第5話 絶対女王マリリン

 次の日の日曜日、お昼は近くのうなぎ屋でランチを奢らされ、俊の財布は海の中の風船のように軽くなった。

 昨日のキングコング権太との死闘と、今日のうな重の美味に感動した娘たちが、素直に俊の指導を受け入れ、日本一目指して一生懸命練習する・・そう俊は思い、午後からのサーブからの乱打後の集合でこう告げた。

「じゃあ、休憩十五分あげるから、その間に体幹トレーニング三分だ」

 だけどやっぱり夢香が顔を赤くして怒るのだ。

「ぬ、ぬあーんだってえ? 昨日から懲りない男だな。これはもう休憩じゃないじゃないか。これはもう法律違反、百人に聞いたら、百人、いや、百万人が犯罪って言うね。猫もカラスもカエルだって『ハンザイ』って鳴くね。わたしが過労死したら、トレーニング基準法違反で、あんた、死刑だよ」

 それでも好奇心旺盛なアンは、青空を凌駕するほど瞳を輝かせたのだ。

「アンはその快感トレーニングってやつ、やってみたいわあ。ねえ、教えて。どうやるの?」

「簡単さ。地面に肘をついて、体を一直線に伸ばすだけだよ」

 俊はそれをやって見せ、こう挑発した。

「さあ、おいらより長くこれを続けた者は、プリン食い放題、奢ってあげるぜ」

 娘たちはワアワアはしゃぎながら、地面に伏せ、肘とつま先で体を支えた。文句を言っていた夢香も、スイーツの誘惑には勝てず、すぐに追従した。マネージャー明美も負けじと加わった。だけど夢香も明美も三分持たずに潰れ、アンと佐子と輝羅は五分以内に脱落した。

「ほら吹きコーチ、ちっとも快感じゃないじゃない」

 とアンは怒って、俊の脇腹を指で突いた。

 するとびっくりした俊は、尻尾を踏まれた猫のような声を出してしまった。

 それを横目で見ていた留美の目がキラリと光った。

「アン、分かっているね?」

 と言って、トレーニングを継続しながら目配せした。

 アンはニッコリうなずき、俊の服の内に指を差し入れ、脇腹をコチョコチョくすぐり始めるじゃない。

 俊はたまらず身をよじって、

「ア、アン、だめだよ、そんなことしちゃ。あ、だめだめ・・」

「これがほんとの快感トレーニングよ」

 俊が悶えれば悶えるほどアンのコチョコチョは加速する。夢香も明美も寄って来て、キャアキャア喜びながら俊の服のうちへ指を入れた。

「わたし、快感トレーニング、好きになりそう」

 と夢香は言って指をくねくねさせるのだ。

 俊は首を振り振り、

「快感、じゃなくて、体幹、なんだよ。あ、そこは、だめだめ。きゃあ、それだけはやめて。あ、もう、だめえー」

 とうとう全身の力を失って地面に突っ伏してしまった。

 留美と由由と七菜が、天照大神のような満面輝く笑顔で立ち上がった。

「ふっふっふっ、勝ったぜ。カ、イ、カ、ン」

 と留美が言うと、由由と七菜が踊りながら、

「プリン、プリン、プリン、プリーズ・・」

 と歌った。

 その時、コートの外の樹木で休んでいたオナガ鳥がギャーピー鳴きわめき、鮮やかな青のウインドブレーカー姿の娘が一人、コート内へ入って来たのだ。大きな二重の目もぷるぷるの唇も驚くほどセクシーなその娘は、歩き方も艶やかに、1953年のハリウッドスターのようにさっそうと腰を振って紅玉高校ソフトテニス部員たち前まで来た。

