のように。正義の審判を下しに来たオリンポスの神々のように。

 赤の軽自動車からは女が一人、黒の高級外車からは男が二人、コートの出入り口を開け、怪しい目で俊を睨みながら歩いて来た。すると部員たちも皆、俊の後ろへ駆け寄り、ひとかたまりになった。

「織姫がここに来るなんて、めずらしいなあ。しかも、教頭に校長まで連れて来て」

 と留美が言いながら、つっぱりフェイスで大人たちを睨んだ。

 織姫と呼ばれた女性は中肉中背、長い黒髪、目と目がやや離れ鼻も低くまとまりのない丸顔だが、可愛い感じを漂わせている。白いブラウス、ネイビーのジャケット、ベージュのロングスカートを着ていて、歳は二十代後半に見える。

「わたしは、ソフトテニス部女子顧問、白鳥織江といいます」

 と彼女は俊を見つめて自己紹介した。

「へっ? ああ、おいら、増田です、こんにちは」

 と俊も挨拶した。

「今日、わたしどもが来たのは、よからぬ噂を聞いたからですの」

 と織江は説明する。

「へっ?」

「あなた、暴走族と付き合いがあって、この娘たちにイタズラしているチンピラですってね?」

「へっ?」

 アンが面白そうに言う。

「やーい、チンピラ」

「チンピラって何?」

 と由由が聞く。

「アン、知ってるよ。チンピラごぼうのことだよ」

「わあ」

 由由はおかしそうに笑う。

 留美が織江先生に尋ねる。

「どうして織姫がそんなこと知っているのさ?」

 織江は胸を張って答える。

「わたしは、テニス部の顧問ですよ。あなたたちのことは、何でも知っていますとも。この不審者が、あなたたちの着替えを覗き込んだヘンタイ男だってことは、生徒たちの間で、もっぱらの噂じゃないですか」

「やーい、ヘンタイ」

 とアンがまたはやしたてる。

「ヘンタイって何?」

 と由由が聞く。

「アン、知ってるよ。ヘ、ン、タ、イって、仮面ライダーの決め台詞だよ」

 アンは手足をカッコ良く動かしながらそう言う。

「わあ、アンは、何でも知ってるのね」

 と由由は感心する。

 白髪混ざりで、熊のような体格の中年男が、指をポキポキ鳴らしながら言う。

「やい、チンピラのヘンタイ、今すぐ消えないと、きさまの全身の骨をバキバキ折り畳んで、きさまをトランクに詰めて、警察に突き出すぞ」

「この怖い人、誰?」

 と身震いしながら俊は留美に聞いた。

「教頭の宝田、だよ。柔道の達人って噂なんだ」

 と留美は教える。

『おいら、柔道の達人なんて、嫌いだ・・』

 と俊は思いながら、宝田教頭に言い返した。

「お、おいら、何も悪いことなんか、しちゃいないもん」

 すると織江が風に揺れて顔を塞ごうとする長い黒髪を右手でさあっと振り分けて言う。

「言い訳は見苦しいですよ、ヘンタイくん。調べはついているのです。この娘たちの友だちが、あなたのことはちゃんとしゃべってくれました。あなたは、この坂東さんに何度も抱きついて、まだうら若き乙女の胸にその顔をくっつけたそうですね。きゃー、何て、何て嫌らしい、極悪非道なスケベー野郎なんでしょう。たとえこの世が滅んでも、釈明の余地はありません。わたしたちが天に代わって、スケベー野郎を成敗してあげますわ」

