太陽もひとりぼっち

ピエレ

第1話 死にたい青年と生きたい娘の大勝負

「あたしって綺麗?」 

 と囁きながら紅葉がひらひら死にゆく中、汚れた紺のコートを重ね着した男が一人、もうひと月も剃っていない髭を指で掻き、右足を重い鎖を引きずるように歩いていた。

 ここは中牟田市最北の馬幌城址。遥か昔に天守閣は焼け落ち、その址に建てられた神社の鈴を、その男は深い涙を零しながらジャラジャラ鳴らした。

「神様、おいら、もう、生きていてもしょうがないですよね?」

 そう確認するように尋ねると、薄暗い拝殿の奥に、二つの瞳が見開くじゃない。

「か、神様?」

 よく見ると、瞳を光らせた三毛猫が一匹、立ち上がってゆっくり近づいて来る。無精髭の男は背を向け、拝殿を離れた。それからお化けが潜んでいそうな古井戸の横を通り、大樹並ぶ北端まで歩いた。

 城址の最北から見下ろすと、城壁の三十メートルほど下方の天宝川が、西に傾いた太陽の影を呑み込んで世界じゅうの宝石を揺らすように輝いている。一歩踏み出すと、眼下の景色が大きく黄泉へと近づき、城壁の石に乗せた左足ががくがく震えた。

「おいら、鳥になるんだ・・」

 そうつぶやく唇が夢見るように笑った。

「誰よりも速く走り回れた、あの頃のように。そして、天国の父さん、母さん、おいらを迎え入れておくれ」

 健康な左足を蹴って前方へ飛び立とうとした時、何かが右足に当たった。

「へっ?」

 足元を見ると、痩せた三毛猫が一匹、何かを訴えるように喉を鳴らしている。神社の中にいた猫のようだ。しゃがんで頭を撫でると、「ミャア」と鳴いて、猫は男の胸へ跳び上がり、肩へと駆け上るじゃない。「うわっ」と驚いた男を意地悪な風が押すものだから、よろめいた男は足を踏み外して地獄の底へと堕ちそうになってしまった。城壁の石に必死にしがみついて生の世界へ這い上がる彼の肩で、三毛猫は「ミャアミャア」騒いでいる。男が呻り声をあげて登るから、猫はびっくりして走り去った。

 大樹の下で大の字になって息を切らしていると、限りない青空が男をやさしく抱いてくれた。

「父さん、母さん、おいら、どうしてまだ生きているんだろう?」

 そう彼方の空に尋ねると、さっきの三毛猫が「ミャア」と甘える声を出しながら胸の上へ跳び乗って、喉を鳴らしながら男の髭を舐めた。小さな頭や喉を指で撫でながら、男は三毛猫に話しかけた。

「お腹すいてるのかい? なんだったら、おいらの腹を切り裂いて、おいしい内臓あげようか? おいら、どうせ死ぬんだから。おまえ、誰かに捨てられたのかい? おいらも、会社や、いろんな人に裏切られちゃった。まだ入社して一年もたたないのに、上司の失敗を押しつけられて、クビってわけさ。まったく、人間の世界ときたら、損か得かで付き合っちゃってるんだよ。わっ、くすぐったいよ、そこ、舐めんなよ。あれっ、この音は?」

 南の方から風に逆らって聞き覚えのある打球音が聞こえてきた。男は猫を手の平で支えながら、上体を起こし、大きなブラウンの目を見開いてそちらを見た。赤のウインドブレーカー姿の娘が一人、神社の横でソフトテニスの壁打ちをしている。でこぼこの城壁へ打ち込むので、ボールは予期せぬ方向へと跳ね返るのだが、娘は素早いフットワークで追いつき、ゴムボールを叩き潰すようにラケットを振り切って打ち返す。それを何十本も続けるのだ。

『全国トップレベル?』

 と思いながら、男は三毛猫の耳を撫ぜていた。

 猫も目を妖しく光らせ、ボールの動きを追っている。しばらく打っていると、何に当たったのか、突然ボールが急角度にそれて、古井戸の方へ弾け飛んだ。その瞬間、猫が男の手に爪跡を残して飛び立ったのだ。こちらへ飛んで来る白球へ、目にも留まらぬ本能のスピードで駆け、あっという間にそれをくわえると、追いかけて来た娘から逃げるように男の方へ戻って来た。そして立ち上がった男の足元に、その戦利品を捧げるのだ。