「真凛先輩、どうしてここに?」

 と七菜が細い目を見開いて聞いた。

 留美も大きな目を剥いて鋭利な光線を発した。

「マリリン、何しに来やがった?」

 真凛は大きな胸を突き出して、余裕たっぷりにほほ笑んだ。

「あら、留美、ここがわたくしの帰り道だって、知っているでしょう? 裏切り者の七菜ちゃん、ここでどれだけヘタになったのかしら?」

 七菜の色黒の四角い顔が赤くなった。

「裏切り者は真凛先輩じゃないがか? 自分が処分を受けないように、留美先輩を裏切って、留美先輩一人に罪を押しつけて退学にさせたじゃないがか? それだけじゃないちゃ、わたしがそれを先生に言ったら、わたしを裏切り者って非難して、みんなしてわたしにひどいイジメをしたがでしょ? それでわたしが紅玉高校を受験したら、また裏切り者って非難した」

「まあ、わたくしがあんなにかわいがってあげたのに」

 はねた黒髪を真凛の白い指に撫ぜられ、七菜は身震いした。

「わたしのお弁当にたくさんアリを入れてくれたり、わたしのシューズにミミズを入れてくれたり、わたしの服の中にカメムシを入れてくれたり、雨の日はわたしの体をボール拭きにしてくれたり、たくさんかわいがってくれたこと、一生忘れないちゃ」

 涙目の七菜の小柄な肩を留美が抱いて守った。

「マリリン、今後、あたいの七菜に手を出したら、このあたいが許さないからね。稲妻留美のサンダーフラッシュで、あんたを感電死させてやるから。分かったら、とっとと失せな」

 そう言って留美は顎で出口を指したのだが、真凛は超然とほほ笑んで俊を指さす。

「わたくしは、その男性が気になって来ましたのよ。あなたがたがさっきいじくっていたその人、何だか見覚えがありますわ。いったい誰ですの?」

 留美は俊の前へ動いて、真凛から見えにくくした。

「あんたにゃ関係ないね。この男は、あたいのオモチャなんだ。手を出したら、承知しないよ」

 なのに俊は真凛の前に歩み出て言うのだ。

「おいらも、おまえに見覚えがあるぞ。マリリンって名前も、聞き覚えがある。もしかして、昔、事件を起こさなかったかい?」

 真凛の微笑にフローラルな香りが咲いた。

「男性たちはわたくしにたいてい見覚えがあるって言いますけど、わたくしが昔、どんな事件を起こしたと?」

「二年前の夏休み、カラオケ店・・」

 と言いかけた俊の口を、留美が両手でふさいだ。

「よけいなこと言っちゃダメ」

 と留美が警告するのに、明美が赤鬼のような顔で言う。

「あの夏のカラオケ屋での出来事を、やっぱりあんたは知っているとやね? 無精髭で分からんかったけど、もしかして、あんた、あの時、うちがマリリンに脱臼させられた時、うちの腕を引っ張って、うちを再起不能にした、あの極悪非道の店員じゃなかろうね?」

「へっ? じゃあ、明美とマリリンは、あの時の?」

 俊の右の眉が驚きでひくひく上下した。

 明美は両眉を吊り上げて俊と真凛をバチバチ睨んだ。

「あんたも、マリリンも、ここで会ったが百年目、ばい。このジャックナイフ明美からテニスを奪った二人まとめて、今ここでかたき討ちばさせてもらうけん、覚悟しいや」

 そう凄むと、明美はジャージのポケットから何やら抜き出し、銀に輝く刃を開くじゃない。それはなんとびっくり、小さなカミソリだった。

 真凛が微塵の隙も無い微笑のまま言う。

「まあ、相変わらず怖い人ねえ。だけどどうしてジャックナイフじゃなくて、そんなチンケな物なのかしら?」

「うるせえ。二年前のあの事件以来、ジャックナイフは自粛しとるとよ。あんたなんか、これで充分だよ。あんたのそのデカパイ、これでアコーディオンのように刻んでやるけんね」

「やっぱり、おバカさんなのね。あなたじゃ、合気道有段者のわたくしの相手にならないことは、二年前に思い知ってるでしょう?」

「せからしかあ」

 と叫んで、明美は真凛に飛びかかっていった。

 だけど次の瞬間には明美は地面に叩きつけられていたのだ。真凛のその目にも留まらぬ早わざを見抜いて全身の毛を逆立てたのはただ一人、いや、ただ一匹、三毛猫のラッキーだけだった。明美は半べそ顔で立ち上がり、真凛との対決はあきらめて、俊の方へ凶器を向けた。