「やーい、スケベー野郎」

 と、またまたアンがからかう。

 由由も興味津々で問う。

「スケベー野郎って何?」

「アン、知ってるよ。小さな車輪がついた板に乗って、クルクル走り回る男子のことだよ」

 アンは体をくねくねさせてその動きを表現してみせた。

 織江先生と宝田教頭が牙を剥く鬼の顔で俊へにじり寄定った。

「お、おいら、何も悪いことなんか・・」

 と俊はもう一度言いかけたが、無駄な抵抗だと感じ、教頭に腕をつかまれる前に逃げた。

『今のおいら、しがないフリーターなのさ。正義を掲げるお偉いさんたちと争っても傷つくだけで、ろくなことはない。逃げるが得というものさ・・」

 そう心でつぶやきながら、俊はすたこら逃げたのだ。

 だけど金網フェンスを出ようとした所で、女生徒たちの黄色い声に呼び止められた。

「俊コーチ、どこへ行くのよ?」

「わたしらを置いて、どこへ行くの?」

「あたいらを置いて、行かないでよ」

 俊は立ち止まり、振り返った。

 娘たちがいっせいに呼びかける。

「しゅーん、カムバーック」

 その甲高い声は俊の胸を熱い炎となって突き抜け、コートの外の紅葉した樹々を焼き尽くすようにこだました。

 俊はゆっくり引き返していた。

『ああ、あの娘たちは今、こんなおいらを必要としてくれているんだ・・』

 と彼は思った。

『今、ここでおいらが帰っちゃたら、おいら、この世で一番大切なものを、永遠に失っちまいそうなきがするよ・・」

 俊は風に逆らってふらふら先生たちの前へ戻ると、笑顔をひくひく引き攣らせながら告げた。

「あ、忘れてた。おいら、この娘たちに、テニスを教えてるんだ」

「その必要はない」

 と、氷のように冷たく教頭は言う。

 織江も毅然と俊を睨み、

「誰もあなたなんかにそんなこと頼んでませんし、そんなこと、わたしたちが許しません」

 偉い先生たちの指先で弾かれて壊れて消えたシャボン玉のような気持ちになって、俊はすごすご帰りかけた。

『おいらの前に道はない。道を造る自由もない。おいらの前にあるのは鋼鉄の壁で、ぶつかって行っても、パチン、撥ね返されるだけだよ・・』

 だけど出入り口まで歩いた所で、またも娘たちの大きな声が俊の体を抱き止めたのだ。

「俊コーチ、どこへ行くの?」

「わたしたちにテニスを教えるって約束したじゃない」

「あたいを日本一にしてくれるって言ったじゃない」

「見捨てないでよ」

『ああ、何てことだ。今、おいらが帰っちまったら、この娘たちの日本一への夢は、永久に闇の底へ沈んでしまうよ・・』

 そう心で叫んで俊が振り向くと、娘たちはもう一度いっせいに呼びかけた。

「しゅーん、カムバーック」

『たとえおいらがどうなったとしても、この娘たちの夢だけは失わせるもんか・・」

 俊はまた、夢遊病者のようにふらふら引き返した。教師たちの鬼の目が、彼を呑み込むように睨んだ。それでも彼は涙が零れそうになる目をこじ開けて見返したのだ。

「あ、また、思い出したよ。おいら、この娘たちの夢を叶えるためにここに来たんだった。おいら、この娘たちを、ソフトテニスで日本一にするんだよ」

 織江が怒りで顔を真っ赤にしてぷるぷる震えた。

「まあ、日本一だなんて、そんな非現実な子供だましの言葉で、この純粋な娘たちをたぶらかそうとしているんですね? あなた、何て腹黒いペテン師なの」

 アンがまたまた喜んで俊を指さす。

「やーい、チンピラのヘンタイのスケベーのペテンシ」

 由由がやっぱり食いつく。

「ペテンシって何?」

「アン、知ってるよ。きっと、韓国の天使だよ。ペという名の天使で、ペ・天使だよ」

「わあ、アンは、ほんとに物知りだあ」

 由由に褒められ、アンの青い目がエッヘンと輝いた。

 だけどついに織江先生が注意したのだ。

「ミス・アン西田、あなた、英語はペラペラだけど、日本語知らなすぎますよ。ペテン師というのは、いかさま師ってことなんですよ」

「逆さま師って何?」

 と由由が聞くので、アンはおバカさんねと頭を小突き、

「逆さま師じゃなくて、イカ様氏だよ。きっと、偉いイカのお方だよ」

 なんて言う。

「おいら、いかさま師じゃないもん」

 と俊が否定すると、織江は鼻の先まで真っ赤になってまくしたてる。

「いかさま師は、自分のこと、いかさま師じゃないって言うんだから、やっぱりあなたは正真正銘のいかさま師なのよ。この国の刑法を舐めるんじゃありませんよ。今すぐ出て行かなかったなら、あなたには詐欺罪で刑務所に入ってもらいますわ」

