第3話 天地が裂けてもその手を離しちゃいけないんだ

 もう一日だけ、生きてみよう・・

 そう俊は思った。

 翌日の土曜日、朝の八時に中牟田市運動公園へ行った。テニスコートに近づくと、ギィーギィー耳障りな音が聞こえてきた。コートへ行くと、坂東留美と小原七菜がローラーをかけているじゃない。錆びついたローラーを地面を引きずるように二人で力を合わせて引いている。時々ローラーが錆を削って回ると、胸を掻きむしるような不快な音が発せられるのだ。

 留美はフェンス内に入って来た俊に気づくと、息を切らせながら吼えた。

「やい、ほら吹きコーチ、本当にローラーかけなんかで、日本一になれるんだね?」

 俊は背を向けてこっそり涙を拭きながら答えた。

「おう、そのすごいローラーは、最強の日本一養成マシンさ。大事なのは、それを信じて、ローラーかけをすることだよ」

「だけどこいつは、一人の力じゃ、ビクともしねえ。あたいら、手の指、錆びだらけ、血豆だらけだよ。そのうち、この錆びたハンドルかあたいらの腕のどっちか、折れちゃいそうだよ」

 そう言いながらも、留美は七菜と力を振り絞り、うんうん呻ってローラーを引きずり続ける。

 アン西田、永松由由、玉本夢香、仁科明美の四人の二年生が一緒に来て、ロッカーの裏で赤いチームジャージに着替えた。片山輝羅、遠山佐子の二人の一年生も着て、ピンクのチームジャージ姿になった。

 青い目のアンが、ローラーを引く留美に呼びかけた。

「留美と七菜だけでそれをやらないで、アンたちにもやらせてよ」

「やだね。あたいと七菜で、これやって、日本一になるんだ」

 と留美は拒絶する。

 由由が小さい目をいっぱいに見開いて驚く。

「わあ、ローラー引き日本一なんて、すごーい」

「違うよ。テニスでてっぺんとるのさ」

 と留美は説明しながら、汗だくの額を袖で拭いた。

 輝羅が顔を輝かせて聞く。

「ローラー引きで、テニス日本一になれるんですね?」

 七菜がハアハア苦しみながらもそれに答える。

「そうがよ。あのコーチが言うがは、このなかなか回らないローラーは、最強の日本一養成マシンながやって」

 アンの青い目がきらりと光った。

「ねえねえ、七菜ちゃん、アンとかわってくれるよね?」

 と言いながら、七菜を押しのけて、ローラーのハンドルを握った。

 もうコートの八割ほどローラーをかけていた。

「ちぇっ、そんなにやりたきゃ、一人でかけさせてあげるよ」

 と留美が言って、手を離した。

 そして留美と七菜はコートから出ると、死んだように大の字にダウンしてしまった。

「よっしゃあ」

 と叫んで、アンはハンドルを引っ張った。だけど全体重をかけて引いても、どんなに踏ん張って呻いても、ローラーはピクリとも動かない。とうとうしゃがみ込んで泣き出してしまった。

「ふえーん、アンは日本一になれないよう」

 由由が駆け寄って、ハンドルを持ち上げた。

「アン、泣かないで。ゆーゆが一緒に引いてあげるから」

 アンは一瞬で立ち上がった。だけど二人で引いても動かないのだ。

「先輩、わたしにおまかせあれ」

 と佐子が言うと、輝羅もすかさずハンドルに手をかけて、

「あたしも手伝います」

「しゃあないねえ。それじゃあわたしも」

 と、日本人形のように整った顔の夢香も加わって、ひいひい声をもらしながら五人がかりでやっと動いた。

 明美マネージャーが「頑張れ、頑張れ」と応援した。

 ローラーかけが終ると、選手たちは皆、大の字になって青空を見上げ、ハアハアぜえぜえ涙ぐんでいた。

「これで、ゆーゆたち、日本一になれるのね?」

 とつぶやき、由由が遙かな青空へ手を伸ばして笑った。

「やい、増田俊、ほら吹きコーチ、日本一になれんかったら、あたいが承知しないからね」

 と留美が近くに立つ俊を睨んで言う。

「日本一になることを信じ続けることだよ」

 と俊は言う。

 ベンチに座った明美が腕組みして批判する。

「信じれば日本一になれるとなら、百万人が信じたら、その百万人が日本一になれるとね? あんた、ほんとにほら吹きばい」

「明美の言う通りだよ・・」

 と俊は言う。

「信じるだけじゃダメなんだよ。一つ一つの練習を、一球一球、信じる思いを込めて、命を燃やし続けなきゃ。ボールを打つ時だけじゃない。ローラー引きや、ランニングや、体幹・筋肉・メンタルなどのトレーニング、ストレッチをする時も、同じように日本一の想いを込めて、一つ一つやるんだ。じゃあ、今からおいらが毎日やっていたウオーミングアップをやるよ。さあ、みんな、立って。おいらと同じようにやってみな」

