第2話 ローラーブラシにされた痴漢野郎

 中牟田市営テニスコートは、馬幌城址の南東にある紅玉高校から西へ一キロメートルほどの運動公園の一角にある、砂まじりの黒土のコートだ。ほころびだらけの錆びた金網フェンスに囲まれ、壊れかけた照明が付いている。二面あるが、一面は草が生え、ラインも半分剥がれ、ネットも壊れているようだ。十年ほど前、近くに八面ある人工芝の県営コートが出来たため、一般の利用客は次第に減り、今では紅玉高校ソフトテニス部女子が使っているだけだ。

 金曜の午後二時に増田俊が行ってみたが、誰もいない。いや、一匹だけ、いた。痩せた三毛猫だ。俊がフェンス内に入り、古い木製のベンチに座ると、ミャアミャア嬉しそうに駆け寄って来る。抱き上げてよく見ると、一昨日、馬幌城址で出会ったあの三毛猫にそっくりだ。手の平で頭と耳を撫ぜると、グールグール喉を鳴らす。

 制服を着た娘たちが四人現れ、自転車をフェンスの外に留めた。紺のコートを重ね着した無精髭の俊をじろじろ見ながら、彼女たちはフェンス内に入り、奥まで歩いて、物置の裏へ消えた。猫も俊の膝から跳んで、彼女たちを追って消えた。

 俊も、留美って娘にここへ来るよう誘われたことを伝えようと、そちらへ歩いたのだ。そして物置の裏を覗き込み、見てはいけないものを見てしまった。

「へっ?」

 固まる俊の視線の先には、四人の娘がトレーニングウェアに着替え中で、不審者と目が合うと、三秒ほどの永い永い凝固の後、「きゃあきゃあ」悲鳴がほとばしった。

 靴や鞄や猫までも、俊へ投げつけられるじゃない。


 その頃、紅玉高校ソフトテニス部キャプテンの坂東留美は、二人の部員と一緒に自宅を出て、テニスコートへと歩き出した。

「いいな、留美先輩は、学校へも、テニスコートにも、家から歩いて行けるがやから」

 としゃべるのは、身長が百四十八センチしかない、色黒の四角い顔にショートの黒髪がピンピンはねている娘だった。

「テニスの練習がたくさん出来るように、家の近所のこの高校を選んだのさ」

 と留美は言って、かわいい後輩の髪を指先でさわった。

 はねた髪をいじられた娘は、細い目をさらに細めて留美を見上げ、訴える。

「わたし、留美先輩と日本一になるために、紅玉へ転校して来たがですよ。春の県大会は、必ず東青山にリベンジしましょうね」

 留美の向うのやや大柄の娘が冷ややかに言う。

「七菜、秋の県大会でコテンパンに負けたばかりのくせに、日本一だなんて笑わせるばい。そもそも、あんた、東青山学園でイジメられて、転校して来たとやんね」

「明美マネージャーだって、わたしらが東青山に勝つことを、誰より望んでいるがでしょう? 真凛先輩に肩を痛められて、テニスができんようになったがでしょう? だったら、わたしらが東青山学園に勝てるように、もっと厳しいメニューを考えて下さいよ」

 そう先輩に咬みつく小さな娘は小原七菜。東青山学園中等部の時、一つ上の先輩の留美とペアを組んで、個人戦で全国ベスト8に入った娘だ。

「ちぇっ、うちは、今が楽しけりゃ、それでよかとよ」

 と応えるマネージャーは、ホームベース型の顔に大きな目、長い茶髪で、大きな口に八重歯が目立つ、仁科明美だ。

「ところで、今日、テニスコートに男を一人呼んでいるんだけどさあ」

 と留美が増田俊のことを切り出す。

 明美が目を丸くして留美を見る。

「留美、あんた、男ができたと?」

 留美は胸の前で手を振った。

「違うよ。そいつは、今は足をケガしてテニスを引退しているけどさ、元は全国トップレベルの選手だったんだ。それで、一つだけ、あんたらにお願いがあるんだけど・・もしも、過去にそいつとあたいの関係が何かなかったかって、そいつに聞かれたら、何にも知らないって、答えてくれないかい?」