「はあ・・ど、どうも、すいません」

 俊はしょぼしょぼ帰りかけた。飢えに苦しむ甥を救おうとパンを盗んで十九年投獄されたジャン・バルジャンの気持ちが分かった気がした。

『おいら、法律なんて嫌いだ・・』

 だけどまた女生徒たちが、タンポポを食べて恋をしてしまった谷山浩子のように、黄色い声を上げるのだ。

「俊コーチ」

「コーチ、行っちゃイヤ」

「コーチ、キスしてあげるから」

『ああ、何ていじらしい娘たちなんだ・・』

 そう俊の心が叫んでいた。

『死のう。この娘たちの愛や未来のために・・』

 俊は引き返し、大きな顔で睨んでいる教師たちを指さし、大声で宣言した。

「分かったよ。警察でも自衛隊でも、好きに呼びやがれ。おいらは、この娘たちのために、死んでもここを離れないんだから」

 女生徒たちがヒューヒューと発しながら、拍手し、小躍りした。

 織江が両手で髪を搔きむしって悔しがる。

「んまあ、んまあ、この男は、いかさま師のくせに。教頭先生、今すぐ警察、呼んでください」

 仁王のように俊を睨んで、宝田教頭がポケットから携帯電話を出した。

「おうおう、いかさま師よ、お望み通り、通報してやらあ」

 だけど彼の後ろにいた白髪で小太りの男が咳払いして、注意したのだ。

「宝田くん、警察沙汰になると、教育委員会も黙っちゃいないし、わたしが面倒なことになるんだよ。明日、職員会議を開いて、女子テニス部の不祥事に関する処分を決定しましょう」

 宝田教頭はすぐに携帯をしまって振り返り、頭を下げた。

「御意にござります」

 留美が不安げな声を発した。

「女子テニス部の不祥事に関する処分って、何さ?」

 教頭が留美の頭を小突いた。

「やい、おまえ、校長先生にむ向かって何だね、その口の利き方は?」

 小太りの初老の男は、また咳払いし、太い白眉をヒクヒク上下させて注意する。

「宝田くん、いかなる体罰もいけないよ」

 教頭は直立不動でまた、

「御意にござります」

 校長は留美に目をやって彼女の質問に答える。

「問題ばかり起こす女子テニス部を、廃部にする処分ですよ」

 留美の頭に血が昇った。

「はあ? 何だと、この古狸」

 校長はそんな留美を無視し、織江へ目を向けて言う。

「顧問の白鳥先生、いかがでしょう?」

 白鳥織江は、校長に食って掛かりそうな留美の腕をつかんで答えた。

「今の部員たちは、わたしの言うことをちっとも聞きません。土日も休まないし、平日だって遅くまで練習する。まさにブラック部活ですわ。廃部のことは、校長先生にお任せしますわ」

 留美は大きな目を剥き出しにして、織江先生の手を振り払った。

「何だと、織姫、婚活に夢中で、コートにはちっとも来ないくせに。婚活が大事なら、来ないで結構だけどよ、だったら、せめてあたいらのすること、ほっといてくれよ。守ってくれとは言わないからさ。校長も織姫も、体罰より百万倍ひどいこと言ってんのが分からないの?」

 織江先生も、負けずに生徒を見返した。

「何言ってるの? わたしたち教師は、あなたたち生徒を、こんな不審者から、体を張って守り抜く義務がありますのよ。それが教師の責任ですのよ」

「あたいのコーチを、不審者って呼ぶんじゃないよ。そりゃあ、この男、ちょっとチンピラで、ちょっとヘンタイで、ちょっといかさま師かもしれないけど、絶望的なあんたらと違って、あたいに希望を与えてくれるんだ」

 留美の眼力は天敵のヘビから子を守る母リスのように凄まじく、織江はふらついて目をそらした。それでも、管理職の目の前で生徒に負けてはいけないと、どもりながらも言い返した。

「き、希望、なんて、まぼろし、よ」

「それなら、何かい? 織姫が、あたいらを、日本一にしてくれるのかい? さっき責任って言ったけど、あたいらが日本一にならなかったら、織姫が責任取ってくれるのかい?」

「だから、日本一なんて、まぼろし、って言ってるでしょ? 県大会さえ勝ち抜けなかったくせに。だったら、逆に聞きますけど、あなたたちが日本一になれなかったら、この変な男が、責任取れるとでも言うのですか?」

「ちぇ、結果なんて、どうでもいいんだよ。大事なのは、あたいらを日本一の選手に育てようとする本気が、織姫にあるかってことなんだよ。あんた、ソフトテニス部の顧問だろう? 顧問だったら、部員が日本一を望むんだったら、そうなるように尽力してくれてもいいじゃないか?」

 織江はぷるぷる震える手で留美を指さし、校長に訴えた。

「ほらあ、この娘、ちっとも教師の言うことを聞かない。テニス部をブラック部活にしている張本人は、こいつですわ。校長先生、廃部だけではなく、この問題児の処分もお願いします。生徒から聞いた話ですと、凶悪な暴走族がこのテニスコートに来た理由は、この坂東さんが目的だったとのことです。この娘のせいで、紅玉高校はひどい汚名を着せられそうですのよ」

「それも明日の職員会議で決定しましょう」

 と校長は太い白眉をヒクヒクさせながら言うじゃない。

 留美は大きな白い八重歯で唇を強く噛み、涙目で権力者たちを睨むだけだ。

 冷たい風に飛ばされた枯葉が、重苦しいコートに凝固する娘たちの間に舞った。

 俊がひび割れた声を上げた。

「おいらが責任取るから、この娘たちの夢を奪わないでおくれよ。夢を奪われることは、人生を奪われることなんだから」

「おまえなんかが、どう責任を取ろうと言うんだよ?」

 と宝田が叱りつける。

 すると俊は教師たちの前にどっと崩れ落ち、両手と額を冷たい土に着けて叫んだのだ。

「ここには、中学の時に団体全国優勝したメンバーが二人もいるんだよ。その二人は個人戦でも全国ベスト8に入っているんだ。この娘たちは、磨き続ければ高校日本一に輝く原石なんだから。日本一にならんかったら、おいらがこの命で責任取るから、おいらが死んで責任取るから、この娘たちの夢や希望を奪わないでおくれよ」

 織江が両手で長い黒髪を搔き乱しながらわめいた。

「んまあ、んまあ、このいかさま師ときたら、封建時代じゃあるまいし、そんな無責任な責任の取り方、通用するとでも思ってるの? 死ぬというのなら、今すぐ天宝川にでも飛び込んで」

 留美が俊の傍らに跪いて、青年の背に触れた。

「俊コーチ、こいつらにそんなことしても逆効果だよ。こいつら、あたいらのことより、自分たちのことが大事なんだから」

 宝田教頭が怒りの声を上げた。

「何だと、坂東、人聞きの悪いこと言うんじゃないぞ。わしら教師は、朝から晩まで学校のために一生懸命働いているんだ」

 留美が彼を見上げて吼える。

「ほら、正体みせやがった。あたいらのために、じゃなくて、学校のために、なんだ」

「何だと、こいつ、白鳥先生が言う通り、ほんとに問題児だな」

 教頭が拳を上げて威圧しようとすると、校長が眉を動かしながらまた咳払いをした。

「宝田くん、今日はもう行きましょう。テニス部の廃部と、坂東さんの処分については、明日発表しますから」

 校長が背を向けてコートを出て行くと、宝田教頭も「御意にござります」と後に続き、黒い高級車に乗り込んだ。

 管理職が去ると、白鳥織江も「わたしも用事があるから」と告げて、いそいそ去って行った。 













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