「おい、こら、泥棒、あたいのボールを返しやがれ」

 と叫びながら、娘が走って来た。

 娘は丸顔で、大きな二重の目は輝くブラウンの虹彩で、大きな口から八重歯がキラリ、ナチュラルウエーブの栗色の髪はショートカットだ。身長は百六十五センチくらいで手足が長い。

 敵意剥き出しの足音に、痩せた三毛猫は白いしっぽの毛をボワッと逆立て、

「フーフー」

 威嚇した。

 無精髭の男はソフトテニスのボールを拾い上げ、悲しい目でそれを見つめた。駆け寄った娘がそれを「泥棒め」と言いながら荒々しく奪い取った。そして「あー」とわめいたのだ。

「あー、唾ついてるじゃない。きったねえなあ。あんた、何してくれてるの? 警察に突き出してやろうか?」

「へっ?」

「へっ、だってえ? この稲妻留美をバカにするやつは、サンダーフラッシュでずたずたにしてやるからね」

「サンダーフラッシュ?」

「あたいの決め技さあ」

 そう得意げに言ってラケットをビュッと一閃させる彼女の名は坂東留美、中牟田市立紅玉高校ソフトテニス部のキャプテンだ。

 留美は男の顎の無精髭を指先でつかんで、自分の顔に引き寄せた。

「あたいのボールに唾つけた、この落とし前、あんた、どうしてくれるのさ?」

 男は留美の美しい瞳に戸惑いながら、足元の三毛猫を指さした。

「この猫さ、きっとお腹がすいているんだよ。何か食い物、持ってないか?」

「さては、あんた、物乞いかい?」

 留美は、猫には目もくれず、「違うよ」と首を振る男の長く洗っていないような埃だらけの髪や泥に汚れたコートをじろじろ見た。

「唐揚げパンなら鞄に入っているけど、百万円出すなら、売ってあげてもいいぜ」

 留美は冗談で言ったのに、その男ときたらコートのポケットに手を入れてまさぐるじゃない。だけど彼が差し出したのはただの百円硬貨だ。

 留美は受け取ろうとはせず、

「これは、何の戯事だい?」

「百万円だよ」

 男は目じりに皺を寄せて笑う。

 だけど留美の目は、戦い前の格闘家のように据わっているのだ。

「おうおう、これが百万円だというのなら、一万円札一枚で豪邸が建つぜ。言ったよね? あたいをバカにするやつは、サンダーフラッシュでずたずたにすると」

 そう言うと、留美は指先でつかんだ顎鬚をぐいぐい引っ張った。

 すると男は、顎を引くどころか、逆に留美の顔へキスするくらいに近づけてきたのだ。男の目は留美と同じブラウンで、ハッとするはど綺麗だった。留美はその時、彼がまだ二十代前半の青年で、しかもその目に見覚えがあることに気づいた。頭では誰かは思い出せないが、胸の鼓動が覚えているかのように高鳴ったのだ。

「だったら、おいらと、賭けをしないか?」

 と提案する青年の無精髭を留美は慌てて離し、息の届かない距離へ顔を引いた。

「賭けって?」

 と問う声がうわずってしまった。

 青年の目が輝きを増した。

「今さっき、おまえは、あの城壁めがけて壁打ちしてただろう? おいらとおまえ、どっちが強く、正確に、長く壁打ちを続けられるか、勝負しよう。おいらが勝ったら、百円で、おまえの唐揚げパンをこの猫に与えてくれ」

 留美の大きな唇の両端がキュッと上がった。

「賭けだというのなら、あたしが買ったら、あんた、あたしの言うこと、聞いてくれるのかい?」

 腕組みをして、胸を張り、留美は青年を呑み込むように見つめる。

 その瞳があまりに神秘に輝くので、青年はついつい、

「死ねと言われりゃ、死ぬよ」

 留美の瞳が樹間の満月のように大きく見開いた。

「男に二言はないよね? あんた、あたいの言うこと、何でも聞くってことだよね?」

 留美は先に壁打ちができる城壁の前へ歩いた。猫を抱いてついて来る男を見ると、右足を引きずっている。

「何だい? その変な歩き方は? そんな足であたいに勝とうなんて、百万光年早いんだよ」

 鼻で笑う娘を青年は意味ありげに見つめた。

「そんなに自信があるなら、先に打ちなよ。勝負は何が起きても一回きりだ。それでいいかい?」

 留美はラケットを手に取り、バトンのように器用に回しながら言う。

「オーケー、あたいの凄さにオシッコもらさぬよう、心して見ときなよ」

 留美がボールを城壁へ打ち込むと、いきなり右に大きくそれて跳ね返って来た。だけど留美はそんなの想定内だと、軽やかなフットワークで追いつき、正確なフォアハンドでボールを叩き潰すように打ち返した。すると今度は左へそれて跳ね返るじゃない。それでも彼女は目にも留まらぬ足さばきで追いつき、腰のひねりを利かしたバックハンドで華麗な音を立てて打ち返す。

