第4話 天宝川河原の死闘

 Aコート三点と、ネットが垂れ草も生えているBコート一点を使い、マネージャーの明美も手投げの上げボールに加わって、打ち込みをした。

 東青山学園中等部出身の留美と七菜は、明らかにレベルが特上だった。中ロブもシュートも、豪快なのに正確なのだ。

「もっと前で、ライジングで打つんだ」

 と俊は何度も叫んだ。

 由由と夢香は股関節が使えず、腰が回らず、ゆえに肩も回らず、手打ちなので速いボールが打てなかった。左手もスイングの邪魔をしている。俊は二人に、左手の使い方と、腰をひねってそのひねり返しで打つ打ち方を指導した。右足で地面を蹴ることや、左右の肩甲骨を一瞬で回すことも意識させた。夢香はそれでもスピードボールは打てなかったが、やがて由由の打つボールが劇変するじゃない。「ゆーゆは世界一」だとか、「ゆーゆは雷神」だとか叫びながら打ち込むショットは、コントロールはめちゃくちゃだが、そのスピードは男子にも負けぬ剛球だ。天性のパンチ力を持っているのだ。

「うわあ、ゆーゆの打つボールは、世界一すげーや。この世の果てまで飛んで行きそう」

 と俊が褒めると、由由は調子に乗ってフェンス直撃弾を連発した。

 打ち込みが百球を超えると、まず夢香が弱音を吐いた。

「やっぱり無理、わたしの細い腕も心も、もう折れてしまったわ」

 ラケットを放って、座り込むじゃない。

 さらに三十球ほど打ち込むと、アンも夢香の隣にへたり込む。

「アン、きついの嫌いだもん。やっぱりバーミンガムに帰るう」

 五十分ほどで打ち込み練習は終了し、生徒たちは集合した。

 俊は皆に告げた。

「じゃあ、十五分ほど休憩をとるから、その間に各自、腕立て伏せを百回やるように」

「ぬ、ぬあーんだってえ?」

 と夢香が反発した。

「今、休憩と言ったじゃないか。なのに腕立て伏せだってえ? これはもう、休憩じゃないね。百人に聞いたら、百人、いや、百万人が虐待だと言うね。猫もカラスもカエルだって『ギャクタイ』って鳴くね。ほら、遠山の金さん、何か言ってくだせえ」

 夢香は、金さんオタクの一年生の遠山佐子の背を、俊へと押し出すのだ。

 天然パーマの黒髪の下から大きな目を光らせ、佐子はジャージを開いて肩をめくり、啖呵を切った。

「おうおう、この胸に咲いた桜吹雪が、てめえの悪事をちゃーんとお見通しなんでえ」

 名奉行に悪事を見破られた罪人のように俊は小さくなったが、それでも懸命に言い逃れした。

「腕立て伏せを三分でやったら、十二分休憩がとれるじゃない」

 夢香が佐子の勢いを真似て言う。

「おうおう、ほら吹きコーチよ。腕立て百回、三分で出来るだと? 嘘八百ほざきやがると、全身醬油ダレをつけて、蒲焼にして、食ってやるぞ」

 まな板の上のウナギのような悲しい気持ちになって、俊は身をよじり見返した。

「嘘だと言うなら、おいらが腕立て百回、三分でやったら、夢香もやってくれるかい?」

 夢香は鼻で笑った。

「おもしれえ。やれるものなら、やってみな。できんかったら、責任取ってもらうからね」

 俊はあっという間に腕立て伏せを開始していた。非の打ち所がない腕立て伏せだ。五十数えるのに一分もかからなかった。

 焦った夢香は、

「わたし、ちょっと疲れちゃった。あれっ、こんなところにベンチが」

 と言って、俊の背中に座ってしまった。

「あら、不思議、このベンチ、動いているわ」

 なんて夢香が言っても、軽量の娘など俊はものともせず腕立てを続ける。八十を超えたところで、夢香は体重七十キロの一年生、片山輝羅を呼んだ。

「キララ、ちょっと話があるの。わたしの隣に座りなさい」

「はい、先輩、話って何でしょう?」

 と嬉しそうに言いながら、輝羅は俊のお尻にドスンと座った。

 二人合わせて百キロ以上あるのに、俊は歯を食いしばり、呻り声をあげて続けるのだ。

 もうあと五回になって、夢香は最終手段に出た。

「ねえ、みんな、話があるの。ちょっとこのベンチにみんなで座ってよ」

「えっ? 話ってなあに?」

「なあに?」

 と次々言いながら、残った五人の娘たちが乗っかって来て、腕立て伏せ九十九回やったところで、最後にラッキーも「ミャア」と鳴いて飛び乗ったその時、俊は「ぎゃふっ」ともらして潰れてしまった。

 マネージャーの明美が長い茶髪を指で掻き上げて言う。

「やい、ほら吹きコーチ、うちはちゃーんと聞いとったとよ。あんた、腕立て百回できんかったら、何でも責任取るとよね?」

「だって、だって」

 と尻圧に悩殺されそうになりながら俊は言う。

「だってもあさってもなかとよ。あんた、責任取って、あんた自身が蒲焼になるか、それとも今日のランチタイムに、うちらにウナギの蒲焼をご馳走するか、どっちかだぜ」

「へっ?」

『おいら、蒲焼なんて、嫌いだ・・』

 と俊は思ったが、周りの娘たちはお祭り騒ぎだ。

「カバヤキ、カバヤキ、カバヤキ、カバーヤキー・・」

 とベートーベンの第九のメロディーで合唱しだした。

 と、その時、公園の樹々を揺るがしてバイクの音が響いて来た。

 それは人々を呑み込む津波のように近づいて来て、危険を察した三毛猫ラッキーがロッカーの上へと避難した時、十数台の大型バイクの群が爆音をあげて出現したのだ。彼らは悪名高き暴走族ブラックウォリアーズに違いなかった。先頭の一人は、顔も体もゴリラのような総長、キングコング権太だ。紅のモヒカンが天を切り裂くように高く伸びている。そして彼の隣を走るのは、狼顔で色黒の副番、ブラックウルフの譲治だ。彼は黒のモヒカン髪だ。テニスコートの入口を爆裂させるように突き破り、彼らは中に入って来るじゃない。そして八人の娘と一人の青年がいるコートの周りをバリバリ轟音を響かせて回りだした。やがて震えながら立ち上がる娘たちを取り囲んで、十一台のマシンが停まった。

 明美マネージャーが、半べそをかきながらも巨体の総長に呻った。

「ご、権太、うちとあんたは、とうに別れたはず。な、何しに来たとよ?」

 すると権太は、八つの地獄を渡り歩いてきたような冷酷な目で明美を見た。 

「おめえには、もう何の未練もないぜ。おれ様は、稲妻留美に興味があるのさ・・」

 権太の狂気じみた目が留美に見据えられた。

「よお、留美よ。おれ様は、二年前のあの日から、ずっとおめえが気になっていたんだ。そしてやっと、気づいたんだぜ・・おめえに惚れていると。これはもう運命なんだぜ。留美、今日からおめえは、おれ様の女だ」

 留美の全身の毛が逆立った。

『こんなゴリラ男の彼女になるくらいなら、オランウータンと結婚した方がましだ・・』

 と心が叫んでいた。

「ご、ご、ごめんけど、あたいには、す、好きな人が、いるんだ」

 と震える声で告げた。

 権太の眉間に怒りの縦じわが刻まれた。

「何だとお? おめえが好きだというやつは、どこのどいつだ? 体じゅうの骨をこの手で砕いてやるぜ」

「わ、分からないやつだね。あんたなんて嫌い、って言ってんのよ」

 と留美はわめいた。

 すると権太はどすどすコートを揺るがして彼女に近づき、大木のような腕できゃあきゃあ叫ぶ留美を抱き上げたのだ。

「嫌いと言うなら、好きになってもらうまでさ」

 小原七菜が、留美を連れ去ろうとする大男の右足にしがみついて止めた。

「留美先輩をあんたなんかに渡すもんか」

 権太が「しゃあらくせえ」と叫びながら右足を蹴り上げると、七菜は悲鳴を上げながらコートを囲むフェンスまで飛んで行った。

「俊コーチ、助けてえ」

 と留美が叫んだ。

「コーチ」

「コーチ」

 と他の部員も口々に呼びかけた。

 俊の脳裏に二年数か月前の悪夢がよみがえった。俊の伯父が経営するカラオケ店で、ブラックウォリアーズと女子中学生たちのいざこざを止めようとしたけど、権太に殴られ、腹に乗られて首を絞められ、意識が飛びかけていた時、誰かにナイフで太ももを刺され、俊は選手生命を絶たれたのだ。ゴリラ男に力でかなうはずもない。頭も心もナイフでずたずたに切られたように混乱していて、彼らを追い払うどんな知恵も浮かんでこなかった。それでも俊は、木枯らしのように素早く権太の前へ回り込んでいたのだ。