 コート二面の周りを全身を回しながら走り、次に股関節を左右前後に伸ばしながら進んだ。それから二人ずつスピードを競うランニングだ。俊が傷ついた右足を引きずりながらも手本を見せ、高校生たちに実践させた。まずは後ろ向き、次に横向き、そしてラケットスイングの基本となるひねり・ひねり返しを入れた走りを競走した。それから、フォアボレーのフットワークラン、次にバックボレー、さらにスマッシュ、最後は短距離陸上選手のスタートダッシュの走り方を教え、サイドパスやショートボールを追うことを想定したダッシュを競った。痩せ猫のラッキーもどこからか現れて、人間たちを超越して駆ける。

 ウオーミングアップが終ると、娘たちはまたもバタバタとコートに大の字になってしまった。

「もうダメ。ゆーゆは、日本で二番目でいい」

 と由由が苦しそうに弱音を吐くと、

 夢香も目を白黒させて、

「わたしは日本で一億番目でいいから、もう帰らせて」

 アンも青い目を虚ろにして、

「アンも、もうバーミンガムへ帰るう」

 三毛猫に頬を舐められた留美が、上体を起こして俊に問う。

「やい、ほら吹きコーチ、あんた、こんなアップを毎日していたのかい?」

 俊はうなずいて、過去の熱い日々を思い出すようにコートを見た。

「大事なのは、一日一日、昨日よりコンマ一秒でも速く走れるように意識して走ることだよ。テニスは走るスポーツ。動きの速さが日本一になれなきゃ、てっぺんは取れないのさ。『動きの速さは日本一』これを毎日意識してフットワーク練習をすることが、第一のステップだよ」

 留美は猫を胸に抱いて立ち上がった。

「だけどよ、あんたは、これを毎日やっていたけど、日本一にはなれなかった。そうだろ?」

 俊はさみしそうに笑った。

「見ての通り、足をケガしちまったんだ」

 留美の目が険しくなった。

「何で、ケガしたんだい?」

「右の太ももを、ナイフで刺されたんだ。もう二年以上前のことさ」

 さみしい笑いがさらに翳った。

 険しい目が少しゆがんだ。

「だ、誰に、刺されたんだい?」

 俊は翳った笑いのまま首を振った。

「中学生のケンカに巻き込まれてね、大男に首を絞められて、意識が朦朧としていた時に刺されたから、誰だか分からないんだ。あとで東青山学園の先生たちが来て、無理やり口止め料置いて行ったから、その学園の生徒が刺したみたいだけど、犯人の名は教えてくれんかった。悔しいから、病院の屋上に上って、もらった札束、全部ばらまいてやったよ」

 七菜が思い当って「あー」と叫んだ。すると留美が立ち上がった七菜に駆け寄って、とっさにその口を掌で覆ったのだ。そして彼女の耳元に口を寄せて言い聞かせた。

「七菜は何も知らない。そうだよね?」

 なのに腕組みをした明美が、首を傾げてつぶやくじゃない。

「そういや、あんた、見たことある顔やねえ?」

「アンも、この顔、見た気がする」

 と言ってアンも明美と同じ動作をする。

 そういえばアンもあの事件現場にいたことを思い出して、留美は慌てて声高々に笑った。

「あはは、あはは、こんな顔、どこにでも転がっているじゃないか。あはは・・」

 それがあまりにも空々しいので、由由と夢香も続けざまに質問する。

「留美、ゆーゆに何か隠し事をしてるでしょう?」

「わたしたち、仲間よね? 隠し事なんて、しないよね?」

 彼女たちの問いかけを、留美は場外へ大きく蹴りだすように大声で言った。

「隠し事なんてないさ。さあ、もう練習の時間だよ。コーチ、コート整備もウオーミングアップも終わったんだ。最初の練習メニューを言いな」

 急に自分にふられたので、俊は「へっ?」と発していた。

「へっ、じゃねえんだよ。ほら吹きコーチ、あたいらを日本一にする練習をやらせるんだよ」

 俊は二つの籠にいっぱいのボールを見やった。予備の籠ももう二つあった。

「じゃあ、打ち込みから始めるよ。二人一組、四点に分かれて、一人が手で上げボールして、もう一人が後ろから前へ踏み込みながらライジングで打つ。打つ時、息を止めないために大きな声を出す。相手に読まれないフォームで、ストレート、ミドル、クロスに打ち分ける。前半はエースを狙える中ロブを打ち、後半は強いシュートで攻める。フォアもバックも同じだけ練習するんだよ。それぞれ籠のボールが無くなったら、球拾いして交替さ。一球一球、日本一になるって強く念じて打つんだ」

