第6話 派手過ぎる化粧で笑顔の練習

 セミダブルベッドに横たわる青年の左手の平には包帯が巻かれている。

 坂東留美が電気シェーバーで青年の無精髭を剃っている。

 アン西田の目が青く輝いた。

「俊コーチって、イケメンだったのね。アン、フォールインラブしちゃうわあ」

 留美がアンの脇腹をつつく。

「アンには彼氏がいるじゃない」

 夢香も青年の腕に触れながら髭のなくなった顔に見惚れている。

「わたしも、惚れちゃおうかな」

 それを聞いた留美は頬を赤く膨らませ、近くにあったマジックを手に取って、青年の鼻の下に猫の髭のような線を何本も描くじゃない。

「ほら、こんなやつの、どこがいいのよお?」

 と留美は言いながら、両目の周りも黒い線で囲うのだ。それでも足りず、隣の部屋から姉の口紅を取って来て、高らかに笑いながら青年の両頬に大きな渦巻マークを描いた。ついでに唇が三倍の大きさに見えるよう、唇の上下に紅を塗りまくった。

 悪戯な娘たちが笑い転げていた時、俊は夢を見ていた。

 夢の中で、彼は見覚えのあるカラオケ店にいた。きっと最近アルバイトしている店だ。凶暴なゴリラに首を絞められ、彼は意識が飛びかけていた。傍らを見ると、赤いポロシャツに黒のショートパンツの少女がナイフを振り上げて震えている。ナチュラルウエーブの栗色の髪が乱れて、少女の顔を隠している。

「女の子がナイフなんか持っちゃ、いけないよ」

 と俊は呼びかけていた。

「あたい、あんたを知ってるよ。増田選手は、あたいの憧れのスター選手なんだ」

 と彼女は言う。何だか知っている声だ。

 いつのまにかゴリラは、俊ではなく小さな子供を絞め殺そうとしている。

「あの娘を助けてくれよ」

 と赤いシャツの少女は言う。

 俊は危険を感じて逃げようとした。

「ごめん。おいらには、ムリだよ」

 それでも少女は俊の腕を取る。

「お願い。キスしてあげるから」

 俊の胸で何かが弾けた。

『おいら、この娘を知っている』

 振り返って、目を見開いた時、まばゆい光の中で彼女の顔が見えてきた。

「やっと目覚めやがった」

 と言う娘は留美だった。

「へっ? ここはどこ? おいらはだあれ?」

 と俊は聞いた。

 悪夢を見ていた記憶はあるが、夢の内容はもう無意識の底へ消えてしまっている。

「ここは、あたいの家だよ。あんた、貧血で倒れちゃったから、みんなで運んだんだ」

 そう言う留美の顔の横に、アン西田の青い目が現れ、永松由由の小さな目も、玉本夢香の細い目も、次々俊を覗き込み、おかしそうに笑った。そしてその横に、よく知っている大人の女性の顔が出現し、「大丈夫ですか?」と尋ねた。すっぴんなのに輝くように美しい女性だ。俊の顔をまじまじ見つめ、なぜだか笑いをこらえている。

 俊は自分がベッドに寝ていることを認識した。

「あれっ、あなたは?」

「わたし、留美の母です」

 女性が笑顔で会釈する。

 由由が彼女を紹介した。

「留美のママは、陸上競技の元オリンピック選手の坂東敦子さんなんだよ。それでね、留美のお姉さんは、短距離の日本のエースの、坂東由紀さんなんだ。すごいでしょ?」

「留美のママ、いつもテレビの『夕刊バラエティ』に出てるから、知ってるでしょう?」

 と夢香がフォローする。

「敦子ママが、ユーの手や背中を治療してくれたんだよ」

 とアンも言う。

 まだ痺れるように痛む左手の甲を俊は見てみた。包帯で覆われていて傷の状態は分からない。胴体にもミイラのように包帯が巻かれているようだ。

「大変お世話になったようで、ありがとうございます」

 俊は敦子ママにお辞儀をした。 

 敦子も負けじと頭を下げた。

「学生の時有名選手だった増田さんが、留美たちのテニスのコーチをしてくれてるんですってね? 紅玉高校では、顧問の先生は指導に無関心ですし、誰も指導する人がいなかったんで、たいへんありがたく思っています。増田さんは、お仕事は、何をされているのです?」