 青年の瞳が円く輝いた。眼前で見るその娘の脚力に、驚異の能力を感じたのだ。様々な方向へ跳ねて戻るゴムボールに対して、第一歩の反射神経が超人的なのだ。さらに遠いボールを追いかける加速力は獲物を狙う肉食獣のよう。青年の胸に抱かれる三毛猫も毛を逆立ててそれに見入っている。

 留美の記録は五十七球だった。ボールが下方へ急変して跳ね返った時、前へのダッシュが及ばなかったのだ。

「さあ、あんたの番だよ。あんた、テニスしたこと、あるのかい?」

 と言いながら、留美は青年にラケットとボールを渡した。

「もう二年以上、やってないけど、五十七球なんて、楽勝だぜ」

 青年は、ボールを打つ前に、壁まで歩いて、城壁に手の平を当てながら左右に歩いた。

「あんた、何してるのさ?」

 と留美が聞くと、青年は振り返らずに答えた。

「おいら、右足をケガしてるんだよ。おまえみたいに素早く走れないから、できるだけ平らなところを探しているんだ」

「何だい、卑怯なことをするもんだね」

「これは、テニスの真剣勝負なんだぜ。相手をより深く研究した方が勝てるのさ。今は、このでこぼこの壁が対戦相手なんだから、当然のことじゃないかい? もし、おまえが、それだけの能力を持っているのに、試合に勝てないとしたら、対戦相手の研究と対策がなっちゃいないからじゃないのかい?」

 青年はようやく平らに近い五十センチ四方ほどの岩壁を見い出し、そこへ向けて壁打ちすることに決めた。そして重ね着しているコートを二枚とも脱いで、近くの木の枝に掛けた。

 留美は足元にじゃれついてきた痩せた三毛猫を抱き上げながら言った。

「どうせ十本も続かないんだから、早くやりな」

 猫を見つめると、美しいエメラルドの虹彩と黒い瞳で見つめ返してきた。物欲しそうに「ミャア」と呼びかける。胸に抱いて頭を撫でると、喉をグールグール鳴らして甘える。

 ボールを打つ音が聞こえたので、留美も三毛猫も白球の動きを目で追った。白球は一つの岩壁に命中して返って来る。しかも打った時適度なドライブ回転がかかっているので、壁で上向きに跳ね上がって、ちょうど打ちやすいボールが返って来る。十本中一本は目標の区間を外して左右にそれて返って来るのだが、青年は左足だけでも魔法で瞬間移動するかのようにさっと動いて、正確に返球するじゃない。その華麗なフォームに留美は見覚えがあった。