 権太は留美を担いだまま足を止め、人生に絶望したかのように暗く冷たい目で俊を見た。

「何だ、てめえ? おれ様に、何か用か?」

 心臓をわしづかみするような怖い声だ。

「あ、いや、べ、別に用はないけど・・」

 俊の足も声も、壊れた洗濯機のようにがたがた震えてしまう。

「用がないなら、消えな」

「あ、は、はい・・」

 俊は踏みつけられた落葉のような気持ちになって、すごすご去りかけた。

 するとまた、娘たちが次々悲痛な声をあげた。

「俊コーチ」

「コーチ、助けて」

「コーチ、見捨てないでえ」

『ああ、この娘たちは、今、おいらに救いを求めているんだ・・』

 と俊は思った。そして夢遊病者のようにふらふら大男の前へ引き返していた。

「あ、忘れてた。おいら、この娘たちに、テニスを教えているんだ」

 笑おうとした俊の頬がひくひく引き攣った。

 大きなゴリラ顔は蝋人形のように無表情だ。

「留美は、おれ様とイイコトして遊ぶんだ。その腕をへし折られたくなけりゃ、今すぐ消えな」

「は、はい・・」

 俊は破り棄てられた手紙のような気持ちになって、しおしお去りかけた。

 再び女子高校生たちの悲鳴が上がった。

「俊コーチ・・」

「コーチ、行かないでえ」

「コーチの言うこと、何でも聞くから」

『ああ、この娘たちは、今初めて、おいらに対して素直になっているんだ。何としても、何とかしなくちゃ・・」

 俊の心がそう叫んだ。

 彼はもう一度、権太の前へ引き返した。

「あ、わ、忘れてた。今、る、留美は、日本一になるための、と、特訓を、しているんだ。じゃ、邪魔しないで、くれよ」

 と、顔も声も半分ひび割れながら言った。

 ゴリラの目が怒りでギョロリと剥かれた。

「何だあ? てめえ、おれ様の留美を呼び捨てにしやがったな」

「邪魔するなら、け、警察を呼ぶぞ」

「ケーサツ? てめえの両足、コンクリートで固めて、天宝川に放り込んでやろうか?」

「へっ? け、けっこうです」

 俊は塩をかけられたナメクジみたいな気持ちになって、しょぼしょぼ去りかけた。

 だけどやっぱり女子高生たちが、道に倒れて誰かの名を呼び続ける中島みゆきのように、痛切に叫ぶのだ。

「俊コーチ・・」

「しゅーん、カムバーック」

「俊、キスしてあげるから」

『ああ、何てかわいい娘たちなんだ・・』

 俊は引き返した。

『死のう。この娘たちの愛や未来のために・・』

 彼は心を決めた。

『是非もない。これも運命だ。死のう・・どっちみち、死ぬつもりだったんだ。二年前、おいらの人生を台無しにしたゴリラ男を道連れにして、死のう・・ああ、今思えば、短かったけれどいい人生だったな。少なくとも、セミやカゲロウよりも長生きしたし、足をケガするまではいい夢を見られたもんな。少なくとも、今から地獄へ道連れにするこの男よりも長生きしたし、いい人生だったよな・・』

 そう考えながら俊は権太の前へ戻り、相手を指さして大声で挑発した。

「おい、おまえ、おいらはおまえに決闘を申し込む。バイクでの一騎打ちだ。正面からぶつかり合って、先に逃げた方が負けだ。どうだ? 臆病者と呼ばれたくなかったら、受けてみろよ」

「何だと、てめえ?」

 ついに権太は留美を放し、俊の胸ぐらをつかむと、片腕で軽々と持ち上げた。

 首が締めつけられ、息ができない俊は、意識が痺れる前に、右手を開いて、力いっぱい相手の股ぐらに食い込ませ、権太の大切な袋を思い切り握ってしまった。さすがの大男も俊から手を離し、両手で大事なところを押さえ、苦しそうにぴょんぴょん跳ねた。