 由由が手を上げて質問する。

「ライジンだの、チューラブだの、意味分かんないけど、日本で二番目でいいゆーゆはさ、『日本二、日本二』って念じて打てばいいのかな?」

 彼女の小さくて純粋な目を見て、俊は真面目に答えた。

「結果は、日本で二番目だって、日本でビリだって、どっちでもいいんだ。大事なのはね、チャンプを目指して自分と戦う『今』なんだよ。今、一球一球を、日本一目指して打つことが大切なんだ」

 由由は嬉しそうにうなずいた。

 だけど夢香が腕組みをして不満げに俊を睨む。

「わたしはね、『通りゃんせのゆめか』って呼ばれてるんだ。相手の打ったボールに対して、ボレーもスマッシュも全部カラブリして通してしまうから、そう呼ばれているんだよ。あんたさ、日本一って言うけど、実力も才能もないわたしが、いったい何のためにそんなもの、目指すのよ?」

「人生が変わるからだよ」

 と俊は夢香の端整な顔を見つめて言う。

 夢香は白い頬をピンクに染めて怒った。

「わたしなんか、天地がびっくり返っても日本一なんて無理なのに、人生が変わるなんてありえないじゃない」

 俊も顔を熱くして訴える。

「じゃあ、金持ちの家に生まれることや、何かの天才的な才能を持って生まれることが人生だとでも言うのかい? 何を目指し、そのために今をどう生きるか、誰を愛し、そのために今をどう生きるか、そっちの方が大事な人生だと、おいらは思うな。そして、人生を山登りに例えるなら、近くの大豊山の頂上目指して登るのと、富士山の頂上目指して登るのとでは、違う人生だと思うんだ。景色も違えば、一歩一歩の心意気も違う。おいらたちは、いつもいつも、坂の途中にいてさ、大事なのは一日一歩でもいいから、前へ進むことなのさ。足をケガして何もかも失っちまったおいらから見たら、それができるおまえは、本当に幸せ者なんだよ。だいたいおまえは、一人じゃないじゃないか。一緒に手を取り合って頂上目指す仲間がいるじゃないか。たとえおまえがちっともうまくなれず、県大会の一回戦で敗れたとしても、そんなおまえが日本一目指して一生懸命努力したなら、それが他の者たちの大きなパワーになるんだよ。チームの誰かが日本一になるためには、そんなパワーが必ず必要なんだ。チームのみんなが、励まし合い、信じ合い、愛し合い、手を取り合って前進することで、一人では成し遂げられない奇跡が生まれるんだ。だからおまえたちは、決してその取り合った手を離しちゃいけないんだ。たとえ天地が裂けて、異星の住人となっても。たとえ誰かの肉体が滅び、魂だけの存在になってもね」

「何言ってんのか分からないけどさ、おまえ、おまえ、言うな。わたしには、夢香って名前があるんだから・・」

 そう言って、夢香は燃えるように俊を見た。そして少し震えた声でこう確かめた。

「でも、一生懸命やっていれば、わたしも、みんなに必要なのね?」

 俊は笑みを浮かべてうなずいた。

「うん。夢香だって必要なんだ。この青空と同じように」

 空を見上げる男につられて、娘も上を見た。

「意味分かんないよ」

「この青空が無くなったら、悲しいだろ?」

「そりゃ、悲しいけど」

「どうして悲しいんだろ?」

 と俊は問う。

 夢香は首を傾げながらも、

「そりゃ、ずっと一緒に過ごしてきたから、ずっとわたしらを見守ってくれているから」

「おいらたちも、この空が汚されないように、ずっと見守らなきゃね。そしてここにいる仲間たちも、ずっと見守り合わなきゃね」

 と俊は言う。

 キャプテン留美がじれったそうに言う。

「さあ、もういいだろう? 早く練習に入ろうぜ」

 なのに由由がまた手を上げて俊に質問する。

「もう一つ聞いていいかな? 日本一を念じて、ボールを打つって言うけど、世界一じゃダメかな? ゆーゆは、世界一の方が念じやすそう」

 俊は笑って答えた。

「ぜんぜんいいよ、ゆーゆ。ソフトテニスはね、今、日本と韓国と台湾が世界大会の三強で、日本一を目指すってことと、世界一を目指すってことは、そんなに違いはないのさ。だから、日本一、世界一、どっちを念じてボールを打ってもいいんだよ」

「じゃあ、ゆーゆは、日本二でも日本一でもなく、世界一を念じてボールを打つわ。わあ、テンション上がるわあ」

 由由は打ち込みの場へと、天国へ駆け登るようなスキップで跳ねて行った。





















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