「あ、あんた、何者なのよ?」

「勝負中に話しかけるなんて、マナー違反だよ」

 青年の注意を無視して、留美はなおも、

「あたいだって、名乗ったんだから、あんたも、名を言いなさいよ」

「増田だよ」

「増田って、えっ、ええっ? もしかして、増田、俊?」

「へっ? 何で知ってる?」

 動揺した俊が打ったボールが、わずかに右にそれたが、斜めの岩に当たって逆に左へ返って来た。どうにか踏んばってバックハンドで打ち返す。

「え? そ、それは、そ、そうだよ、増田俊といえば、ソフトテニスじゃ有名人だったから」

 留美の声は明らかに動揺している。

 俊は打った数を忘れないように「四十、四十一」と声に出して打った。

「ちょっとお、あんた、まさか、か弱い女子校生相手に、本気で勝つつもりじゃないよね?」

 急に甘えた声色になって留美は訴える。

「勝負に情けは無用なのさ。四十四、四十五」

 完璧なストロークで俊は続ける。

 留美はすぐ近くの神社へ駆けて、ジャラジャラ鈴を鳴らして祈祷した。

「神様仏様、今すぐあの男をミスらせて下さい。ええい、ミスれ、ミスれ、滑って転んで記憶を失え」

「四十九、五十」

 留美は駆け戻って、俊のすぐ横でわめきたてる。

「ねえ、お願い、ミスってよ。ミスってくれたら、唐揚げパン、タダであげるから」

 それでも俊は動じない。

「人生そんなに甘くないのさ。五十三、五十四」

「ミスってくれたら、キスしてあげるから」

「へっ、ほんと?」

 俊は五十六球目を打ったのだが、そのボールは力が抜けて左へそれてしまった。さらに岩壁で左へバウンドし、留美よりも横へ返って来るじゃない。留美の唇の端が吊り上がり、瞳がキラリと光った。俊が留美を押しのけて走った瞬間、留美は胸に抱いていた三毛猫をボールの方へと放した。猫の目もキラリと光り、持って生まれた芸術的な狩り能力で駆け、大ジャンプ、俊がラケットで打つ前にパックリ、ボールをくわえてしまった。そして呆然と固まりヒビ割れる男を残して身をひるがえし、きゃあきゃあ喜ぶ留美の足元へ戻って戦利品を献上した。

 留美は近くのベンチに置いていた鞄から唐揚げパンを出して、「いい子、いい子」と褒めながら、ベンチに駆け上がった三毛猫に唐揚げを与えた。猫はミャウミャウ幸福の声をあげながらそれにかぶりつく。

 コートを着た増田俊が魂を抜かれた顔でベンチへ来て、留美にラケットを返し、「さよなら」と風に消えそうな声で告げ、背を向けた。だけど去りかけた男の紺のコートの襟の後ろを、留美がむんずとつかんだのだ。

「ちょっと待ちな。あんた、大事なことを忘れちゃいないかい?」

「へっ?」

 俊は振り向こうとしない。

「あんたは、勝負に負けたら、あたいの言うこと、何でも聞くって言ったんだ」

「だって、その猫がボールを横取りしたから・・」

「人生、そんなに甘くはないんだよ。『猫も歩けばボールに当たる』って、諺にもあるだろう?」

「よくそんな難しい言葉を知ってるね」

「あたいは物知りなんだよ。あんた、言ったよね? 勝負は何が起きても一回きりだって。あんたは、この大勝負に敗れたんだ。あたいの言うこと、何でも聞いてもらうからね」

「何でもって、例えばどんな願いだい?」

「あんた、インカレ三位の、あの増田俊だろう? だったら、あたいがソフトテニスで日本一になるまで、あたいの練習に付き合ってもらおうか」

 ようやく男が振り向き、娘の顔を覗き込むように見た。

「おいらのこと、知ってるみたいだけど、もしかして、会ったことがあるのかい? そういや、この顔、どっかで見たことがあるような?」

 留美は男のコートから手を離し、身震いするように首を振った。

「あ、会うのは、初めて、だよ・・」

 と言ったが、苦しい嘘で頬に火がついた。

 目の前の男にとって、自分は彼の人生を奪った仇のような存在なのかもしれない。それでも留美にとって、生きる希望はこの男しかないと烈しく感じ、こう続けて言ったのだ。

「ただ、大会で、あんたの試合、観たことがあるから、知ってるんだ。あ、それと、ネット動画でも、あんたの試合、観たよ。と、とにかくさあ、明後日の金曜日、学校の定期テストが終わるから、あんた、午後二時に、紅玉高校の西にある市営コートに来てくれよ。ここからすぐ近くだよ。あたいら紅玉高校ソフトテニス部は、そこで練習しているんだ」

 俊はうつむいて首を振った。

「おいら、テニスはやめたんだ」

「だから何だよ? あんた、何だって言うこと聞くって、約束したんだ。これは、男と女の約束だよ。男と女の約束はね、法律より絶対だし、地球より重いんだ」

「いっそ、死ねって、言っておくれ」

「おう、おう、約束破ったら、その顔、キイロスズメバチの巣にぶち込んでやるからね。そしたら、その顔、ゴム風船のように膨れあがって破裂して死ぬのさ」

「へっ?」

『おいら、そんな死に方、嫌いだ・・』

 と俊は心でつぶやいていた。そして、とりあえず明後日まで生きてみよう、と思った。

 夕陽が最後の叫びを数知れぬ紅葉にぶつけ、絶望から這い上がろうともがく娘の顔を紅く燃え上がらせていた。










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