「て、てめえ、ブラックウォリアーズ総長のおれ様を怒らせやがったなあ」

 そう呻き声で言う権太に、俊はもう一度大声で言う。

「おまえは、おいらのタイマンを受けるのか、受けないのか? ブラックウォリアーズの総長は、臆病者なのか、臆病者じゃないのか?」

 権太は死神のような冷たい目で俊を睨み、低い声で答えた。

「おもしれえじゃねえか。やってやるぜ。ところでおめえ、どっかで見た顔だな?」

 俊は意味ありげに睨み返した。

「思い出せないのかい?」

 ゴリラの目が剥かれて血走った。

「どうせ、昔、おれ様に痛めつけられた、虫ケラだろう」

「もしその虫ケラにおまえが負けたら、これから留美に関わっちゃいけないよ」

「分かったぜ。そのかわり、おめえが負けたら、留美はおれ様のものだぜ」

「おいらは、死んでも留美を渡すもんか」

 俊と十一人の暴走族は運動公園の横の土手を昇り、天宝川の河原へと降りて行った。八人の女子高生たちもついて来た。

 冬待ちの河原は草も低く、バイクでの決闘にはうってつけだったし、水鳥漂う天宝川は北風に揺れて悲しく輝き、三途の入口にふさわしかった。

 俊は重ね着しているコートを二枚とも脱ぎ捨て、黒いシャツ姿になった。全身を血潮が沸騰しているので微塵も寒さは感じない。副番の譲治にバイクを借りて跨った。そしてそのマシンの動かし方を聞いた。

「止め方は聞かないのかい?」

 と譲治が黒いモヒカンをひくひくさせて問うので、俊は頬を引き攣らせて笑い、

「地獄への片道切符しか持っていないんで」

 明美が俊の手を取って、励ましの言葉をかけた。

「コーチ、死んでも負けないでね」

 七菜も彼の手を握った。

「コーチ、ちゃんと線香あげてあげるから、心配いらんちゃ」

 留美も手を取って涙ぐんだ。

「俊コーチ、死んでもちゃんとキスしてあげるからね」

『ああ、何てやさしい娘たちだろう・・』

 俊は彼女たちの手の温もりを胸深く刻み込みながらバイクを北へ走らせた。胸の鼓動が乱れ太鼓のように高鳴った。もう後わずかしか生きれないかと思うと、自然に涙が溢れ出た。

『どうせ死ぬつもりだったんだ。死のう。娘たちのために死ねて、おいら、幸せだあ・・』

 二百メートルほど進んで、ぐるりとUターンした。権太がバイクを噴かす爆音が聞こえた。俊の全身の毛穴から脂汗がウジのように湧いて出た。体じゅうの力が抜けたようになっていて、胃のあたりがキュッと締めつけられた。唇がカサカサに乾き、貧血で倒れてしまいそうだ。

『おいら、おいらをコーチと呼んでくれたあの娘たちのために死ねるんだ。思い残すことなんかねえ・・』

 そう自分に言い聞かせたが、胸の奥から、生きることへの烈しい執着心がふいに奔出した。

『ああ、せめて、あの娘たちを日本一にするまで、おいら、死にたくないよ・・』

 権太のバイクが怪物のように吼えて走り出すのが、涙に紛れてかすかに見えた。俊もアクセルを回してスピードを増した。

『ああ、でも、もう何もかも遅いんだ・・』

 傍らの天宝川が巨大に膨らんで、今、三途の川となって俊を呑み込もうとしている。耐えがたい恐怖が、彼の体を鋭い牙で内側から引き裂いている。彼の体はアクセル全開のまま硬直してしまった。涙も汗も爆風に熱く溶けている。権太のバイクが二十メートルほどに迫った時、俊は目を閉じ、絶叫していた。

「ひえー」

 ドンッという衝撃音を俊は体じゅうで聞いた。そしてこの世の外へ弾き飛ぶのを感じた。ぐるぐる回りながら地獄へと堕ちて行くのを、失神寸前の狂気の中で感じていた。ガツンッと後頭部が濁音を発した。それからザアザアザアザア背中が騒ぎ続けた。朦朧とした耳鳴りの奥から、やがて意味のある何かが近づきて来た。いつのまにか耳鳴りは娘たちの歓声と駆け寄って来る足音に変わっていた。生きているのか、死んでいるのか、俊には判断できずにいた。痛みは感じないのに、体はピクリとも動かないのだ。黒い空が赤っぽくなり、仰向けで目を見開いていることを覚えた。空はしだいに黄色くなり、いつしか果てしなく青くなった。その青の輝きに、娘たちの顔が次々現れた。

