彷徨えるマネキン人形(6/9)

 それから三週間ほど経ったが、その間高瀬博士からの連絡はなかった。

「一体どうしたんだろう、博士」

 平井は机に肘を突き、ぼんやり空を見上げながら言った。

「別に気にすることないでしょう」

と、晴美は言った。「あの博士だもの。心配なんかしていたら切りがないわよ。もしも何かあったのなら教授が教えてくれるはずでしょうし。元々はあっちの知り合いなんだから」

「そりゃそうなんだけど……。なんか、呼び出されないとそれはそれで張り合いがないんだよなあ……」

 平井は軽く溜息をつくと、のそのそ立ち上がった。

「どこか行くの?」

「ちょっと教授の書斎に」

「博士のこと訊きに?」

「いや、単位の相談」

 そう言いながら平井は研究室を出て行く。

「呼び出される時はあんなに迷惑がるのに。変なの……」

 見送りながら晴美は首をかしげた。


 教授の書斎は十三番研究室の隣にある。

 今日は久し振りに用事もないし、講義が終わったら博士の様子でも見てこようかなあ。

 平井はそんなことをぼんやり考えながら扉を軽くノックして取っ手を回した。

「失礼します……あれ?」

 誰もいない。てっきり返事が聞こえたと思ったんだが……。

 ひょっとすると資料室のほうにいるんだろうか、と平井は思った。教授の書斎は廊下以外にも試料庫や資料室につながっているのである。

 ついでに説明すると、教授の書斎は大体十二畳ほど、研究室の三分の一位の広さだ。

 一番奥に鼠色の事務用机があり、その両脇の壁は本棚で埋まっている。手前には接客用のテーブルとソファが置かれている。資料室につながる扉は廊下側から見て右側にあり、試料庫は左側。そのすぐ傍には妙なポーズを取ったマネキン人形が置いてある……。

 ――マネキン人形?

 平井は思わず自分の目を疑った。

 部屋の隅に見覚えのあるマネキン人形が立っていた。

 微笑を浮かべじっとこちらを見ている。

 間違いなく、高瀬博士の実験室にあったマネキン人形だった。

「何故これがこんな所に――」

と言いかけて平井は言葉を切った。

 ふと、アーチボルト・クリスティーの事例を思い出した。

 そして、あの時の晴美の言葉。

「理論が正しければ、マネキン人形だけじゃなく高瀬博士も消えるんじゃない?」

 ある光景が脳裏に浮かんだ。

 高瀬博士の屋敷。

 博士とマネキン人形が実験部屋の中にいる。

 しばらくの間は何も起こらないが、突然部屋全体に空間の亀裂が走り、高瀬博士とマネキン人形が消えてしまう。

 その後しばらくしてマネキン人形だけが突然この教授の書斎に現れる。

 マネキン人形は別の裂け目によって奇跡的にこちら側へ戻ってこれたのだ。

 だが、高瀬博士のほうは未だに――。

 だから、連絡がなかった。

「大変だ……」

 平井は背筋がゾッと凍りつくのを感じた。

 弾けるように廊下へ飛び出す。

 晴美が研究室から顔を出した。

「どうしたの? そんなに慌てて」

「マネキンだ! 博士が消えたかもしれない!」

「え、何ですって?」

「とにかく博士の屋敷へ行ってくる!」

「あ、ちょっと……」

 平井はあっという間に行ってしまった。

 晴美は半ば呆然としたまま見送っていたが、そこへ、、

「何の騒ぎだね」

 背後から声を掛けられて晴美が振り返ると、教授が試料庫から出てきたところだった。

「教授。いえ、ちょっと平井君が飛び出して行っちゃって……」

「平井君が? 一体何があったんだね」

 何があったと言われても、晴美だってほとんど状況が分っていない。

「それがどうも、高瀬博士が消えたとか――」

 そこまで言って晴美は言葉を切った。

 教授に続いて、高瀬博士本人が試料庫から出てきたのである。

「高瀬君がどうかしたのかね」

 教授は高瀬博士を一瞥してから言った。

 高瀬博士はきょとんとして、

「私が何と同化したのかね」

 晴美は混乱した。

「いえ、だから、その……とにかく、平井君は高瀬博士の屋敷へ行くと言ってました。それから、マネキン人形が出たとか何とか……」

「マネキン? ――ああ、書斎にあるのを見たんだな」

 教授は頷くと高瀬博士のほうに顔を向けた。「そういえば私も気になっていたんだ。一体何なんだね、あれは」

 高瀬博士はオホン、と一つ大きな咳をしてから言った。

「あれは全人類の科学における歴史的な発見のための尊い犠牲者でな。見た目はただのマネキンだが、体内には高性能発信機が埋め込まれており、見間違わないように私のサインも入っている。……だがなかなか効果を現れなくてな。そこで少々気分転換をさせようとここまで連れてきたのだ」

 何を言っているのか、もう晴美にはついていけなかった。

「どうやら平井君は何か早とちりしちゃったみたいですね。……よく分んないけど」

「なに、早とちりしたのか」

 高瀬博士は呆れたように首を振った。「いかんな。いついかなる時も冷静な判断を必要とする科学者が早とちりとは。……全く困ったものだ」

 ……あんたが言うな。

 晴美はじろりと高瀬博士を睨んだ。

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