「へっ? ああ、三橋商事を・・」

 と言いかけて、俊は口ごもった。

 上司の不祥事の罪を被せられて首をきられた、なんて説明するのが面倒くさい気がした。

 敦子の頬に花が咲くように赤みがさした。

「あらあ、大企業じゃないですの」

 なんて言うじゃない。

「へっ? あ、いや、そんな・・」

「とても忙しいだろうに、コーチして頂いて、ほんとにすみませんねえ」

「忙しくなんか・・主に、夜しか、働いていませんので」

 俊は現在、伯父の経営するカラオケ店【蘭蘭】で、夜の九時から深夜二時までアルバイトしている。学生の時も手伝っていた店だ。

 留美に似た二重の目を、敦子は俊を呑み込むように大きく見開く。

「まあ、夜まで営業なさっているんですね?」

「へっ? ああ、まあ、夜行性ですから」

 なんて派手過ぎる化粧顔で俊が言うと、敦子はたまらず吹き出してしまった。

 その時「ミャア」と鳴いて、あの痩せた三毛猫が部屋に入って来た。

「ラッキー」

 と留美が呼ぶと、三毛猫ラッキーは留美の体を肩まで駆け上がった。

「どうして、そいつが、ここに?」

 と俊が問うと、敦子が笑いながら言う。

「この猫、数日前に、留美が馬幌城でひろってきたんですよ。幸運をもたらしてくれた猫だから、ラッキーって名付けたのよね?」

 母の問いかけを留美は笑って受け流し、俊に呼びかけた。

「コーチ、もう元気になっただろう? そろそろ練習再開しようぜ」

「留美、何ですの? その口の利き方は? ほんとにわがままな娘で、すみませんねえ」

 と敦子が俊に謝る。

 俊は立ち眩みをこらえながら起き上がった。

「じゃあ、行こうか」

「まあ、その顔で、行くのですか?」

 と敦子が言うと、娘たちが唇に人差指を立てて「しー」と密めく。

「へっ?」 

 俊は自分の顔を両手の平で触ってみた。

「あれっ? ない」

 由由が笑って教えた。

「うふふ、留美がね、コーチが寝ている間に、無精髭、綺麗に剃ってあげたんだよ」

「コーチがこんなにイケメンと知って、わたし、惚れちゃったんだよ」

 と夢香が告白するので、留美が髪の毛を逆立てた。

「俊は、あたいらのコーチなんだからね。誘惑したら、あたいが許さないよ」

 そんな娘の様相を、敦子は不思議な目で見ていた。


 晩秋の空には浮浪雲がいくつかあるだけで、コートに戻った俊の顔のラクガキを、太陽もけらけら笑って鮮やかに照らし出していた。

 俊は皆を集めて語った。

「この秋、紅玉高校は、県大会でみんな敗れ、上の大会へ進めなかったんだよね。だけど負けることだって、試合が出来なくなった今のおいらから見たら、幸せなことなんだよ」

「負けることも幸せって、ホワーイ、どういうこと?」

 と青い目のアンが両手の平を天に向けて聞く。

 俊は話を続けた。

「だって、負けたってことは、自分に何か足りないものがあるってことだから、それが今日の練習の課題になるってことじゃないかい? 人生、うまくいかない時が大事なんだよ、きっと。試合でミスったら、同じミスをしないように練習するんだ。そして負け試合の中にも、今まで打てなかったような凄いショットが一本でもあったなら、それを次は何本も打てれるように練習するんだ。そして負けた相手に今度勝つにはどうしたらいいのか、一つ一つ考えて実行するんだ。いいかい、人は幸せでいるために生きているんだよ。そして人の幸せっていうのは、安楽な生活じゃなく、失望や困難と闘い、夢や目標に向かって努力することじゃないかい? おいらたちは、夢や目標のために一生懸命努力することを、もっと楽しみ、そこにもっと喜びを見い出せるようにならなきゃならないんだよ。短い人生、熱く生きなきゃもったいないのさ。試合に負けたからといって、くよくよする暇なんか、おいらたちにはないんだよ。勝った者以上に、今日、今、一球一球、心を込めて練習しなくちゃ追いつけないんだ」

 俊の悪戯描きまみれの顔を、夢香がまじまじ見ながら、笑い混じりに言う。

「わたしは、面白い生活こそが幸せだけどね」

 俊は真面目な面持ちでうなずいた。彼が真顔でしゃべるほど、娘たちは笑顔になった。

「ねえ、もし、紅玉高校ソフトテニス部が、今度の春勝ち抜いて、夏の全国大会に出場したら、それだけでもみんなの一生の思い出になるんだよ。つまり人生が変わるってことさ。青春の思い出ってのはね、どんな宝石よりもキラキラ輝いているものなのさ。だけど風に流されるような練習をしても、風のような思い出しか残らないよ。年を取ってから、帰らぬ青春を悔やんでも、どうにもならないんだよ。でも、おいらたちは違う。おいらたちは今日という大切な青春を、日本一を目指し、命を燃やして生きることができる。年を取って、いつか子供たちに『青春時代、何したの?』って聞かれた時、『命を燃やしてテニスをやったのよ』と笑って答えることができるんだよ」

 誰もが笑顔で自分の顔を見ているので、俊は感動していた。

 アンが笑いをこらえるあまり、青い目を潤ませて言う。

「アンも、年を取ったら、今日の思い出を笑って子供たちに話すよ、きっと」

 アンが自分の話に共鳴してくれたと思って、俊も泣きそうになった。

 練習が始まり、「もっと一歩目を速く、もっと前で、もっと高い所で、もっと強く」と俊は叫び続けた。選手たちは皆、俊が厳しく注意しても、笑顔で彼の顔を見返した。そして笑い声をもらした。

『ああ、何て明るく純真な娘たちなんだろう』

 そう俊の心は何度も叫んだ。

 練習が終わり、傷ついた右足を引きずりながら一人家路を歩いても、娘たちの笑い声が彼の心で弾み続けた。可愛い笑い顔が胸に溢れ、それと一緒に熱い涙も溢れて止められなかった。

「ああ、何て明るく無垢な娘たちなんだろう。おいら、生きててよかった」

 そう泣きながらつぶやく俊の顔を見て、すれ違う人々がクスクス笑った。誰に笑われようと、彼は幸せに満ちていた。一人暮らしの部屋に戻り、鏡を見て、「うぎゃあ」と叫ぶまでは。







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