 留美が俊の上体を起こして、抱きしめた。

「きゃあ、俊、大好き」

 夢香が俊の栗色の髪を叩いて褒める。

「コーチ、凄いよお」

 明美も男の頭を叩いて称える。

「コーチ、偉かあ」

「コーチ、素敵」

 と七菜も喜んでいる。

 俊は記憶が飛んで、何のことだか分からなかった。

「へっ?」

 明美が俊の手を握って教える。

「俊コーチ、勝ったとよ。あのキングコング権太に、勝ったとよ」

「へっ?」

 留美が俊の汚れた髪を指で撫ぜながら言う。

「権太のやつ、ぶつかる一瞬前にバイクを飛び降りたのよ。バイクがぶつかって、あんた、十五メートルくらい宙を舞った後、三十メートルくらい草の上を滑って止まったのよ」

 俊はやっぱり「へっ?」としか言えなかった。

 夢香が風上の方を指さして言う。

「ほら、見てごらんよ。あれが、決闘に敗れた男の末路だよ」

 俊がそちらへ目を向けると、五十メートルほど離れた草の上で、権太は仲間の暴走族に取り押さえられ、私刑を受けている。

「あの野郎は、目をつむったままぶつかってきて、死ねえー、と叫びやがるんだぜ。あいつ、どっかで見た顔だと思ったけど、間違いねえ、プロの殺し屋だぜえ」

 と権太は大声で言い訳していた。

 だけど副番の譲治がそれに負けない声で吼えるのだ。

「うっせいなあ。タイマンに敗れたやつは、ブラックウォリアーズのオキテで追放されると決まってるんだ。今からこのブラックウルフの譲治が総長になるんだぜ」

 譲治は目にも留まらぬ空手有段者の突きと蹴りで権太をハチの巣にしてしまった。


 ブラックウォリアーズの猛者たちが河原から去って行った時、俊はようやく体に力が入るようになった。なんとか立ち上がったが、目が回ってふらついた。それでも娘たちを熱く見つめて踏ん張った。

 そして何事もなかったかのようにクールに言ったのだ。

「さあ、みんな、すぐにコートへ戻って練習再開しようぜ」

 だけど娘たちは、キャアキャア喜びながら俊の後ろへ回り、男の背を好奇の眼差しで見つめるじゃない。

 そして口々に感動の声を発した。

「わあ、すごーい」

「大地の摩擦力って、こんなに偉大なのね」

「これが勝利の遺産なのね」

「セクシーすぎるわあ」

 俊は自分の背を見ようとするが、見えない。

「へっ? へっ?」

 両手で背中やお尻を触って診てみると、服はパンツまでこすれて破け、皮膚に直接指が触れるじゃない。しかも偉大なる大地の摩擦力によってその背中やお尻の皮までひどく擦り剝けていて、俊はようやく針を何十本も刺された上に煮えたぎる熱湯をかけられたかのように痛むのを感じたのだ。同時に烈しい打撲を負った全身の骨もずんずん痛みだした。するとバイクで激突し砕け散るように宙を舞う記憶が俊の胸に鮮烈によみがえった。

 腹を抱えて笑っている留美の方へ、俊は吸い寄せられるようによろめき、彼女にしがみついていた。そして彼女の胸に顔をうずめて泣き出してしまった。

「うえーん、怖いよー、痛いよー」

「きゃあ、何すんのよ、このスケベ男」

 留美は俊を突き放そうとした。

 だけど俊は必死にしがみついて離れないのだ。

「ああん、だめえ」

 留美が苦しげに悶えると、隣の明美がやさしく言った。

「よかやんね、留美。俊コーチはあんたを助けてくれたとやけん、今だけ、しばらく泣かせてやらんね」

「で、でも・・」

 アンも青い目を潤ませて応援する。

「そうよ、留美。コーチがいなかったら、今頃、留美はひどい目にあっていたのよ」

 そうよ、そうよと、娘たちが次々同調する。 

 留美も観念して、片手で男の肩を抱き、もう片方の手で男の髪を撫ぜた。

「分かったわ。俊ちゃん、いいこ、いいこ」

 他の娘たちも俊と留美を取り囲み、キャアキャアはしゃぎながら順々に俊の髪を撫ぜた、

 俊は胸の温かさに酔い泣きしながら、『もう一日だけ、生きてみよう』と心で叫んでいた。

 











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