彷徨えるマネキン人形(5/9)

「あら、朝帰りね」

と、晴美は言った。

 てっきり誰もいないと思っていた平井は少し驚いて、

「あれ、まだやってたのか」

「ええ。なんか調子が出たものだから」

 平井が戻ってくるのを待っていたら朝になった、なんてことはもちろん言わない。

 現在、午前六時を少し回ったところ。外からは早くも鳥の声が聞こえてくる。

「さて、実験の残りやらないと……」

 白衣に袖を通すと、平井は欠伸をかみ殺しながら机の前に立った。試験管を一本一本持ち上げて凝視する。「あーあ、やっぱり全部やり直さないと駄目か」

「そういえば今回はどんなのだったの? 博士の話」

 晴美が尋ねると、平井は頭を掻き毟りながら、

「ああ、ええと……神隠しが宇宙のせいで起こるって話だった」

 晴美はポカンと口を開けて、

「何? それ」

「つまり……」

 ――詳しい内容を聞くと、晴美はさもおかしそうに笑った。

「そういうこと。いつもながらすごいこと思い付くわね。……それで、それからどうしたの?」

「それからかい? 訊いてもいないのに『我々の空間の裏側にある未知の空間の存在を証明する』って言い出してね」

 平井は肩をすくめた。「アーチボルト・クリスティーって人、知ってるかい」

「アーチ……誰ですって?」

「アーチボルト・クリスティー。二十八歳、会計士のA国人女性。一九五九年に旅行先のTホテルで部屋に戻る所を目撃されたのを最後に突然の失踪。荷物は全て部屋に残されており、暖炉の火も点いたままだった。何らかの事件に巻き込まれたものとみて地元警察が捜査に乗り出したが結局その行方は分らないまま迷宮入り。だがその三年後、彼女はU国L州、Yホテルの一室で発見された。ほとんど言葉も喋れないほど衰弱し切った状態で、その髪は恐怖のためか老人のように真っ白に染まっていた……だったかな、確か」

「よく覚えたわねえ、そんなの」

「そりゃ、一晩で何度も聞かされたからね」

と、平井は言った。「それで、博士によればこれは未知の空間の存在を示す絶好の事例なんだそうだ。彼女はTホテルで空間の裂け目に引き込まれて、空間の裏側を三年もの間彷徨ったあと、別の裂け目によってこちら側へ引き戻されたに違いないらしい」

「髪の毛が白くなったのは?」

「空間の裏側がそういう環境だから、だってさ。恐怖で髪が白くなるって話も聞くし、それもあるのかも」

 平井は首を振った。「で、ここまでで理論説明は一通り済んだんだけどね。その後実験部屋ってとこに案内されて、今までずっとそこにいたんだ」

「実験部屋? 博士の屋敷にそんな部屋あったっけ?」

「いや、実験部屋って言ってもここみたいな器材を揃えたわけじゃなく、あくまで高瀬博士の理論を証明するための部屋さ。客室の一つを改造した即席の実験室で、テーブルや椅子なんかの家具が片付けられただけでほとんど元の部屋と変わりはない。変わってるのは冬でもないのにストーブが点いてたのと、部屋の中央にマネキン人形が妙なポーズで立ってたこと。それから、天井から無数のU字磁石が糸で吊るされていたことくらい」

「十分変な部屋だわ」

と、晴美は言った。「そんなののどこら辺が実験なのよ」

「博士独自の調査結果によると、アーチボルトさんが失踪した時と発見された時は温度、湿度、圧力その他すべての状態が同じだったそうなんだ。だから、実験部屋をその時と同じ状態にすれば空間の歪みが発生してマネキン人形を空間の裏側へ飲み込むに違いないっていう理屈らしい。もしマネキン人形が消えたら博士の理論が正しいことの証明になるってわけだ」

 晴美は首を傾げて、

「わかるようなわからないような……。でも、磁石は?」

「磁場を狂わせたほうが空間の歪みが生じやすそうだからだって」

「博士のほうが狂ってるんだわ」

と、晴美は率直な感想を言った。

「まあ、そりゃね……」

 平井は笑いながら軽く肩をすくめたが、少し不安そうな顔をした。「でも、ちょっと心配なんだよな」

「何が?」

「博士、マネキン人形が消えるまで二四時間体制で監察するつもりらしいんだ。いい年なんだから無理して倒れたりしなきゃいいんだけど」

「監視カメラとか使わないの?」

「博士曰く、レンズ越しの映像は必ずしも真実を見せてはくれないらしい」

「いやいや。映像で残さなきゃ証明にならないでしょうに」

と、晴美は呆れたように言ったが、ふと何かに気付いた様子で、「あら、まずいわ」

 平井が、

「何が?」

 晴美は壁の時計を指差して、

「時間」

「時間?」

 平井も時計を目をやって……一気に青ざめた。

 話に夢中になっていた間にすっかり時計の針が進んでしまっている。

「や、やば、早くしないと」

 平井は大慌てで実験を再開した。晴美のほうも使っていた器具の片付けに入る。

 しばしの間、研究室からはガラスや金属の容器のカチャカチャいう音だけが聞こえていた。

「――ねえ」

 器具を棚に戻そうとしていた晴美が思い出したように言った。

 平井は試料を慎重に秤量していたが、

「何だい?」

「博士、監視カメラなしで観察するのよね」

「ああ」

「てことは、ずっと実験部屋にいて観察してるってことよね?」

「そうだけど、それがどうかしたのかい?」

「思ったんだけど……もし本当に理論が正しかったとしたら、人形だけじゃなく博士も一緒に消えちゃうんじゃない?」

 平井は手を止めて、晴美のほうを向いた。

 晴美は続けて、

「もっとも、あの博士なら空間だろうが平気で戻ってきそうだけどね」

 そう言いながら笑うと、棚の戸を閉めて次の作業に移る。

「ああ、確かに、ね……」

 平井は笑おうとしたが、どうも上手く笑えなかった。

 もちろん、平井だってあんな理論が正しいとは思っていない。

 だが、平井は一抹の不安を覚えた。

 そしてその不安は現実のものになったのである……。

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