 明美が首をひねった。

「何か怪しかあ。留美、その男と、昔、何かあったとやね?」

 留美はそれには答えず、

「ただ、あたいとそいつとの過去など何にも知らない、って答えりゃいいんだよ。七菜、あんたも、お願いね」

 七菜は疑わしそうに留美を見上げたが、

「わたしは、留美先輩のお願いなら、空だって飛ぶっちゃ。あ、あれっ? 何け、あの騒ぎは?」

 テニスコートの方からきゃあきゃあひいひい異常な声が聞こえる。三人が駆けて行くと、四人の部員が右足を引きずって逃げる男を追いかけ回し、ラケットでポカポカ叩いている。

 慌ててフェンス内へ入った留美が呼びかけた。

「ちょっと、あんたら、何してんの?」

 留美に気づいた俊が走って来て、彼女の背に避難した。

「た、助けて」

 と息を切らせながら哀願する。

「ゆーゆ、ゆめか、何でこの男を追っかけているんだい?」

 と留美は赤いジャージを着た二人の仲間に尋ねる。

 胸に『永松由由』のネームを入れた、頬が広く、目は小さめで、がっちり体型の娘が告げる。

「その不審者、きっと痴漢よ」

 胸に『玉本夢香』とある、日本人形のような色白細目細唇の痩せた娘が教える。

「そいつ、わたしたちの着替えを覗いたのよ」

「な、な、なーんだってえ?」

 振り向いた留美の顔は、怒れる魔人と化していた。

 俊は涙目になってプルプル首を振った。

「ご、誤解だよ」

「ゴカイもロッカイもないんだよ。あんた、覚悟はできてるね?」

「おいら、痴漢じゃないもん」

 俊が必死でそう言うと、ピンクのチームジャージを着た大柄で丸顔の娘が、俊を指さして、ハスキーな声を出す。

「あー、この男、嘘つきだあ。この男が、あたしの下着をじいと見るのを、あたし、この目ではっきり見たんだから」

「おいら、ヒョウ柄の下着なんて、興味ないもん」

 とパニクっている俊は言ってしまった。

「キララ、本当だね?」

 と留美が確認すると、胸に『片山輝羅』とネームが入った娘は二度うなずいて、服をめくり上げ、まぶしいヒョウ柄を披露するじゃない。

「留美先輩、あたしのこの目と、ヒョウ柄のこの下着が、動かぬ証拠ですよ」

 すると輝羅の隣のピンクのチームジャージのスリムな娘もこう言う。

「おうおう、この痴漢野郎、あんた、このわたしの下着の柄も、忘れたとは言わせないぜ」

 彼女は天然パーマの黒髪の娘で、胸のネームは『遠山佐子』だ。

「おいら、桜吹雪なんて・・」

 とテンパっている俊はもらしてしまった。

 佐子は輝羅に負けじと服をめくり上げて言う。

「ほら、目ん玉ほじくって、よおく見やがれ。あんたの悪事、わたしの胸に咲いた、この桜吹雪がお見通しなんだよ」

 佐子は彼女の名字と同じ遠山の金さんにハマっているのだ。

 永松由由も後輩と競うように自分の胸に手を当てて俊に問う。

「ねえ、あんた、ゆーゆの下着の色も、忘れちゃいないよね?」

 自分のことをゆーゆと言う娘を見て、俊は「うーん」と首をひねった。

 由由は小さな目を吊り上げて、留美に言う。

「キャプテン、その極悪人を、ゆーゆに渡しな」

「ほら、こんなやつ、焼くなり煮るなり、串に刺すなり、好きにしな」

 と言いながら、留美は小さくなって震える俊の首根っこをつかんで由由に差し出した。

 すると世界を壊す音を発して俊の頬を由由が叩くじゃない。

 くっきり手形が残った頬を手で押さえて、俊は涙目で怒れる娘を見た。

「おいら、ビンタなんか、嫌いだ」

「勝負下着だったのに」

 と由由は叫んで、反対の頬も叩いてしまった。

「そうとは知らず、ごめんなさい」

 頭を下げる男の栗色の髪をぎゅっとつかんで、留美が怖い声で言う。

「ごめんで済むなら、この世に裁判官は必要ないし、あの世に閻魔様もいらないんだよ。あんた、この罪は、きっちり償ってもらうからね」

「へっ?」

 つかんだ髪をねじって、留美は俊を振り向かせた。そして閻魔よりも恐ろしい目で睨むのだ。

「これからあんたは、あたいらのシモベだよ。あたいがあんたのご主人様さ。いやだと言うなら、痴漢の罪で、警察に突き出してやるからね。まずは罰として、あたいらにテニスを教えるんだ。あたいらが来年の春夏、東青山学園に勝って日本一になれるようにコーチしな」

 留美が髪から手を離すと、俊は一瞬身震いした。そして、

「おまえ、本当に日本一になりたいのかい?」

 と問うと、熱く溶けた鉄のように睨み返した。

 留美は溶かされそうな心を隠し、まばたき一つせず見返していた。

「今から、あんた、あたいらのコーチなんだから、あたいのことは、おまえじゃなくて、留美って呼びな」

「じゃあ、留美、日本一になりたいなら、まずは下半身作りだ。ローラーを一人で引いて、コート整備をしてもらおうか」

 増田俊コーチの最初の課題に対して、キャプテン留美は腕組みをしてフッフッフと笑った。

「分かったよ。コート整備だね。だけどあいにく、ここのローラーは錆びて動かないし、ブラシは抜け毛だらけなんだ。そこであんたの出番だよ」

 その意味深な言い方に、俊の頭に『危険』の文字がブクブク沸きあがり、警戒警報が響いたのだ。

「おいらの出番って、いったい何をするのかなあ?」

 と問いながら、俊は一歩、二歩、後ずさりしていた。

 留美は体格のいい輝羅と由由にコソコソ耳打ちした。それから俊ににっこり笑いかけながら告げた。

「決まっているじゃないか。痴漢行為の罰として、あんたが、ローラーブラシになるんだよ」

「さよなら」

 と言って風のように逃げかける男を、娘たちがすぐに捕まえて引き倒した。

「へっ? へっ?」

 輝羅と由由が仰向けの俊の足を片方ずつ持って、きゃあきゃあ喜びながらコートの上を走りだすじゃない。ローラーブラシとなってコートを引きずられる俊を見て、痩せた三毛猫が目を輝かせて追い回した。

「それじゃあ重量が足りないね」

 と留美が言って、サーフボードに飛び乗るように俊の胸と腹に足を乗せてしまった。そして両手を開き膝を曲げてバランスを保つのだ。

「鬼、悪魔、サディスト」

 と俊は叫んでいた。

 すらりと伸びる赤ジャージの足の上方で、留美の笑顔が青空に弾けた。

「あたい、あんたを気に入ったから、これからもあたいらのオモチャにしてあげるね。ほら、猫のラッキーもあんたの髪でタマとってるよ」

「おいら、ローラーブラシなんて、嫌いだ」

 と俊がつぶやいた時、遅れてきた部員が一人、コートに入って来た。制服のままきゃあきゃあ駆け寄って来る。

「うわあ、いいな、サーフィンごっこやっているのね? 留美、お願い、お願い、アンもライドオンさせて」

 そうねだるのは、身長百五十五センチほどの赤毛髪を三つ編みにした、大きな青い目が目を引く娘だ。

 留美がカーブで体勢を崩して男の上から落ちると、青い目のアンは待ってましたとばかりに飛び乗った。留美が由由と交代し、輝羅と一緒に男の足を持って荒々しく引きずった。

 アンは落ちないように体幹を整えながら、足の下の男に聞いた。

「ユーは、誰?」

 揺れるスカートの隙間からまぶしい腿が見えるので、俊はサーフボードのフリをした。

「あいら、しがないサーフ板さ」

 と俊が自己紹介すると、由由がアンに注意した。

「アン、そいつはゆーゆたちの着替えを覗いた痴漢よ。気をつけないと、パンツ見られるよ」

 アンはきゃっと発して両手でスカートの裾を押さえた。

「サーフ板さん、まさかウオッチしてないよね?」

「おいら、しがないサーフ板だもん」

 と俊はうそぶく。

 彼の足を引く留美が追及する。

「サーフ板さん、アンのパンツは何色なのさ」

 俊は首を振ってとぼけようとしたが、ついつい、

「おいら黄色のパンツなんて知らないもん」

 なんて口をすべらせてしまった。

 アンはきゃあきゃあわめきながらも降りるのは嫌だから、少しでも見られないように両足を男の下腹部へずらしていった。

「ア、アンちゃん、だ、だめだよ、そんなところに足を乗せちゃ、あっ、だめ・・」

 と俊は身をくねらせて訴えた。

 アンは落ちないように必死で足をくねくねさせ、

「だって、ユーは、ウオッチしたでしょう?」

「だ、だからといって、そこは、あっ、だめ・・」

 だめだめと口から泡を吹くように俊はもらした。目の前が黄色くなり、その表情が恍惚となった。泥にまみれて揺れる栗色の髪を、『ラッキー』と名付けられた猫が夢中で追い回していた。











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