彷徨えるマネキン人形(7/9)

 十三番研究室の学生の一人、阿部遼子がその時三丁目の通りを歩いていたのは全くの偶然だった。

 気分転換も兼ねたちょっとした買い物の帰り道だったのである。

 右手に買い物袋をぶら下げ、左手を口に当ててふわぁと小さく欠伸をする。最近寝不足なのだ。

 ――と、前方から何やら怒鳴り声と車のクラクションが聞こえてきた。

 何事かと目をそちらへやると、一台の自転車が猛スピードでやってくるのが見える。まるで競輪の選手のような前屈みの体制で通行人や他の自転車を縫うように走っていた。かなり無茶な運転だ。

 どこの馬鹿よ、と遼子は顔をしかめたが、

「あれ? あれって……」

 その運転手に遼子は見覚えがあった。同じ研究室の平井だ。何故か白衣を着たままだし間違いない。

 なにしてんの? あいつ。

 どちらかといえばトロい印象だったのだが、何か余程のことがあったらしい。

 とりあえず、このままでは轢かれかねない。遼子は道の脇へ寄った。

 平井はひたすら「すみません!」「どいて!」などと叫びながら必死の形相で駆けてくる。

 そして遼子に気付く様子もなく、そのまま向うの曲り角へ滑り込むように入っていってしまった。

 遼子は唖然としてそれを見送っていたが、やがて肩をすくめて、

「何だったのかしら」

 研究室に戻ったらで晴美にでも聞いてみるか。あの子なら知ってるでしょうし。

 そんなことを考えながら研究室へ向けて再び歩き出したときだった。

 ――キキーッ、と悲鳴のようなブレーキ音が突然背後で響き渡った。

 そして直後に、でかい空き缶が潰れたような不吉な音が続く。

 遼子は振り返り、茫然として立ち尽くした。

 他の通行人も立ち止まって同じ方向を見つめている。

 見たところ別に何かが起きた様子はなかった。

 だが、次の瞬間目に入ってきたものに遼子は愕然とした。

 曲り角の向うから、自転車の車輪が一つ、酔っ払ったようにふらふら転がり出てきた。静止画のような光景の中、車輪だけは何事もなく転がり続け、塀にぶつかってぐわんぐわん揺れながら次第に動きを止めた。

 持っていた買い物袋が手から滑り落ちたが、遼子は気付かなかった。

 ……どう考えても、その車輪はたった今すれ違った平井の自転車のものだった。


「嘘……」

と、晴美は言った。

 自分でも頭から血の気が引いていくのが分る。

「本当よ」

 遼子は肩を上下させながら言った。

 晴美や教授に知らせるために大急ぎで帰って来たのだ。

「すぐに野次馬が集まっちゃったからよく見えなかったけど、どう考えたってあれは……」

「嘘」

 晴美はもう一度言った。まるで機械のような抑揚のない声だった。

 遼子は少し戸惑って、

「でも、確かに――」

「嘘よ!」

 晴美は大声で叫ぶと駆け出した。

「ちょ、ちょっと晴美!」

と、遼子の声が背後から聞こえたが、晴美は止まらなかった。



 遼子から聞いた場所には人だかりができていた。

「嫌ねえ、事故なんて」

「轢かれた奴はどうなったんだ?」

「とっくに病院に決まってるさ。まあ助からねえだろうなあ」

「見てよあの自転車。酷いわね。あんなふうになっちゃうのね」

 好き勝手に喋る野次馬を掻き分けて前に出る。

 思わず息を呑んだ。

 赤いランプを点けたパトカーが数台停まっている。黄色いテープと見張りの警官で囲まれた中で、刑事らしい強面の男が手帳片手に中年男と何か話をしていた。その後ろには大型トラックが停まっており、前輪部に元自転車らしい残骸が引っ掛かっている。

 晴美はその自転車に見覚えがあった。

 形はひどく変わっているが間違いない。あれは間違いなく、平井が乗っていた自転車だった。

 晴美はパッとテープをくぐり抜けると、見張りが止める暇もなく飛び出して刑事の男に掴み掛かった。

「平井君は? 平井君はどうなったの!」

 突然のことに刑事はギョッとして、

「な、なんだお前は!」

 周囲にいた見張りの警官が慌てて集まってきた。

「お、おい君、何やってる!」

「離れるんだ、ほら!」

 腕や方を掴んで引き離そうとする。だが晴美も必死に襟元を掴んだまま、

「平井君! 平井君はどこ! 生きてるの、生きてるんでしょ! ねえったら――」

「おい、あんた……」

 不意に呼びかけられて、晴美はふと我に返った。

 見れば、刑事と一緒にいた中年男が緊張した面持ちでこちらを見ている。

「平井ってのは白衣着てた男か? 二十歳くらいの……」

「ええ、そうよ」

「それじゃ平井って名前だったのか。俺が轢いちまったのは……」

「……何ですって?」

 轢いた? この人が、平井君を? ……そうだ、考えてみればこの人が轢いたに決まっている。――そうか、こいつが……。

 冷めかけていた頭に一気に血が逆流した。

「平井君を返せ!」

 晴美は牙をむいて男に飛び掛った――が、これは周りの警官たちが押さえつけた。

「だから落ち着けと言ってるだろうが!」

「放してよ! 放せ!」

 晴美は完全に周りが見えなくなっていた。

 振り放そうともがきながら、それでも目だけは男を睨みつけて放さない。

「ち、ちょっと待ってくれ」

 あまりの剣幕にたじろぎながらも男は言った。「落ち着け、とりあえず落ち着け。確かにその平井って奴を轢いたのは俺だ。でもあいつだって悪いんだ、チャリンコのくせにいきなり角から飛び出してきて……それに、そうだ、俺はあいつを轢いたけど、轢いたのは自転車だけだ。俺はあいつを轢いてないんだよ!」

「なに訳分んないこと言ってんのよ!」

「いや、その人の言ってることは本当だよ」

 自分の服の乱れを直しながら刑事が言った。「だから俺もどうしたもんか困ってるんだ」

「そんな出鱈目を――」

「出鱈目じゃない。説明してやるからとりあえず落ち着け」

 晴美は刑事を見た。どうやら嘘を言っているわけでもなさそうだ。

 力を抜くと、押えていた見張り達は警戒しながらも手を放した。

 刑事は眉間に皺を寄せながら軽く息をつくと、持っていた手帳をパラパラめくりながら、

「この人が言った通りだ。ドライブレコーダーもさっき確認したんだがね。あんたの言う平井君とやらは確かに轢かれたはずなんだが、実際は轢かれてない」

 晴美は眉を寄せた。

「どういう意味? それ」

「つまりな……いや、ここはこの人にもう一度話してもらったほうがいいだろう」

 刑事に促されると、中年男はためらいながらも説明を始めた。

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