「うちは、あんたがこのコートに入って来るのを認めんけんね」

 と俊に告げる。

『おいら、カミソリなんて、嫌いだ・・』

 心でそうつぶやいて、俊は悲しい目で明美を見た。

「分かったよ。おいらだって、もう、明美とは関わりたくないから、もうここへは来ないよ」

 風のように去りかける俊を明美は呼び止めた。

「逃げんでよ。うちのこの二年間の恨みを、今こそ果たすとやけん」

 今度は俊に躍りかかった。

 すると留美が「やめてえ」と叫びながら俊の前へ飛び出して盾になったのだ。だけど振り回した明美のカミソリが留美を傷つけようとした瞬間、俊がとっさに左手を出してそれを防いだ。

「留美、何ばすっと?」

 と問う明美の手から、血の付いた凶器が滑り落ちた。

 留美の目に涙が光った。

「この人は、あたいがやっと見つけたコーチなんだ。あたいはこいつからコーチしてもらって、このマリリンに勝って、日本一になるんだ。だから、あたいをどれだけ傷つけてもいいから、こいつを追い出さないでおくれよ。どうしてもこいつを追い出すというなら、いっそあたいを殺しておくれ」

「何ば言うとね? 何が日本一ね? うちはこいつらのせいで脱臼癖がついて、テニスもできんとばい。だったら、うちがここを出て行くけん、好きにせんね」

 興奮する娘たちに、俊が「あ、あのう・・」と呼びかけた。

「何ね?」

 いきりたちながら明美が彼を見ると、これ、どうしようと問うように、傷ついた左手を右手で押さえて掲げている。右手の指の隙間から、真っ赤な血がたらたら流れ落ちている。

『とりあえずどうしよう?』

 と自分に注目しだした娘たちを見て、俊は考えた。

 とりあえず彼は傷口を押さえている右手を外して皆に傷口を見せた。すると、パックリ開いた左手の甲からおぞましい量の血が、待ってましたとばかりに溢れ出てきた。

『とりあえずどうしよう?』

 ともう一度彼は考えた。

 とりあえず彼は気分が悪くなった。

 血を見た明美も気分が悪くなって、

「あ、あんたが悪かとやけんね。うちは脅しでカミソリを振っただけなのに、あんたが手を出して、かってにケガしたとよ。うちはもう、あんたば好かんけん、帰るとよ」

 と、あたふた言い、凶器を拾い上げて駆け出して行ってしまった。

「あら、いけない。わたくし、家庭教師の時間ですわ。遅くなると、ママに怒られちゃう」

 と真凛も言って、腰を振り振り去って行った。

 コートの外の樹に留まったオナガ鳥が、ギャーピー鳴いて二人を見送った。

 残った娘たちは悲しい目で俊を見た。

 留美が低い声で言う。

「あたいはね、あのマリリンに勝ったことがないんだ。あいつは、高校全日本ランキング一位だしな。けどよ、あたいはあいつに絶対勝たなきゃならねえ理由があるんだ」

 留美の瞳の奥に深い怒りが込み上げるのを俊は見た。

「うん」

「あんた、あたいをあいつに勝たせることができるんだよね?」

 貧血で目が回りだすのを覚えながら、俊はまた「うん」と答えていた。

「でもよ、明美は、あんなバカだけど、あたいらの大切なマネージャーなんだ」

「うん」

「だから、あんな明美とも、仲良くしてくれないかい?」

「うん」

 俊はもう立っていられなかった。

 そしてもう一度だけ考えた。

『とりあえずどうしよう?』

 とりあえず俊は貧血でふらついた。そして昨日と同じように、留美の温かくやわらかな胸へと倒れかかった。

 留美の胸を稲妻のような電流が突き抜けた。

「きゃあ、何すんのよ、このどすけべ」

 と叫んで、留美は俊を張り倒していた。

 俊を受け留めてくれたのは、冷たく硬い黒土だった。空が、コートが、娘たちが、絶叫マシーンのようにぐるぐる回った。血の匂いに騒ぐオナガ鳥の鳴声が、遠い世界の果ての子守歌に聞こえた。













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