彷徨えるマネキン人形(4/9)
「そこで問題になるのがその資料だ」
だんだん興奮してきたらしく、高瀬博士はパイプを持つ手を小刻みに動かし始めた。「そのリストに載っている内のほとんどには特筆すべき点はないのでこの場でいちいち取り上げる必要はない。だがその中のいくつかには実に興味深い点があるのだ。例えば……山村希明というのがリストにあったろう」
いきなり振られて平井は慌てて紙束をめくった。
「――ああ、ありますね。ええと、山村希明……日本人男性、九歳、学生。二○○六年八月二四日、下校途中……」
「そう、それだ」
高瀬博士は腕を組んで頷いた。「その子供はN県のT小学校に通っていた。中川徹という仲のいい同級生がいて、家も近かったことからいつも一緒に帰っていた。問題の二四日もやはり二人で小学校を出たのだが、実際家に帰り着いたのはどういうわけか中川一人だった。驚いた保護者達が中川に事情を尋ねると『帰り道の途中で煙みたいにパッと消えてしまった』と言う。すぐに大捜索が行われたが全く成果はなく、人通りが多い場所だったにも拘らず有力な目撃証言も何一つ得られなかった。その後その子供の行方は未だもって分っていない。……どうだね。君はこれをどう考えるかね?」
「どうと言われても……。不思議だとしか言いようがありませんが、さっきの空間の話と何か関係がある……ということなんですよね?」
「そうだ、その通りだ!」
高瀬博士は突然立ち上がると目の前を払うようにパイプを振り回した。
その勢いで火の点いた煙草が飛び出してボトッと絨毯の上に落ちる。
「わあ!」
平井は慌てて飛び出すとあたふたと火の粉を踏み消した。
幸い絨毯に豆粒ほどの焦げ跡を残しただけで火は治まった。
が、高瀬博士はそんなことには全くに掛けていない。
それどころか平井が飛び出したのにさえ気付かない様子で、
「もし空間が歪み裂け目が生じればどうなると思う? そこは原子どころか真空さえも存在しない、とてつもなく不安定な状態となる。自然の摂理として、不安定な状態というのはできるだけ安定した状態に戻ろうとする。周囲とのエネルギー差を考えれば、裂け目が生じてから消滅するまでの間はほんの一瞬と考えていい。つまり空間は人間の目では捕えられないようなスピードで開閉を繰り返しているのと同じなのだ。しかし見えないからといって影響がないわけではない。もしも運悪く生命体の存在する空間が破けてしまえば、その生命体は閉じようとする空間に巻きこまれ、空間の裏側に弾き出されてしまう。……ここまで言えば、私の言いたいことは分るだろう?」
「言いたいことですか? ええと……」
いきなり振られて平井は戸惑った。何とか答えようと必死に今の話を頭の中で整理する。
「つまり……その少年は空間の裏側へ引き込まれてしまったとか――そういうことですか?」
高瀬博士は満足げに頷いた。
「そうだ。あの子供は空間の裂け目に引き込まれてしまったのだ。他には考えようがない。違うかね?」
「あ……はい」
平井は曖昧に頷いた。
高瀬博士は悦に入った様子で煙草の入っていないパイプをくわえたままあらぬ方向を見上げている。
どうやら話はこれで終わりのようだ。
高瀬博士の話をまとめると、「神隠しには空間の歪みが関係している」ということらしい。いつものことながらそんなことを言うために今まで長々と話し続けたのか、と平井は軽く肩をすくめたが、ふと壁に掛けられた年代物の柱時計に目をやって思わず飛び上がりたくなった。
ここにきてからまだ一時間も経っていない。窓の外を見ると、地平線にはまだかすかな夕焼けが覗いていた。
もしこれで話が終わりなら徹夜の実験は免れるかもしれない。
もちろん夜中まではかかるだろうが、その後三時間くらいは眠れるかも――。
だが、高瀬博士はパイプを取って再び平井のほうへ向き直ると、
「それでだな、つまり空間というものは……」
途端に平井の頭の中ではかない望みがガラガラと崩れていった。これからすぐ研究室に戻って実験を再開するという予定は無残に打ち砕かれ、あとはただ果てしなく真っ白……。
「聞いているのかね?」
と、高瀬博士の声がした。
聞こえてますよ、と返事を返しはしたものの、その自分の声は恐ろしく遠くに感じられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます